自業自得も得をみろ
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
栄養、一日これだけ。
なんとも、魅力的なフレーズだと思わないかい? 忙しい歳になってくると、ついついこれに釣られて手を伸ばす経験、あるんじゃないかなあと思う。
現代でこれに似たフレーズを貼り付けた商品は、多々存在している。もし、これらの中から一つを選ぶとしたら、君は何を根拠にする?
安いから? 使われている材料が豊富だから? よく知るメーカーのものだから?
個々人が期待する観点は様々だ。いずれかの軸をとがらせたうえで、ほかの部分も水準以上を保つことで、はじめて競争に勝つ目が見えてくる。
いくら安くて栄養満点ラーメンだろうが、激マズだったら二度と食べようとは思うまい? 何度でも利用しようとするものには、ある程度のバランスも大事なわけだ。
私も一人ぐらしの自分では、この栄養系のなんちゃらは好んで食べていたんだが……いまは生の野菜なども食べるよう心掛けているよ。
健康診断の結果うんぬんばかりと限らない。昔にちょっと体験したことが関係していてね。そのときのこと、聞いてみないか?
当時の私は、シンプルに金欠だった。
理由に関しては、ここではさほど大事でないから割愛させてもらう。ひとことでいえば、自業自得といったところだ。
自炊にはとんと縁のない私は、ここぞとばかりに栄養調整食品を用意していく。
ひとつひとつで見たら割高だが、その一食でもって一日をカバーするコストレベルなら、どうにか残金でも月を越せるという判断を下した。
ブロックタイプ、菓子パンタイプ、カップ麺タイプ……これらへ状況に応じて野菜ジュースなどをプラスし、一日に必要な栄養を補充していく。
成人の男が一日に求められる分を用意さえできれば、死にはしない。そう信じたい気持ちが、懐の寒い現状と相まって、私にこのような日々を過ごさせていたのだが。
ちょうど備蓄が心もとなくなってきたことで、繰り出したスーパー。
ここの箱売りが、当時住んでいたあたりでは一番の安値。置いてあるコーナーにわき目もふらず突進し、積まれている箱のひとつを取ろうとしたところで。
「あ」
脇から出てきた、別の手と重なった。
すいません、と反射的に手を引っ込めながら頭を下げたものの、そのときにはもう、重なった手の相手はこちらに背を向けて、並び立つ棚の向こうへ去っていくところだった。
その足の早さもさることながら、夏場にもかかわらずベージュ色の厚いトレンチコートをまとっていたのが印象的な、長身の人物だった。
顔も見せず、謝りもしない。いささか腹を立てながらも、私は予定通りに箱売りのそれを買い、今日の分をつまんでいったのだが……。
腹が減る。
これまで通りの量を取り、これまで通りの活動量をキープしているにもかかわらずだ。
私はいったん、やると決めたのならば事故や病気といった不可抗力に阻まれるまで、それを継続するタチだし、実行に移し続ける心も持っていると自負していた。
今回の件に関しても、これだけ食べたならば、もう一日中は空腹を覚えずに済むだろう量は把握していたはずだ。が、身体はなおも求めてくる。
なにかしら、カロリーを急激に費やすようなことでもあっただろうか?
この空腹は連日続き、私は細かな記録を取り始めた。一日いちにちで、どのような活動を行ってきたかを事細かに。
結果として、身体を動かしていようとそうでなかろうと、私はどんどんと腹を減らしているようだった。
すでに成人していて、ここから育ち盛りとはどうしても思えない。とはいえ、身体も慣れない栄養食漬けで疲れが出てきたのかもしれない。
給料が入るまで、もう10日を切るところまできている。その間を持ちこたえたなら、ご褒美に奮発したコース料理でも食べてやろうか……と、風呂場で湯につかるながら、ぼーっと考え事をしていたおりだった。
ふと、眼前が一瞬だけ暗くなった。
まぶたを閉じたからじゃない。顔の前を、布地らしきものがかすめて、横切っていったからだ。見間違いじゃなければ、その生地はベージュ色をしていた。
まさか、と眼をやる。
浴室は閉め切っていた。どこから入ってきたかも、出ていったかも分からない。
けれども、すりガラス越しに見える長身のシルエットは、見間違えようはずもなかった。
あの日、箱を取ろうとしたときに手が重なったときの、あの人物だろう。
ぽかんと、私が見やる間にその影はガラスより外へ。私の部屋の中へ消えていってしまう。
冗談ではない。私はとっさに風呂からあがるや、かき回し棒を手に取って外へ飛び出した。
家全体は閉めきっていたと思ったが……ロックし損ねていたところがあったのだろうか? いずれにせよ、そのままにしておく法はない。
服も着ないまま、寝床としている六畳間へ踊りこむも、そこにあのベージュコートの姿はない。全開にされたベランダの窓をのぞいては、おかしいところもなかった。
『野菜もちゃんと食べなさい』
その、まさに窓へ突進しようとした瞬間、ふと母親の声が脳裏によみがえった。
なぜ、このようなときに? と思いながらも踏み出した足が、とうとつに滑り、私はしたたかに身体を打つ。
骨の折れた音がした。それも一ヶ所ではなく、身体のそこかしこからだ。そう思えたんだ。
立てない。いや、それどころか、伸び切った手足を見ると風呂の中で洗ったものとは、別人のようにやせ細っていたんだ。しかも、私の見ている前でなおも細さを帯びていく。
『野菜もちゃんと食べなさい』
今一度響く、脳裏の声に私は這いずりながら冷蔵庫を開ける。
冷蔵する栄養食に囲まれながらも、タッパーに詰めていたのはいつぞやのせんキャベツと申し訳ばかりの野菜を添えたサラダ。
もとより野菜が好きでないが、気まぐれで作ったそれは、もう何十日も冷蔵庫に押し込められていたよ。
そのフタをようやく開けて、キャベツともども口へ含んだとたん。
身体に広がっていた痛みが、ぴたりと止まった。やせ細っていたように思えた手足も、もとの太さに戻っている。
そこには、全開にした窓から入ってくる風に火照った身体を冷やす私がいたのみだったんだよ。
あのコートのシルエットの正体を、私はいまだはかりかねている。
ただもし、あれに出会わず、あの生活を続けていた場合はもっと良からぬことになっていたんじゃないかなあ、と私は漠然と思うんだ。
母親の言葉がよぎるあたり、ひょっとしたら悪い存在ではなかったのかもしれないが。