70
沖原くんを見送った後、私はポケットから小さな飴玉を取りだす。
これが巷で「カエル味の飴玉」と言われているもの。
この心の痛みが緩和されるならと思い、手に入れたけれど……。本当に私は沖原琴を忘れて良いのだろうか。
彼は私を忘れないと言った。きっと彼の記憶の中で小さく私は生き続ける。私が沖原琴を愛していたという歴史が刻まれる。
スタンダールは好きな人の幸せを願う。……だから、私も忘れちゃいけない。
それに、最愛の人を忘れるなんて、そんな悲しいことはない。私はこの痛みを覚えておかないと成長できない気がする。
また何度も同じことを繰り返してしまう。誰かをこんなにも好きになれて幸せだった。
この痛みも悦びも覚えておかないといけない。
私はギュッと握りしめて、思い切り川へと飴玉を投げ捨てた。チャポンッと音を立てて、飴玉は水の中へと沈んでいった。
「今度は飲まなかったんだ」
私は聞き覚えのある声に驚き、振り向いた。
…………後藤清一。
どうして彼がここに、と目を見開く。彼はそんな私を見てフッと頬を緩めた。いつもの後藤くんの表情だ。
「沙知がさ、最後に教えてくれたセネカの言葉、知りたい?」
「どっちでも」
「え~、島崎冷たい~」
おどけた口調の彼に「私は今絶賛失恋中なの」ときつい口調で返した。後藤くんは「俺も失恋中」と軽く笑う。
「沙知のこと?」
「どうでしょうね~」
後藤くんはいつも適当だ。後藤くんのどこか浮遊したような掴みどころのない態度が苦手だ。私と向き合うのを避けているみたい……。
「昔から好きな人以外の男には興味ないよな、島崎って」
「昔って、私の昔なんて大して知らないでしょ」
「幸運とは準備が機会に出会うことである」
後藤くんは私の言葉を無視してそう言った。私は思わず怪訝な表情をしてしまう。
「それはセネカ?」
「セネカです。……沙知に言われたんだよ。『清ちゃんは準備してきたんでしょ、順子ちゃんを取り戻すために』って」
今、なんて……?
沙知は、後藤くんは……、何を言ってるの?
いつになく真剣な彼の口調に私の頭は混乱していた。
「そんなことないって俺が言うとさ、『そうじゃないと、入学式の時にカエルなんて持ってきたりしないでしょ?』って言われたよ。沙知って俺のことちゃんと見てたんだなって……。入学式にしか会えないと思ってたら、同じサークルにいるし、まじでビビったよ」
「ちょ、っと、待って」
今さっき私は最愛の人を送り出したばっかりなのだ。後藤くんの話について行けない。後藤くんは話を続けた。
「中学生の頃、俺は上手く恋愛をする方法を知らなくて、最低なことをして、島崎を傷つけたんだ。島崎の愛を確かめるために、他の女の子とよく遊ぶようになった。馬鹿で、間抜けで、……救いようのないガキだよな」
自分のしたことを後悔するように後藤くんは話す。私は黙って彼の話を聞いていた。
「島崎のことめちゃくちゃ好きだったのに、愛することをサボったんだ。一番やっちゃいけないことをした。……ある日、島崎から俺が消えた日は衝撃だったよ」
その言葉で私はかつて自ら飴玉を舐めたのだと分かった。




