魔王
ニヒルが驚いたのは魔王が此処に居ると言う事実の他にもう一つ。異形の怪物。魑魅魍魎の長。身の丈は五メートルを超え、下顎からは鉄をも砕く牙が生え、魔眼は数秒見つめると死に至り、竜の翼を持ち、エルフのような叡智を持ち、この世の理を彎曲させるだけの力を有した者だとーーそう書物に綴られて居たゼ=アウルクだが、目の前の彼女はニヒルが想像していた魔王とは程遠い容姿をしていた。
黒い布地に白と金で華の刺繍をした民族衣装ーー着物に良く似ている服を身に纏った彼女の長い銀髪は艶やかで、体付きは華奢と言う言葉が良く似合う。額から伸びる二本の捻れた短い角を除けば、長いまつ毛に高い鼻、目が大きい彼女ーーゼ=アウルクは美少女の表現が最適だろう。
第一印象から感じたのは到底、彼女が世界を揺るがす大厄災の権化とは思えないと言うことだった。
ニヒルが見蕩れと恐怖の狭間でゼ=アウルクを見つめていると、ひらりと降りてきたゼ=アウルクは細い人差し指でニヒルの左胸を軽く叩いた。
ーートンッと言う衝撃が伝わり、ニヒルの意識はやっと正常を取り戻す。
「……ッ。あ、ああ僕の名前はニヒル。一応、転移者と転生者の間で産まれたんだけど……所謂、欠陥品って奴でさ。今しがた、家族に捨てられて死にかけているって感じかな。ーーあ、いや。もう死んでるのかも……? は、はは、はははっ」
ーー否。不意に自己紹介を魔王相手にする辺り、まったく正常ではなかった。
ゼ=アウルクはニヒルの引き攣った笑みを透き通った青い瞳で映すと溜息を一つ。
「そんな事はしっておるよ。うぬの事は、うぬと同等に。……そして、うぬの両親以上に知っておる」
「そう、なの?」
「うむ。では、うぬの疑問に応えるとしよう。朕が何故、此処に居るのか。だったの?」
ゼ=アウルクが地面に手をかざすと二つ椅子が現れ、ニヒルに視線で座るように促した。
「此処は残念ながら死後の世界ではない。神は、うぬにまだ終わりを告げてはいないようじゃな」
「じゃあここは」
「此処は端的に言えば、うぬーーニヒルの精神界じゃ。魂の部屋と例えるのが正しいかのぅ。つまり、うぬと朕は今、瞬間移動等を経て物理的な干渉をしたのではなく。うぬの精神界で魂ーーつまり、霊体として干渉しておるんじゃな」
駄目だ、まったく分からん。
「気難しい顔を見る辺り、ぜんぜん理解できておらぬようじゃな。しかし、まあよい。別に知ってようが知らなかろうが、さして影響はないからの。ここからが本題じゃ」
「本題?」
ニヒルが改めてゼ=アウルクと視線を交えると、彼女は短く頷いた。
「うぬはまだ死にたくないじゃろ? やり残した事があるのじゃろ?」
ーーやり残した事。問われ、ニヒルは迷うことなく頷いた。力強くゼ=アウルクを見つめる双眸に決意を宿して。
「よかろう。ならば、ニヒルよ。朕と契約し、その体を貸すんじゃ。さすれば、朕がこの窮地を見事、脱してみせよう」