つよいひと
人をいじめる人が「強い」と思ったことはこの人生で一度もない。
人をいじめる人間、いじる人間は必ずいじめる対象がいないと成り立たない。
彼らは大勢からいろんなものを奪う、尊厳、地位、活発さ、もともとそれは被害者が持っていたものだ。
僕がこの画面をたたき割ったとしよう、バキバキの画面、もちろん文字は読めない。
この時ぼくはあなたに問いかける。
画面をたたき割るのと、文字が読めるように画面をなおすこと、どちらが難しいかを。
僕が数回こぶしを振り下ろせば画面から可読性を奪える、治す場合はそう簡単ではない。
替えの画面がいるし、最悪買い替える金が要る。
人がいじめるという事はこれに似ている。
彼らがしているのはこの世で一番簡単な事なのだ。
「奪う」ことは簡単であり、奪う対象が無いと成立しない脆弱性を孕んでいる。
可愛そうないじめっ子は簡単なことをあたかも凄いことの様に誇張して強さを表明する。
可愛そうな傍観者は派手に壊れた人間を見ていじめっ子を怖がる。
全部まやかしだ。ひとつだけ正しいことがあるとすれば被害者の可能性が奪われたことだろう。
ただ、やっぱり人に危害を加える人間は怖いと、僕もそう思ってしまう。
争いごとの大半は、恐怖がなくなればもしかしたら解決するのかもしれない。
そう思った。
強い人になりたいと、僕は思った。