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「谷沢は一体何をまだ悩んでいるんだよ」
保健室の扉を開けようとした瞬間、尾形先生の声が聞こえた。私は扉を開ける手を止めた。保健室の中の会話に耳を傾ける。
「俺は別に悩んでいるわけじゃなくて……」
「初恋をまだ引きずってるのか?」
「ちがっ」
「じゃあ、別に本人に言っても良いでしょ」
「……まつりちゃんを傷つけるかもしれない」
なんの話をしてるの?
これ以上、谷沢くんの初恋の話を聞きたくなかったが、この場から離れられなかった。
尾形先生の長いため息が聞こえてくる。
「お前のその態度が逆に岡峰まつりを傷つけるんだよ」
「今更言えない」
何を? と私は心の中で谷沢くんに問う。
「タイミングを見失ったって?」
谷沢くんは尾形先生の質問に何も答えない。
だんだん私の心が不安で覆われていく。きっと、聞いちゃいけない。私はゆっくりと一歩ずつ後退る。
「何もそんなに怯えなくてもいいでしょ。言ってしまえばいいじゃない」
耳を塞ぎたかったが、私はその後に発せられた尾形先生の言葉をしっかり聞いた。
「初恋が岡峰まつりの姉だって」
………………だから、私を好きになったんだ。
昨日姉と話した時に抱いた嫌な予感が的中した。少しだけ谷沢くんから聞いた話と姉の話が被るところがあった。
谷沢くんは姉の面影をずっと追っていたのだ。関わったことのなかった谷沢くんが私を気になり始めたことにも納得がいく。
かつて、スーパーで私を見つけたのではなく、姉を見つけたんだ。
「そんなこと言えるわけねえよ」
谷沢くんの声が聞こえたのと同時に、ガラッと目の前の扉が開いた。あ、と私は声を零し、谷沢くんと目が合う。
「おねえちゃんじゃなくてごめんね」
その言葉を自分で発してしまった瞬間、私が大事に抱きしめていたクリームソーダからチェリーが奪われてしまったような気がした。
私はそれだけ言って、その場を逃げるようにして去った。
谷沢くんは私を追いかけてこなかった。




