ばあちゃん
友達のばあちゃんが死んだらしい。それは御愁傷様、機械みたいに頭に浮かんだ言葉が怖かった。言わなきゃいけない言葉がのどで止まって、ガラガラ声で捻り出した言葉は、
「ああ、そう、か」
なんで言わなかったんだろう、今でも後悔している。
俺のばあちゃんももう死んでる。二、三年前に体調が崩れて奈落へ落っこちるみたいに消えていった。だんだん俺がわからなくなってくばあちゃんに何度も同じ話をした。
「高校受かったよ、そう。そう。近所じゃちょっといいところなんだ。うん? うん。楽しみ、ちょっと怖いけど」
毎回ばあちゃんは間違える、
「あら、そう。じゃあたくちゃんは東大に行くんだね、おばあちゃん嬉しい。自慢の孫だよ」
もう違うと訂正すらしなかった。頑張るとだけ言って施設から出て、ただ勉強していた。
今も勉強している。手元には英文がびっしり書いてあるノートがこっちを見返している。わからない単語があったから、蛍光ペンを探す。
――無くした。
文房具がなくなると大体机の右にある引き出しに取りに行く。ばあちゃんが使ってた和風の引き出し。明らかに高いものだ。捨てるのは勿体無いと俺がもらった、綺麗な引き出し。ばあちゃんは丁寧な人で、今使っているペンとこれから使うペンを分けて収納していた。上から三段目を引き出す。からっと軽い音が震える。プラスチックのカバーに包まれた新品の蛍光ペンが二本入っていた。その一つを取り出す。俺は思った、ばあちゃんは何を思ってこのペンを補充していたのだろうか、次のペンは使わないかもしれないと思って買ったのだろうか。これが人生最後の蛍光ペンだと思って買い物かごに突っ込んだのだろうか。びりっとやぶいてゴミ箱に捨てた。
――薄い。
蛍光ペンはカラカラに乾いていた。ずっと前に買っていたものらしい。それもそうか、ばあちゃんは2年前から一文字も字を書いていなかった。結局変なところから出てきたよくわからない色の違う蛍光ペンでマークした。だがなんとなく、どうしてもあの蛍光ペンは捨てられなかった。
俺はあんまりばあちゃんに懐いていなかった。一緒に喋る、普通に笑う、それくらいはした。でも心の中で何か得体のしれない不思議を抱えていた。この人の形を探っていた、少年時代。今、ばあちゃんのことは引き出しの中くらいからしかわからない。それも俺が日に日に解いている。もう元あった場所にあの蛍光ペンはない、もうあのパッケージはゴミに出した。ばあちゃんに未練なんてなかったはずなのに、どうしてかまだ蛍光ペンは俺の筆箱の中にある。使えないのに、薄いのに、乾いているのに。バスに揺られる俺は悔しかった。なぜ家族なのにお墨付きの蛍光ペンのメーカーしかわからないんだろう、なぜ死ぬ前にもっと話さなかったんだろう。なぜ戦争を通過したのにオッケーという英語が口癖なんだろう。その答えはばあちゃんを焼いた時に全部消えた。骨は現世に生きるための乗り物、他は全部あの世へ持っていった。俺はただ悔しかった。俺はただ恨めしかった。俺は葬式で泣かなかった。俺は葬式の時悲しくなかった。多分俺があの時友達に御愁傷様と言えなかったのは本気で人を弔ったことがなかったからだ。知らなかったからだ、悲しさを。俺は今ただバスに揺られて、蛍光ペンを握りしめている。それは仏壇の前で手を合わせる行為より何倍も俺にとって意味のある行動だった。