ダブルダウン・イーグル
断り書き
『ダブルダウン・イーグル』は、孤児として育った少年がテニスを通じて成長し、世界の舞台で自らを証明するフィクションの物語です。実在の人物や団体、イベントとは一切関係ありません。物語は孤独、努力、絆をテーマに描かれており、スポーツの感動と共に人間の内面的な葛藤や希望を表現しています。一部、孤児としての境遇や感情的な描写が含まれますが、特定の個人や状況を批判・揶揄する意図はありません。テニスの試合描写はリアリティを追求しつつ、物語性を重視しています。テニスに詳しくない方でも楽しめるよう心がけました。どうぞ、鷹城シドウの旅をご一緒に。ご感想やご意見は、ぜひコメント欄でいただければ幸いです。
プロローグ:東京の片隅で
2007年、東京の下町の古びた孤児院で、鷹城シドウは生まれた。両親の記憶はなく、無機質な壁と厳格な規則の中で育った。シドウは人と関わるのが分からない少年だった。仲間が笑い合う姿を見ても、羨ましいとは感じない。「ああいうのがいいんだろうか。両親のいない自分は、他者との会話が欠落している」。孤独は、理解できない人間関係からの逃げ場だった。14歳の時、物置で埃をかぶったテニスラケットを見つける。本当は対戦相手すらいらないゴルフクラブに憧れたが、施設にあったのはテニスラケットだけ。「一人でできるなら、これでいい」。シドウはラケットを手に取った。
第1章:ラケットと手紙
シドウはテニスを知らなかったが、コンクリートの壁にボールを打つ感触に心が落ち着いた。ボールが跳ね返る音が、欠落した会話を埋めるようだった。テレビで西岡圭のウィンブルドンでの戦いを見て、プロテニスプレイヤーに憧れた。「届かなくても、刻んでおきたい」。15歳の時、何気なく手紙を書き始めた。孤児院の薄暗い部屋で、シドウはノートに書く。「僕はこの間テニスを始めました。壁に向かってテニスボールを打つのは楽しいです」。宛先は西岡圭。携帯やスマホを望まず、僅かなお小遣いは切手代や飲み物代に消えた。毎月決まって封筒に切手を貼り、ポストに投函。返事は期待しない。手紙は独白のような逃げ場だった。2022年、1年以上毎月手紙を書き続けたある日、孤児院に段ボール箱が届く。差出人は西岡圭の地元テニスクラブ。中古のラケット、ボール、擦り切れたグリップテープが入っていた。クラブ代表の直筆の手紙には「西岡選手からの依頼で、子供たちに使ってほしい。手紙はもう必要ありませんよ」と書かれていた。シドウはくすっと笑う。「毎月の手紙、めんどくさかったのかな? それとも、僕が負担にならないように考えてくれたのか」。西岡の気遣いに胸が温まる。視野の広さ、子供たちへの行動理念、フットワークの軽さに尊敬を感じた。「プロって、こういう人なんだ」。シドウは西岡とクラブに毎月2通の手紙を書き始めた。「ありがとうございます。いただいたボールとラケットで今日も壁に向かってボールを打ちました」。孤児院では珍しくバイトが許されず、金銭的負担は自身で解消する術はなかった。両親のいない未成年者の制限とはそんなものだろうと諦めていた。配られたカードで壁に向かって何時間でもボールを打ち続けた。積極的な後見者はいない。だがシドウは不満ではなく感謝を示さずにはいられない。施設の窓から東京の空を見上げ、呟く。「住む所とご飯がいただけるだけで、本当にありがたい」。国や施設への敬意が心を支えた。テニスは孤独な逃げ場であり、限られた資源で夢を追い続ける手段だった。
第2章:二人との出会い
16歳から18歳にかけて、シドウは参加できる試合に挑んだ。ITFジュニアツアーの近場大会に出場し、関東圏の大会でセットを失わずに優勝、ITFジュニア東京大会で連覇を果たす。だが、資金不足で遠征費がかかる国際大会は棄権せざるを得ず、ジュニア世界ランキングは50位前後で停滞。ジュニアツアーでの勝利しては次の大会を棄権する、そんな歪な実績は、「棄権なのに強い子」として知られたが、棄権の多さが足かせだった。西岡とクラブへの手紙は続けた。「僕は元気です。いただいたボールとラケットで今日も壁に向かってボールを打ちました。それからこの前初めて大会に出ることができました」。戦術は学ばず、現場で対戦相手から吸収した。並外れた体力とシンプルなショットの正確さが特異点だった。18歳の年、シドウは孤児院を出なければならなかった。職員から就職活動を勧められ、工場勤務の求人票を渡される。「安定した仕事に就きなさい。テニスは趣味でもできる」。シドウは反発せず、静かに受け入れる。「はい」と二つ返事で退去に備える。ただ、心の中でテニスへの憧れは残っていた。「一回だけ、テニスプレイヤーに挑戦したいな」とふと思う。自身の岐路を前に、テニスへの没頭がさらに強まった。4月に施設を出て初めて、職員から電話がかかってきた。「テニスで何か照会されたよ。ジュニアツアーの実績で『ジャパン・チャレンジカップ』に推薦。たぶん出れるよね?」。シドウは目を輝かせる。「大丈夫です」。西岡からもらったラケットを握り、「ここで結果を出せば、もしかして」と自分に言い聞かせる。2025年5月、シドウは圧倒的な体力とシンプルなショットで勝ち進み、決勝でランキング上位のプロを5-7、6-4、7-5で破り、最年少優勝を果たした。試合後、日本に来ていた全英テニス協会の裁定委員、サー・スコット・エリオットが通訳を介して話しかけてきた。「私はギャンブルが好きだ。君のテニスは賭ける価値がある」。ウィンブルドンへの特別ワイルドカード招待を裁決。「どこでテニスを学んだ? 170cmの体格で、よくあそこまで戦えるな」。シドウは何となく言っていることが理解できたが、通訳を通じて答える。「孤児院の壁で、独学です。両親はいないので、自分でやってきました」。悲観しない姿勢に、サー・スコットは驚きながら頷く。「君の勇気は本物だ。170cmでも立ち向かう姿は、テニス界に風を巻き起こすぞ。ウィンブルドンに来なさい。渡航費も私が独断で出す」。シドウは目を丸くする。「本当ですか? ありがとうございます」。素直に謝意を示し、深く頭を下げる。
その直後だった。会場で、蒼山製薬の宮代理子(22歳)が声をかけた。「うちの会社で、若い選手にアクレイドを提供できます。未来あるアスリートへのプレゼンス。鷹城君、ぜひ受けて欲しい」。若い選手のサポートは会社の方針だが、金銭サポートは限られる。シドウは「ありがたいです」と即答。金銭サポートの話題が出ると、シドウは静かに言う。「実は僕、両親いないんです。だから金銭サポートは諦めています」。宮代は驚きつつ、平静を装って励ます。「業界では20歳以下の未成年との契約は両親を代理人とするのが一般的だけど、裁判所に認められた指定後見人を代理人に金銭契約を結ぶこともあるんだよ。子役とか海外のスポーツ選手とか聞いたことある。だから諦めなくて全然大丈夫」。シドウは目を輝かせ、喜ぶ。「本当ですか? いつか…西岡選手みたいな人になりたい」。宮代に西岡への憧れを話し、宮代は微笑む。「その気持ち、いいね。絶対いいと思うよ」。優勝した瞬間、若く素晴らしい選手だという根拠はあったがそれ以上に激励したくなった。宮代は話しかける前と話した後の気持ちの変化に高揚を隠せなかった。逸才ってこの子のことだと、確信した。
第3章:宮代理子の決意
宮代理子は、片親で育った。母子家庭の狭いアパートで、母が夜遅くまで働く背中を見て育ち、スポーツを諦めた過去があった。商業高校に進み、大学で奨学金を受けつつ就職を決めた。シドウの試合を見て、孤独に戦う姿に自分の影を見た。シドウの両親不在を知った時、ああと胸が締め付けられたが、すぐには行動に移せなかった。彼女の心は揺れていた。シドウのウィンブルドン出場が決まり、宮代は会社に金銭サポートを提案したが、東京の本社で上席の瀬川部長に詰められた。「1人にセンシティブになる必要がどこにあるんだ? 宮代、1人ではなくスポーツ全体をサポートする。忘れるな」。テニス経験者である部長は、彼女と鷹城を厳しく突き放す。「鷹城君は確かに逸才かもしれない。だが、会社の方針だ」。宮代は反論する。「鷹城君は孤児院出身で、資金も後ろ盾もない。それでもジャパン・チャレンジカップで優勝したんです。招待されていた裁決委員が激賞したとの事です。我々がウィンブルドンで戦う彼をサポートするのは、会社の方針に合致します」。部長は冷たく答える。「情熱はわかる。だが、ルールだ」。宮代は食い下がる。「ではラケットやウェア費だけでもサポートできませんか? 彼には些少でもサポートが必要なんです。部長、お願いします」。部長は渋々頷く。「じゃあ一度限りだ。ウィンブルドンは白いウェアに限る。そこだけサポートしろ、ラケットまではメーカーからアクションがない限り関与するな」。宮代は小さく頭を下げ、内心で意地を燃やした。鷹城を支えるのは、会社のためではない。鷹城自身のためだった。
アスリート支援が始まると、宮代は鷹城に渡英に必要な英語を教えた。彼女の大学の学科は国際科、専攻したのは英語の中でも英国英語で、いわゆるクイーンズ・イングリッシュだった。ウィンブルドンのメディア対応、選手間の挨拶、入国手続きを想定した英語の演習を行った。例えば、入国審査の場面を想定し、宮代は真剣な口調で指導する。「入国の目的はなんですか?―What is the purpose of your entry?」「未成年は何らかの許可が必要です―Minors need some kind of permission。」シドウは答える。「テニス協会の招待状を持っています―I have an invitation from the Tennis Association.」「公式のものです、間違いありません―It’s official, no doubt.」シドウは驚くべき速さで吸収し、宮代は「天性としか思えない」と驚いた。指導はオフィシャルな会話だけではなかった。宮代は時折、少しだけ恥ずかしそうに笑ってまるで家族のような優しい問いかけを織り交ぜた。「昨日は何時に寝ましたか?―What time did you go to bed last night?」「よく眠れましたか?―Did you sleep well?」宮代は少し照れながら笑顔で尋ねた。「昨日何を食べましたか?―What did you eat yesterday?」こうした温かい言葉に、シドウは心を和ませた。昨日は牛丼を食べました―Yesterday I had a beef bowl.仲間との会話に深い意味を見出さなかったシドウにとって、宮代とのやり取りは新鮮で、どこか心地よかった。一方で、こうした優しさに触れるうち、シドウは宮代の微笑みに微かな不安を感じ始めた。自分でも驚くことに、感情が揺れ動いていた。「宮代さんに甘えてはいけない。」仕事の延長線上の関係だと自分を抑え、シドウは感情を押し込めた。それでも、英語指導を通じた会話は続き、「昨日はよく眠れましたか?―Did you sleep well yesterday?」「明後日が初戦、いかがですか?―The first match is the day after tomorrow, right?」「準備はいい?―Are you ready?」「もちろん、大丈夫です―Of course, I’m always ready.」とやり取りを重ねた。シドウは「未成年」という言葉が出るたびに不安そうに確認し、宮代は「問題ないよ、君は大丈夫―No problem, you’re fine」と励ました。
渡航間近、シドウの不安はピークに達した。東京の小さなアパートで、宮代と最終確認の打ち合わせをする。机にはアクレイドのボトルと、シドウが持参した西岡からもらったラケット。シドウは目を伏せ、静かに呟く。「17歳の未成年の僕が、成年者も伴わず英国まで行けるのか…本当にウィンブルドンに行ってもいいのでしょうか」。その声には、夢の大きさと自身の境遇のギャップが滲む。宮代は一瞬言葉を失うが、シドウの真剣な目に胸を打たれる。「大丈夫だって、鷹城君。君の英語、めっちゃいいよ。ウィンブルドンでも絶対輝ける」。だが、宮代の心は揺れていた。シドウの孤独を知るからこそ、彼を一人で行かせたくなかった。彼女は深呼吸し、決意を口にする。「私も帯同するよ。なんとかするから。一緒にウィンブルドンに行こう」。シドウは驚き、目を上げる。「本当ですか? でも…」。言葉を飲み込むシドウの表情に、宮代はさらに意を決める。「君は一人じゃない。私がサポートする。会社にも掛け合ってみるよ」。宮代は会社に帯同許可を申請した。会議室で、瀬川部長と向き合う。彼女は資料を手に、熱を込めて訴える。「鷹城君は17歳で、代理人もいない未成年です。ウィンブルドンは世界最高峰の大会。彼をサポートするのは、会社の社会的責任にも繋がります。私が帯同すれば、英語指導も継続できるし、彼の精神的な支えになれるはずです」。瀬川部長は眉をひそめ、冷たく返す。「宮代、君の熱意は認める。だが、男女二人の渡航はリスクだ。未成年者の海外挑戦はサポートするが、君の帯同は認められない」。宮代は食い下がる。「でも、彼には誰かが必要なんです! 私が…」。瀬川部長が遮る。「感情的になるな。会社としては、男性社員の行家を帯同者に指名する。彼は28歳で、海外勤務経験もあって冷静に対応できる。未成年者のサポートは同性で行家のほうが適切だ」。宮代は唇を噛む。シドウを直接支えたいという想いが、会社の現実的な判断に押し潰される。彼女は内心で葛藤する。帯同は認められたがそれは自分ではなかった。シドウの夢を信じたかったのに、自分の立場では限界がある。渋々承服するが、胸の奥で悔しさが渦巻いた。その夜、宮代はシドウに電話で伝える。「鷹城君、会社が…行家さんを帯同者に決めたよ。私じゃなくて、ごめんね」。シドウは静かに答える。「宮代さん、実は僕も会社に連絡しました。瀬川部長に少しだけお話を聞いてもらって…思い上がりかもしれないんですが、僕が男で宮代さんが女性で、男女で英国に行くのは余り良くないと思います。もし帯同していただけるなら、どなたか男性社員にお願いしたいって…言いました」。宮代は息を呑む。17歳の少年のナイーブな配慮に、驚きと尊敬が混じる。「鷹城君…そんなこと考えてたんだ」。シドウは続ける。「宮代さんに甘えてはいけないと思ったんです。僕、ちゃんと自分でやらないと。宮代さんのサポートは、こうやって話してるだけで十分です」。シドウの大人な自制心に、宮代は胸を打たれる。彼女は涙を堪え、笑顔で言う。「わかった。行家さんが一緒でも、私、絶対応援してるから。ところでさ、新しいラケット、メーカーから話来なかったね」。宮代は関与するなと言われていたラケットの件だが、知り合いにキットスポンサーになれないかと打診していたが見送られていた。招待選手の9割が初戦敗退するとけんもほろろだった。それでも瀬川部長から許可が出たと新しいラケットを3つ一緒に購入した。シドウを本気でサポートする決意は、会社の方針や自分の立場を超えて、固く心に根を下ろした。
第4章:ウィンブルドンへ
全英テニス協会がシドウを2025年ウィンブルドンの特別ワイルドカードで正式招待した。その背景には、サー・スコット・エリオットの強い後押しがあった。ある裁決委員会の会議で、委員の一人が疑問を呈した。「なぜあのような痩せた少年をウィンブルドンに招くのでしょうか?」競馬サロンに出自を持ち、テニス界でも影響力を持つサー・スコットは穏やかに答えた。「親のいない馬を見たことはあるかな。大抵は乳母が付けられるが、どの馬も攻撃的になったり、気性が荒くなったりしがちだ。」委員は「はあ、そのようなもので」と頷く。サー・スコットは続けた。「あの少年は自ら孤児であると語った。しかしその目には、歪んだり負の印象を持つものではなく、特異といっていいほど素直な目をしていた。」「なるほど。」「テニスプレイヤーとしても素直で澄んだ動きをする。気に入った理由といえば、そこだ。あの目をしたものは走るぞ。」サー・スコットはそう言って鷹城を高く評価し、彼の招待を強く推した。その金銭支援により、シドウの渡航費が確保された。現地では、代理人不在のため、製薬会社社員の行家(28歳)が帯同し、宮代は日本から見守る。シドウは芝コートを初体験。戦術の知識はなく、対戦相手から現場で吸収した。初戦直前、会社から送られた新しいアクレイドが届き、行家が渡す。英国では売っていない。「宮代さんからだ。勝てよ。」白いウェアを手に、シドウは呟く。「ありがとうございます。」
初戦は世界ランク150位。0-2(3-6、4-6)から相手のサーブミスを吸収し、7-5、6-4、6-3でまさかの逆転勝利。試合後、シドウはホテルの部屋で興奮と過労で眠れない夜を過ごした。体は勝利のアドレナリンで震え、筋肉の過剰負担から脚がつり、痙攣が止まらない。行家は異変に気づき、部屋に留まる。「鷹城、大丈夫か? 落ち着けよ。瀬川部長から念押しされたんだ。宮子ちゃんの分までお前をちゃんと支えろって。」行家はベッドの端に座り、シドウの肩を軽く抱く。痙攣は左足から始まっていた。「俺でよかったのかもな。宮子ちゃんじゃ、こうやって肩抱いて落ち着かせるの、気まずいわ。」シドウは小さく笑い、震えながら言う。「…ありがとう、行家さん。こんなに体が硬直するの、初めてで…どうしたらいいかわからない。」行家はアクレイドのボトルを渡し、静かに飲ませる。「左足をかばうから次、右足来るぞ。全体的に力抜いとけよ、張った所は俺が触れとくわ。」スポーツ経験者の行家は、足の攣り程度なら対応できた。左足と対称に右手が硬直し始めた。行家が肩から右手を支え、擦る。不意に言いたくなったことがあった。「実はさ、勝ったから言うけど、宮子ちゃんがあのラケット、全部自腹で買ったんだ。会社は許可しただけ。彼女、お前のために少なくない金額支払ったんだ。」シドウの体が一瞬硬直する。「あ、まずった。言わんほうが良かった。けどさ、こんな招待選手が、しかも未成年で、21年ぶりに勝ち上がったって…本当に勝ってよかったな、鷹城。」行家の目が潤む。「…そんなことまで。」シドウは言葉を飲み込み、筋肉の張りとバランスを取りながら2時間ほど過ごすと、体がようやく落ち着いた。行家がほっと眠りについた横で、シドウは目を開けた。アクレイドを飲み、手紙を書くことにした。「僕は元気です。いただいたボールとラケットで今日も壁に向かってボールを打ちました。実はウィンブルドンに招待されました。」封筒に入れず、机に置く。孤児院の少年として名乗らず、壁に向かって打ち続ける一人の少年でいたかった。翌夜、歩行も困難と思われた体調は驚くほど回復した。行家は驚く。「おお、あの運動量をものともしないのか。これは両親に感謝した方がいいな、素晴らしいフィジカルじゃん。」シドウも同意した。「まったく、僕もそう思います。」強い身体は知らない内に両親から与えられたものだ。孤児である自分がここにいる理由を知ることは、深い感慨を呼んだ。そして再び手紙と向き合う。「僕は元気です。今日、勝ちました。楽しかったです。」試合前夜、溜まった手紙を見て呟く。「会ってお礼を言いたいな…これまでありがとう。」
2回戦:世界ランク80位。0-2(2-6、3-6)からスピンショットを吸収、6-4、6-3、7-5で逆転。
3回戦:シード選手(世界30位)。0-2(4-6、4-6)からネットプレーを吸収、6-3、7-5、6-4で逆転。
4回戦:シード選手(世界15位)。0-2(3-6、5-7)から芝の滑りを吸収、6-4、6-3、7-6(3)で逆転。 4回戦を終え、準々決勝を迎える中、シドウは大会期間中に18歳の誕生日を迎えた。孤児院から電話があり、職員が告げる。「シドウ君、誕生日おめでとう。20歳になった時、両親の所在と経緯を記した手紙が公開されるよ。望まなければ見なくてもいい。君には両親を知る権利があり、今のまま知らない選択もできる。手紙は裁判所の施設に保管されているよ。」シドウは淡々と答えた。「わかりました。」心の中で自問する。会いたいのか、会わないのか。会わない方がいいのか、会った方がいいのか。「理由はどうあれ、僕は迷惑な存在なんじゃないか。」居ないことが当たり前の存在が、もし存在したら…。シドウの頭にテニスのラリーが巡る。テニスも両親も、集中することで思考を加速させた。
準々決勝:世界10位。0-2(2-6、4-6)から5連続エースで危機を脱し、6-3、7-5、6-4で逆転。
準決勝:前年準優勝者。0-2(3-6、4-6)からサーブ&ボレーを吸収、6-4、6-3、7-5で逆転。
決勝:世界1位。0-2(4-6、5-7)から3時間40分の死闘。スライスとサーブを吸収、最終セット6-6のタイブレークを7-6(5)で制す。シドウのスライスショットが決まるたび、観客席は熱狂に沸いた。
ウィンブルドンの7試合は、170cmの小柄なシドウの体格をものともしない逆転劇の連続だった。サー・スコットは観客席で「この勇気は本物だ」と激賞。すべての試合を2セットダウンから逆転勝利し、観客は「ダブルダウン・イーグル」と呼んだ。サー・スコットは競馬サロン仕込みの笑みを浮かべ、呟いた。「『ダブルダウン』とは、賭け事で負けるたびに掛け金を倍にして挽回する一か八かの勝負だ。この少年は、2セットダウンから毎回賭けを倍にするように戦った。まさにイーグルだよ。」行家は観客席でアクレイドを持ち、宣伝も忘れて目を潤ませた。宮代理子とシドウの関係性に胸を打たれ、来れなかった宮代の想いも感じていた。シドウは感情を表に出さず、対戦相手の手を握りしめた。ガッツポーズも叫びもなかった。ただそれだけだった。
第5章:メディア室のインタビュー
優勝から1時間後、ウィンブルドンのメディア室は記者で埋め尽くされた。フラッシュが瞬き、カメラがシドウを捉える。18歳の鷹城シドウは、芝の汚れが残る白いウェアで、淡々と座る。トロフィーが輝く。記者たちは「もっと喜んでいいのに」と囁き合う。インタビュー前、スタッフが通訳の必要性を尋ねると、サー・スコットが笑う。「彼の英語は問題ない」。シドウの流暢さを褒めた。インタビュアーが興奮気味に質問する。「シドウ、18歳でのウィンブルドン優勝! ワイルドカードからの7連勝、すべて2セットダウンからの逆転は奇跡です! 例えば、ご両親にこの勝利を伝えたいことはありますか?」シドウはマイクを見据え、声を震わせて答える。「両親には特に…ただ、一番に謝意を伝えたいのは、宮代理子さんです。アクレイドをサポートしてくれて、英語を教えてくれて、ラケットをくれて、会社に掛け合って帯同者までも付けていただきました。僕を信じてくれた。彼女がいなかったら、僕はここにいない。彼女が…僕の家族みたいな人です」。淡々と謝意を説明したはずがシドウの目から涙が滲んだ。会場は静まり、拍手が沸き起こる。行家は観客席で目を潤ませ、宮代は日本のテレビ画面越しに涙を拭う。記者が慎重に再び口を開く。「シドウ、本当に両親には何も伝えなくていいの? 何か…伝えたい気持ちはない?」。横でサー・スコットが口を挟む。「今の質問は答えなくていい。誰か次の質問をして」。妙に強い口調で怒っているようだった。困惑した空気の中、シドウがやんわりと静止する。「大丈夫ですよ、サー・スコット。答えますよ」。一息つき、静かに切り出す。「僕は…孤児院。施設で育ちました。両親はいません。生まれた時から、親と呼べる人は誰もいませんでした。伝えたいことがあっても、相手がいないから…何も考えたことがありません」。部屋は静まり返る。インタビュアーは顔を曇らせ、言う。「シドウ、不適切な質問でした。本当にごめんなさい」。シドウは小さく首を振る。口元に笑みが浮かぶ。「孤児という存在は珍しくなく、よくあることです。なので、気にしないでください」。シドウの言葉にはウェットがあった。記者たちはシドウの丁寧さに頷く。インタビュアーは話題を変える。「シドウ、誰も頼らずにここまで来た。孤独だったでしょう? その気持ちを教えてください」。シドウはトロフィーを軽く見つめ、答える。「孤独? 寂しいですよ。夜のコートで一人、壁に向かってボールを打ってるとき、誰かいたらって思うこともあった。でも、落ち込むほどじゃない。僕は人と関わるのが分からなくて、テニスに逃げたんです。誰もいないから、自分で考えるしかなかった。それが僕を強くした。孤独は弱さじゃない。人間が自分で立ち上がる力の証明だ。僕には、それが人間讃歌みたいに思えるんです」。メディア室は静まり、拍手が沸き起こる。記者たちの目には涙が浮かぶ者も。インタビュアーが声を震わせて続ける。「シドウ、あなたの言葉は世界中に響きます。このトロフィーを手に、今の気持ちは?」シドウはトロフィーを手に取り、じっと見つめる。笑みはない。「このトロフィーは、僕が僕に勝った証です。誰かに認められるためじゃなく、自分を信じた結果です。それで、十分」。記者たちは拍手を送り、フラッシュが部屋を照らす。シドウは立ち上がり、メディア室を後にする。その背中は、孤独に逃げながらも、誇らしげだった。行家は観客席でアクレイドのボトルを抱え、微笑んだ。
エピローグ 帰国
シドウの優勝は日本中に衝撃を与え、「ダブルダウン・イーグル」として世界に名を刻んだ。全英テニス協会の若手支援、サー・スコットの後押しと金銭支援、宮代の献身が、誰も予想しない奇跡を生んだ。試合後、シドウはホテルの部屋で手紙を書く。「僕は元気です。いただいたボールとラケットで今日も壁に向かってボールを打ちました」。手紙は封筒に入れず、溜まった手紙の束に重ねる。「会ってお礼を言いたいな…これまでありがとう」。20歳で両親の手紙を受け取る日を心のどこかで意識しつつ、シドウにとって勝利は誰かのためではない。孤独に逃げ、孤独を力に変え、新たな感覚で未来を見据えた彼自身の物語だった。
ウィンブルドンの熱狂から数日後、シドウは日本に帰国した。アテンドする行家が「嘘だろ」と呟いた。成田空港の到着ロビーは、日本人初のウィンブルドン制覇を祝う報道陣で埋め尽くされていた。カメラのフラッシュが瞬き、マイクを持った記者たちが「鷹城選手!」「シドウ!」と叫び、ざわめきが響き合う。壁のような人だかり、170cmの小さな体は一瞬圧倒されそうになったが、シドウは静かに前を見据えた。心の中では、様々な思いが交錯していた。施設から聞かされた「20歳で公開される両親の手紙」の存在。裁判所にその手紙を確かめに行くべきか、考えるだけで胸が締め付けられる。瀬川部長が電話で言っていた「契約の話をしたい」という言葉も、頭の片隅で気になっていた。プロとしての未来が開けつつある今、蒼山製薬との関係がどうなるのか、不安と期待が混じる。それでも、シドウの心を最も占めていたのは別の願いだった。帰国前夜、宮代と電話で話した時の言葉が耳に残る。「空港に宮代さんがいてくれたらいいな」。宮代は笑いながら答えた。「シドウ君、空港に行くよ! でも、報道陣がすごいから会えるかわからないね。何か目印つけて行くよ」。その軽やかな声に、シドウは小さく微笑んだ。アテンド役が日本テニス協会の人に代わって、「一言二言インタビューを受ける事になりました。ここまで集まるとそうしないと収まりきらない」そう説明しつつ足早にロビーの喧騒を抜ける。「帰国会見は16時から…」喧騒の中、ふとシドウは視線を人混みに向けた。すると、すぐに分かった。宮代理子が、恥ずかしげもなく真っ黄色な帽子を被り、小さな身体で大きく手を振っていた。人波の中で、彼女の姿はまるで一筋の光のようだった。満面の笑みで両手を高く掲げ、子供のようにはしゃぐその姿。シドウは歩みを止めることなく進むが、視線は宮代理子をじっと見つめた。孤児院の無機質な壁では決して見られなかった光景。報道陣のざわめきも、フラッシュの光も、彼女の前では遠くに感じられた。シドウの胸に、熱いものがこみ上げた。ガッツポーズも叫びもない少年は、あえて声をかけることなく、ただ心の中で微笑んだ。宮代の真っ黄色な帽子が揺れるたび、シドウの孤独は確かに力に変わっていた。彼女もまた、シドウを見つけた瞬間、笑顔で手を振り続けていた。言葉は必要なかった。「その姿が見えただけで、僕は最高に幸せなんだ」。シドウはそう呟いた。
簡単なインタビューを終わらせ、空港の喧騒を抜け、シドウは控え室で一息つく。日本テニス協会のスタッフが興奮気味に告げた。「鷹城選手、ウィンブルドン優勝者として、全米オープンへのシードエントリーが決まりました! 8月末、ニューヨークのハードコートが待ってますよ。」シドウは静かに頷き、窓の外の空を見上げた。ウィンブルドンの芝のコートに刻まれた足跡が、確かに彼を次の舞台へと導いていた。シドウは新たなコートを想像し、心の中で次のラリーをイメージした。ウィンブルドンの芝には、鷹城シドウの足跡が永遠に残る。そして、宮代の笑顔と真っ黄色な帽子が、シドウの心に永遠の光を灯した。
東京に独りの子供が生まれた。両親はおらず、経済的理由で孤児院へと預けられた。孤児院の無機質な壁とテニスラケットだけが彼の逃げ場だった。コンクリートにボールを打ち続ける少年は、あるプロ選手への手紙に夢を託す。資金も後ろ盾もない中、並外れた体力と吸収力でジュニアツアーを歪に戦い、2025年、18歳でウィンブルドンの特別ワイルドカードを手に入れる。170cmの小柄な体で、7試合全て2セットダウンから逆転勝利を重ね、「ダブルダウン・イーグル」と称される奇跡の優勝を果たす。だが、シドウの物語は勝利だけではない。孤独を力に変え、宮代理子の支えと向き合い、両親不在の過去に自省する彼の旅は、人間讃歌そのものだ。テニスに逃げた少年が、芝のコートで世界に証明する――本当のヒーローとは、独り孤独でも打ち勝つ者である。 これは、シドウが壁を越え、己を信じ、未来を切り開く物語である。