竜狩りの物語第四十八話 「憎悪」を学習
夜明けの光が差し込み始めた市長宅に、続々と獣人兵士たちが踏み込んでくる。市長、すなわちシオルの父親が亡くなっていることは既に確認されていたが、彼らの遺体回収は今に至るまで後回しにされていた。
為政者の遺体とはいえ、獣人ではなく人間のものとなれば獣人軍には大して重要視されなかったこともあるが、何よりも街全体の衛生状態を回復することが優先されていたのである。
理性を失った獣に襲われて死亡した市民たちの遺骸の回収および清掃は、公共設備や路上を優先的に行われた。個々の家宅内に残されている遺体については、今日になってようやく清掃部隊が街じゅうに派遣されたのである。
「こちらです、部屋に入ってすぐ前市長や秘書たちの身体が転がっていますので、踏まないよう気を付けて。」
レナルドの案内で市長宅に踏み込んできた獣人兵士たちは、清掃作業用に鼻先をマスクで覆っていた。人間とは比べ物にならぬほど敏感な嗅覚を有する彼らであったが、ある程度覚悟して踏み込んだ室内は存外にも大した腐敗臭で満たされていなかった。
割れた窓の隙間から室内へと入り込んできたハエたちが部屋の壁を這いまわってはいたものの、床の上に転がっていた市長やその秘書たちの身体に目立った食害による損傷も見出せない。
放置されて何日も経過した遺体は蛆によってボロボロに食い荒らされ、羽化したは良いものの餌も無く餓死したハエの死骸が一帯に散らばっているなどという惨状も見受けられたというのに。
「この人間どもは、本当に死んでいるのか?」
数日間放置され続けたにしては異様なまでに生前の姿を保っている人間の身体を前に、払拭し難い違和感を覚えた獣人兵士の一人が浮かんだ疑念を率直に呟く。
「何を仰ってるんです、ピクリともしないでしょう。」
「しかし……」
獣人兵士たちは改めて、転がっている人間たちの身体を見下ろした。そも、十分な死因たり得る外傷が確認できないのだ。体外体内問わず、出血していれば彼らの鼻はその臭いを嗅ぎ分けたであろうが、血の臭いはしない。呼気も感じられなかったものの。
市長と秘書達の首元には羽の付いた細い棒が突き立っていたが、急所に近いとはいえ太い血管は破っていないのだろうその傷も、致命傷とは認めがたかった。
「確かに、この人間たちからは生きている臭いもしないが、死肉の臭いでもないぞ。」
尚も疑念を口にし続け、なかなかこの場に転がっている「遺体」の回収に移らない彼らにしびれを切らしたのか、正面に立ったレナルドは改まった口調で呼びかけた。
「よろしいですか、あなた方に与えられた任務は何です?」
「……市長の遺体の回収だが……。」
「獣人軍から下された指令を現場で勝手に変更することは許可されるのですか?」
「いや、許可されないが……。」
「では、速やかに実行されるべきでしょう。人間の遺体の一つや二つを気にかけたが為に、獣人軍の中で命令違反を起こしたってつまらない、でしょう?」
そう言われては、獣人兵士たちも言い返す言葉がない。彼らはゴソゴソと遺体回収用の麻袋を取り出しつつ、やたらと弁の立つこの人間が現場に背を向けて立ち去ろうとするのを呼び止めた。
「おい、どこへ行く。」
「私の役割は、皆様を市長の家の内部へご案内することのみですので。」
「この家の扉は?鍵を持っているのはお前だけだぞ。」
「遺体回収と清掃を終えた家屋は目印として開け放っておく、という決まりでしょう。私は別の用事がありますので、これにて。」
言うだけ言って、そそくさと立ち去っていくレナルド。彼が妙に先を急いでいるようにも獣人兵士たちは見えたが、ともあれ兵士として命じられた任を果たすことが先決であった。
太った腹を突き出した市長の小柄な身体は掴みやすく、市長の脇の下に兵士は腕を突っ込んで持ち上げる。その途端、疑惑が確信へと変わった彼は声を上げた。
「おい、温かいぞ。いくら死体がしばらく体温を残すとはいえ、何日も経過してこれは温かすぎる。」
「やっぱり、まだ生きてるんじゃないのか?」
「こっちもだ、たしかにピクリとも動かないが、体温を感じる。こいつら、死体じゃないぞ。」
「毒か何かで、身体の自由を奪われているのか……?」
床に横たわった秘書たちを持ち上げた兵士らも、次々に異変に気付いて騒ぎ始める。市長の首元に突き立っていた細い棒の臭いを嗅いでいた者は、その棒……すなわち矢であったが……に染み込んでいた市長ではない人間の臭いに気付いた。
「この棒の先端には、レナルドの臭いが染み付いている。どうやって武器として用いるのかは知れないが、レナルドがこの棒を手に取って市長の首に突き立てたのは確実だ。」
「つまり、アイツは今回の騒動に乗じて、前の市長を毒で動けなくし、自分を市長に立てたということか?」
「不誠実な行いだ。この件は、獣人軍司令部に報告せねば。」
口々に言い合う彼らの声には戸惑いとわずかな憤りが混じっていた。死体回収袋を片付け、めいめいに市長や秘書たちの身体を軽々と肩の上に担ぎ上げてこの場を出ていく。
意識を失ったまま、死んだように動かずにいるこの人間たちをいかにして治すのかは見当もつかなかったが、これらの存在がレナルドの企みを暴き立てる有力な物証となることは確実であった。
エノは、今なお動かないコルニクスの胸元に縋りつき続けていた。この、横たわって動かずにいるという状態は、夜になって「眠る」行為と何らの違いがあるのか未だエノには判別できなかったが、決定的に何かが異なることだけはエノの思考の中で明らかとなっていた。
仮にコルニクスの髪が真っ白になっているのを見なかったとしても、目が落ちくぼんで唇からも血色が失われているのを確認しなかったとしても、コルニクスが幾度の朝を迎えても目覚めないであろうことは、エノにも理解できていた。
そして、そのことを事実として受け止めているエノの思考は、途中で猛烈な嵐のようなものにぶち当たり、まっとうに働かせることが出来なくなってしまうのである。
「ザザッ、ザザーーッ、ブツ、カチ、ザッ、ザザザザ……」
もはやエノは言葉を話すことが出来なかった。コルニクスから丁寧に教えてもらった、人間の言葉を。どう頑張っても、コルニクスと共に研究室の中で過ごした頃のような幸せな気分は戻って来なかったし、自分が次に何をすべきか、目標を自ら設定することも不可能であった。
エノは、自分が今感じているのが「悲しみ」であることを知らなかった。
それは、自らが悲しさを覚えていると知って悲しむ理性的な人間の感情とは主を異にしていた。理性がそう判断するよりも先に、嗚咽が心の底から湧き上がってくる、始原的な、もっとも純粋な悲しみであった。
そのことを教えたのは、動くことのないコルニクスの胸に突っ伏して雑音を立て続けているエノを覗き込んだ、シオルである。
「エノ。そうやって泣いてたって、コルニクスは生き返らないよ。」
エノが先ほどから立て続けていた雑音を、自律人形の立てる泣き声であると判断できたのもシオルの知識あってのことであった。
「それに、そのつらい気持ちもなくならない。あなた、延々とそのまま嘆き続けて、自分が錆び尽くすまで待つつもり?」
「ザザザッ……」
返事をしたつもりであったが、エノの声はすっかり雑音の中に埋もれていた。ようやく顔を上げたエノだったが、再び自分の頭部を抱え込むように腕の中へと顔を突っ伏してしまう。
目を上げた時、コルニクスの生気のない顔が視野に入るのが辛かったのだ。
「次にどうすればいいか、教えてあげる。泣くんじゃないの、怒るの。」
「……?」
「コルニクスはもう戻らない、けど、コルニクスをこんな風にした連中は今もいるのよ。あの時、コルニクスが牢屋の鉄格子に閉じ込められていたのは、見たよね?」
エノは自らの記憶を漁り、数日前であるにもかかわらず随分と時間をかけてその時の記憶を思い起こした。エノの握りしめた金属製の腕が震えたのは、二度と思い出したくもない光景がよみがえってきたためである。
暗く、冷たい石の床の上。無機質な鉄格子の向こう側に、コルニクスは倒れていた。幾度呼びかけても、あれほど再会を望んだ「パパ」の声は、返事をしてくれなかった。
「そう、その時のことを思い出して。あなたは恨むべきよ、憎むべきよ。あなたのパパをこんな目に遭わせた連中のことを。」
ますますカタカタと震えを強めていくエノの金属製の頭部に唇を近づけ、シオルは最後の一押しとばかりに囁いた。
「獣人軍が、あなたのパパを死なせた。あんな奴ら、居なくなればいい……そうでしょ?」




