二人の少年
薄明かりの空の下、アヴェリア連合国の小さな村、ウェストヘイムは、まだ眠りの中にあった。白い壁の家々が寄り添い、朝露に濡れた石畳が鈍く光る。リアムはいつものように、裏手の小川で顔を洗っていた。冷たい水が眠気を吹き飛ばし、透明な川面には、彼のまだ幼い、けれど意志の強い瞳が映る。
その日、村には珍しい客が来ていた。旅の行商人の親子だ。父親は物静かな男で、子供はヴァルターという名の少年。リアムと同い年くらいだろうか。警戒心の強い村の子供たちの中で、リアムだけはヴァルターに興味を持った。
最初はぎこちない出会いだった。ヴァルターの父親が村の広場で広げた品々は、見慣れない都の品ばかり。刺繍の美しい布、磨かれた金属の細工、そして珍しい香辛料。村の子供たちは遠巻きに好奇の目を向けるが、誰も近寄ろうとはしない。そんな中、リアムだけが恐る恐る近づき、店の隅に置かれた、色鮮やかなガラス玉に目を奪われた。
「これ、すごくきれいだね!」
リアムの無邪気な声に、ヴァルターは少し驚いたように顔を上げた。彼の瞳は、品物を見るリアムのそれと同じくらい、どこか遠い輝きを宿していた。ヴァルターは、言葉少なに行商を手伝った。彼の父親が他の村人相手に話している間、リアムは毎日、ヴァルターの店を訪れた。最初はガラス玉を眺めるだけだったが、やがてリアムはヴァルターに話しかけるようになった。
「この前、あの丘に珍しいお花が咲いてたんだよ」
「今日の晩御飯は魚のフライなんだ、ヴァルターも一緒に食べない?」
リアムの飾らない言葉に、ヴァルターは最初は戸惑いを見せた。彼は、どこか慣れない環境に身を置く中で、感情を表に出さないよう訓練されてきたかのようだった。しかし、リアムのまっすぐな視線と、偽りのない笑顔は、彼の心の氷を少しずつ溶かしていく。
ある日の午後、店番の合間にヴァルターが退屈そうに石を蹴っているのをリアムが見つけた。
「ヴァルター、つまんないなら、僕の秘密の場所に行こうよ!」
リアムが導いたのは、村から少し離れた小川の上流にある、小さな滝と岩場に囲まれた隠れた場所だった。そこは村人にもあまり知られていない、リアムだけの特別な場所だ。流れ落ちる水が小さな虹を作り、岩肌には珍しい苔が生い茂っていた。
「すごい…」
ヴァルターの口から漏れたのは、普段の彼からは想像もできない、純粋な感嘆の声だった。リアムは嬉しくなって、魚の釣り方を教えたり、岩から岩へと飛び移って見せたりした。ヴァルターも、最初はぎこちなかったが、やがてリアムの真似をして、水切りをしたり、石を積み上げたりするようになった。そこでは、彼らはただの子供だった。 二人は互いの夢を語り合った。リアムはいつかこの村を出て、広い世界を見てみたいと語り、ヴァルターは故郷の都をより良い場所にしたいと、どこか曖昧な言葉で応えた。リアムはヴァルターの故郷の都の話に目を輝かせ、ヴァルターはリアムの故郷を思いやる優しさに、深い安らぎを感じた。
雨の日にはリアムの家で、祖母が淹れてくれた温かい薬草茶をすすりながら、ヴァルターが持っていた珍しい本を広げた。ヴァルターは文字を読むのが早く、物語を読み聞かせる彼の声は、いつもリアムを惹きつけた。
「ヴァルターは色々な国を見てきたんだよね?どんなところだった?」
リアムが目を輝かせながら尋ねると、ヴァルターは茶碗を置き、本を閉じないまま、遠い目をして話し始めた。彼の声には、まるでその景色が目の前にあるかのような、確かな響きがあった。
「ああ、色々な場所に行ったよ。北には、太陽の光を反射して輝く白い氷の平原が広がっていた。そこには毛皮を身につけた人々が住んでいて、氷の下の巨大な魚を捕って暮らしているんだ。夜になると、空には見たこともないような色の光が踊る。オーロラっていうんだって」
リアムは息を呑んだ。村では見たこともない、全く想像できない光景だった。
「南の方には、燃えるような赤い砂漠の国があった。日中は肌が焼けるほど暑いけれど、夜には満点の星が降ってきそうなほど輝いている。そこには、砂漠の民がラクダに乗って移動しながら、珍しい香辛料や宝石を売買しているんだ。彼らは砂嵐の中でも道を見失わない、特別な勘を持っているらしい」
「すごい!砂漠って、そんなに暑いんだ…」
リアムの目には、その光景が鮮やかに浮かび上がるようだった。
「あと、東には巨大な魔法研究都市がある。そこは空に届くほどの高い塔がいくつも建っていて、塔の頂からはいつも不思議な光が放たれている。街の中では、人を乗せて空を飛ぶ船が行き交っているんだ。」
ヴァルターの語る話は、リアムの知る世界の何倍も広くて、きらめく冒険に満ちていた。リアムは身を乗り出して、一つ残らず聞き逃すまいとヴァルターの顔を見つめた。
「ヴァルターは本当にたくさんのことを知ってるんだね!僕もいつか、ヴァルターが見た世界を、この目で見に行ってみたいな!」
リアムの純粋な言葉に、ヴァルターは微かに微笑んだ。その笑顔の裏に、彼の胸に去来する複雑な感情を、リアムはまだ知る由もなかった。二人は互いにないものを持っていた。リアムの屈託のない笑顔はヴァルターの孤独を癒し、ヴァルターの聡明さはリアムの世界を広げた。村の大人たちも、最初はよそ者と距離を置いていたが、純粋な友情を育む二人の姿を見守るようになった。特にリアムの祖母は、ヴァルターが村にいる間、彼を実の孫のように可愛がった。ヴァルターもまた、普段触れることのない、家庭の温かさに触れることができた。決して長い時を共に過ごしたわけではなかったが、二人の絆は、ウェストヘイムの小川の流れのように、確かなものになっていた。ヴァルターは、この平和な村で過ごす日々の中で、彼の心に常に付きまとう「何か」と、リアムとの友情の間で深く葛藤していた。彼の心は、純粋な喜びと、背後に迫る運命の影との間で激しく揺れ動いていた。
そんなある日、村の空気がにわかに張り詰めた。アヴェリア連合国との境界付近で、グランデル帝国が大規模な軍事行動を開始したという物騒な噂が、早馬に乗って村の大人たちの耳に届いたのだ。はじめは半信半疑だった村人たちも、日が経つにつれて増える情報に、顔色を失っていった。
「帝国は、このあたり一帯を狙っているらしい」
「もうすぐ、この村にも兵が来るかもしれない」
不安が不安を呼び、温かかった村の雰囲気に、冷たい影が差し込み始める。村の大人たちは、広場で集まり、厳しい顔で話し合った。特にリアムの祖母は、行商人の親子を心配し、ヴァルターの父親に直接、村を離れるよう促した。
「旦那さん、あんたらはよそ者だ。こんなところに長居はせん方がいい。帝国は容赦がない、わしらのことより、あんたたちの身の安全を考えなさい」
祖母の言葉は、ヴァルターの父親だけでなく、傍らに立つヴァルターの心にも重く響いた。ヴァルターは、今まで見たことのない、どこか疲弊したような面持ちで父親を見上げた。彼は何かを言いたげに唇を開きかけたが、結局、言葉にはならなかった。ただ、じっと父親の顔を見つめているだけだった。父親は深く息を吐くと、祖母に礼を言い、翌朝早く村を立つことを決めた。リアムは、ヴァルターが村を離れると聞いて、胸が締め付けられるようだった。せっかくできた親友が、またどこか遠い場所へ行ってしまう。別れの朝、まだ夜明け前の薄暗い中、リアムは村はずれの道でヴァルター親子を待っていた。
「ヴァルター、行っちゃうの?」
リアムの声は、寂しさに震えていた。ヴァルターは足を止め、振り返った。彼の瞳は、かつてリアムに見せた輝きとは違い、深い闇を宿しているようだった。
「…ああ。僕たちは行商だから、仕方のないことなんだ」
ヴァルターはそう答えたが、その声にはいつもと違う響きがあった。リアムは、ヴァルターの隣を歩く父親に、何か真剣な面持ちで話しかけているヴァルターの姿を見た。ヴァルターは時折、村の方を振り返り、その度に何かを断ち切るように、きつく唇を結び直していた。そして、やがて二人の姿は、東の空が白み始めた道のかなたへと消えていった。リアムは、ヴァルターの背中が完全に見えなくなるまで、ただそこに立ち尽くしていた。彼の心には、まだ幼い胸には重すぎる、得体の知れない不安が渦巻いていた。
ヴァルターたちが村を去ってから、ウェストヘイムの空気は重く沈んでいた。村人たちは、いつか来るであろうグランデル帝国の侵攻に備え、逃げるための準備を進めていた。家財をまとめ、隠れる場所を探し、子供たちに万が一の時の合図を教え込んだ。アヴェリア連合国からも、軍が国境付近に部隊を配備し、帝国軍の動きを警戒しているとの通達があったが、その報せが村人の不安を完全に拭い去ることはなかった。リアムもまた、来る日も来る日も、遠い地平線を見つめ、ヴァルターとの再会を願っていた。しかし、それは決して平穏な再会ではないだろう、という漠然とした予感に怯えていた。そんなある日、村の入り口に、まさかの人物が立っていた。ヴァルターだった。
「ヴァルター!」
リアムは、わき目も振らずに駆け寄った。彼の顔には、親友との再会を心から喜ぶ、純粋な笑顔が弾けていた。しかし、ヴァルターの表情は、リアムの喜びとはかけ離れていた。彼は息を切らし、瞳は恐怖に大きく見開かれ、全身からは尋常ではない焦りが伝わってきた。
「リアム!すぐ逃げろ!今すぐだ!みんなに伝えろ、ここから逃げるんだ!」
ヴァルターの必死な声に、リアムは戸惑いを覚えた。何が起こっているのか理解できないまま、立ち尽くすリアムの元へ、村の大人たちが集まってきた。
「坊主、一体どういうことだ!?何があったんだ!?」
村長が詰め寄るその時、遠くで地鳴りのような音が響き渡った。東の空に、黒い煙が立ち上るのが見える。それは瞬く間に広がり、村へと向かってくる巨大な影が、目に映った。グランデル帝国の軍勢だった。攻城兵器が地面を揺らし、兵士たちの怒号が風に乗って届く。その数は、村が想像していたものよりもはるかに大規模で、あまりにも絶望的だった。
村人たちの顔から血の気が引いた。逃げようとする者、呆然と立ち尽くす者。しかし、時すでに遅し。帝国軍は容赦なく村に押し寄せた。燃え上がる家々、響き渡る悲鳴、そして剣と魔法が交錯する音。平和だったウェストヘイムは、一瞬にして地獄絵図と化した。リアムの目の前で、白い壁の家々が炎に包まれ、見慣れた村人たちが次々と帝国兵の刃に倒れていく。祖母の悲鳴が聞こえた。振り向くと、彼女が剣士に斬りつけられるのが見えた。その瞬間、リアムの視界に、妙な光の残像が走った。まるで時間が引き伸ばされたかのように、祖母の死の間際の感情が、そこに焼き付いたかのような……。その光景に、リアムは立っていられなくなり、地面に膝をついた。
「リアム!立て!生きるんだ!」
ヴァルターがリアムの手を強く引き、二人は炎と血煙の中を駆け抜けた。親しい友人、隣人たちが目の前で命を落とす光景に、リアムの心は引き裂かれそうになった。逃げ惑う最中、彼らは帝国軍の一団に見つかってしまう。
「あっちだ!やつらを捕らえろ!」
敵兵の叫び声が響く。ヴァルターはリアムの手を離すと、彼の背中を強く押した。
「リアム!走れ!僕は大丈夫だから!」
ヴァルターはそう言い放つと、帝国兵の注意を自分に引き付けるかのように、敢えて大通りへと飛び出した。
「ヴァルター!!」
リアムの叫びは、燃え盛る村の炎の中に吸い込まれていく。親友のその行動が、自分を逃がすための犠牲だと理解したリアムは、悔しさと絶望に顔を歪ませながら、必死に走り続けた。彼の脳裏には、ヴァルターが遠い世界を語ってくれた時の輝く瞳と、今見た彼の苦悩に満ちた表情が焼き付いていた。
どれほどの時間走り続けたかわからない。やがて、リアムの体力は限界を迎え、深い森の中で倒れ込んだ。意識が朦朧とする中、彼は遠くから聞こえる人の声を聞いた。それは、アヴェリア連合軍の救援部隊だった。リアムは、ヴァルターを犠牲にしてしまったという強烈な後悔と、故郷を失った悲しみ、そして帝国への激しい憎しみを抱えながらも、辛うじて生き延び、保護されることとなった。