56
教室に向かう途中、私は廊下で谷沢くんに声を掛けられた。
「まつりちゃん」
「おはよう」
「……昨日、どうだった?」
「私の戦いは……、引き分けかな」
私がそう言って笑うと、谷沢くんの不安げな表情が柔らかくなった。加奈子とは友達には戻れなかったけれど、私たちはお互いに進むべき道を見つけた。
「おつかれさま」
彼はそう言って、私の頭を撫でた。今日で二回目だ。さっき、尾形先生にも撫でられた。
今までの頑張りを認められたような気がした。
私は「徹くん」と彼の目を見つめる。彼は私に名前を呼ばれて、軽く頭を傾げる。
「今日、学校サボらない?」
え、と口を小さく開けて驚く。私はそんな彼に微笑みかけて「行こう」と手を引っ張った。
今日はいい天気だ。晴れの日はサボタージュ、と誰かが言っていた気がする。……私の姉かも。
「ちょっ、まつりちゃん?」
「大人になる前に、高校生しとかないと!」
私たちは小学生の時、無理やり大人になろうとした仲間だ。同じ境遇にいたもの同士、青春ごっこしてもいいだろう。
子どもから早く脱却したかったあの時代と今なら向き合える。
私は戸惑う谷沢くんを強制連行した。
校門を出て、駅に向かう。私は彼の分の切符も買った。
「はい」
私が切符を渡すと、「お金」と谷沢くんは財布を取り出そうとする。
「いいよ。私が無理やり誘ったんだし、手間賃だと思っといて」
「けど……」
「だから、最後まで今日は私に付き合って」
「分かった」
彼は快く頷いた。
電車に乗り、そう遠くないところまで行く。各駅停車に三十分間ほど揺られる。姉と最後に行って以来、訪れていない場所がある。
姉が記憶を失ってから、もう二度と足を運ぶことはないと思っていた。もう一度行こうと思えたのは谷沢くんのおかげだ。
人がほとんどいない車内で二人並んで座る。谷沢くんは私に「どこ行くの?」とは聞かない。その彼の配慮が居心地よかった。
谷沢くんの隣は落ち着く。人はこれを安心感と呼ぶのかもしれない。けど、私はそんな言葉で片づけたくない。
谷沢徹は私にとってのチェリーだ。私を特別にしてくれる存在なのだ。
ゆっくりと彼の肩に頭を乗せる。彼の心臓の音が聞こえた。
谷沢くんはちゃんと私の隣で生きている。当たり前だけど、これが夢だと思いたくなかった。現実だと実感するために、彼の鼓動をしっかりと聞いた。
「俺さ」
「うん」
私は目を瞑りながら、彼の低い声に返答する。
「まつりちゃんのこと好きだよ」
「……どれぐらい?」
「冥王星を太陽系に戻せるぐらい」
「宇宙規模だねぇ。第九惑星に一緒に移り住む?」
冥王星を太陽系に戻さなくてもいい。太陽系の一員から外れたままでいい。私もはみ出し者なのだから、冥王星と仲間だ。
「あり」
採用された。今度、冥王星引っ越し計画について真剣に話し合ってみよう。
きっと、無重力になれる訓練から始めなければならない。
「私も徹くんのこと好きだよ」
彼の鼓動が大きくなるのが分かった。緊張している彼の手を握った。私は目を閉じたまま口角を上げる。
「…………本当に?」
「うん」
「どれぐらい?」
「マリー・アントワネットの処刑を阻止できるぐらい」
谷沢くんが朗らかに笑うのが分かった。
「落ちてくるギロチンの刃を食い止めるよ」
「愛だね」
「愛だよ」
電車に揺られている何の変哲もない日常がずっと続けばいいのにと思った。
こんなごくありふれた当たり前の時間が幸福なのだ。
 




