母が「気持ち悪い」と言った理由(1)
満月の夜の騒動がひと段落して、『千の実』に帰ってきたのは日付が変わる少し前だった。
“痺れ払い麻婆”の残りをスープ風にアレンジして、朧と一緒につつき、温かいスープで体の中から冷えを追い出して。
「……今日は、寝ろ」
朧がそう言ったので、素直に頷いて布団にもぐり込んだのだけれど――
(……ねむれない)
目を閉じると、さっきの“階段の影”の声がよみがえる。
――“捨てられた記憶”とか。
――“母親の言葉”とか。
「“気持ち悪い”って言ってたのよ」
施設の先生がぽろっと言った、あの一言。
胸の奥に、じくじく残っていた古傷が……満月の光で照らされたみたいにうずき出す。
(……なんで、あの人は、わたしをすてたんだろう)
理由を、ちゃんと考えたことなんてなかった。
考えても答えが出ないって分かっていたから。
でも今夜は、どうしてもそこから目をそらせなかった。
布団をかぶったまま、私はゆっくり目を閉じた。
意識を、少しだけ昔へ巻き戻す。
一番古い記憶は、白い天井だった。
消毒液の匂い。
遠くで鳴っているアニメの主題歌。
隣のベッドで泣いている子の声。
たぶんあれは、病院か何かだ。
私はまだ小さくて、この世界のことをほとんど知らなかった。
ただ、“見えてはいけないもの”が見えることと、それを大人が嫌がることだけは、なんとなく分かっていた。
「ねえ」
まだ幼かった私は、ベッドの横に立つ女の人の袖を引っ張ったことがある。
その人の顔は、ぼんやりとしか思い出せない。
茶色いコート。
長い髪。
口紅の色だけが、やけに鮮やかだった。
「ねえ、あそこにね、いるよ」
指をさした先には――
私には、誰か“いる”のが分かった。
窓と壁の隙間。
冷たい風が忍び込む小さな影の中。
お腹が空いた。
寒い。
誰か、ここに気づいて。
そんな声が、私の中を通り抜けていく。
女の人は、その指先を折ってその場所を見た。
その瞬間。
顔が、変わった。
驚いたように目を見開いて、次の瞬間、なにかを押し殺すみたいに口元を歪める。
「……やめなさい」
低い声だった。
「そういうこと言わないの。
ねえ、聞いてる?やめなさい」
「でも――」
説明しようとして、私の言葉は途中で切れた。
女の人が、まるで“汚いもの”を見るみたいな目をしたからだ。
その“汚いもの”が、私に向いているということだけは、はっきり分かった。
その夜の記憶は、そこで途切れている。




