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忘れられたころ第四十七話   叡智の収奪

 暴動の喧噪に包まれた街の中、ゆっくりと街路を進んでいく白い巨体の姿があった。道幅いっぱいに膨れ上がった真っ白なナメクジのようなそれは、自らの体に触れる存在を悉く呑み込みながら路面を真っ白に染めていく。


 巨大ナメクジの頭部には内圧によって破裂した後のような啓蒙市民の身体パーツがこびりついていたが、その姿がサボーのものであると気づく者はそう居なかっただろう。


「叡智が……鱗が足りない。」


 その声は近づけば耳に聞こえる類のものではなく、かつてサボーであったその巨大ナメクジの身体に、直接触れた者の頭に響く言葉であった。


 このような気味の悪い存在へと積極的に触れに行こうとする者は限られていたが、それでも暴動の中で興奮状態に陥った市民、暴徒に追われて逃げ惑っていた動物や新参画市民たちは、駆けてきたその勢いのままナメクジの身体に勢いの多少は違えど触れることとなった。


「叡智を返せ……お前たちに与えた、叡智を。」


 本物のナメクジとは違って粘液に覆われていることはなく、それの体表はきめ細かな綿のように柔らかで、乾いていた。まるで、全力で遊び疲れて帰って来た子供のため、用意されていたふかふかの布団のごとく。


 これは啓蒙市民の核である叡智の花弁が周囲に向けて伸ばす白い糸の集合体だと、一目で気づく者もごく稀であった。


 どれだけ罵声や怒号を発して荒れ狂っていた暴徒たちも、いかに怯懦に陥って震えていた動物であっても、その綿のような真っ白な身体に飛び込んだが最後、安堵しきった幼児のように体を丸め全身をナメクジの体内へと委ねる。


 多少なりと冷静さを残していた暴徒の中には、自らの同行者が一瞬にして全ての感情を失い、安堵しきった幼児のごとき腑抜けた面でナメクジの体表に倒れ込む光景に恐怖する者もいた。


「おい、おい!どうしちまったんだよ、急に何も喋らなくなって……聞こえてるのか、返事をしろ!」


「だぁ、あぁ、うぁあ。」


 その寸前まで、獣人への憎しみや日々の生活の中で鬱積した不満を叫んで街を練り歩いていた男が、恐れもなく巨大ナメクジに触れた直後からあらゆる理性を奪われその体内へ呑まれていくのである。


 慌てて仲間の身体を引っ張り戻そうとも、一度失われた理性が戻ってくることは無かった。ばかりか、救出しようとした者までその真っ白な体表に触れてしまい、もろともに口から涎を垂らしながら倒れ込む光景も随所で見られた。


「やはり叡智を、与えるべきでは……なかった。」


 サボーの顔をした巨大ナメクジの通った後には、細やかな白い繊維が路面にへばりつくように残された。叡智の花弁が生やす糸であるこれに触れた獣人が野生動物同然の状態に陥ったのは言うまでもないが、それは直に触れた人間にまで影響を及ぼした。


 理性を奪われる度合いは本体に触れた際よりも弱くなっているらしく、巨大ナメクジ通過後の路面に残された白いものを興味本位で触った人間は、しばらくキョトンとした表情で周囲を見回した後、四つん這いの姿勢のままで這いずり回り、やがて大声で泣き叫び始めた。


 親を求める乳児、這い這いを始めたばかりの子供同然の振る舞いが、彼らの取り得る唯一の行動様式であった。


 サボーの巨体が通過してから一定以上離れた位置であれば、直接触れた人間に対する影響は弱まっていた。人語を解する能力はかろうじて残されたとはいえ、常に泥酔しているかのように意味もなく怒鳴り散らして暴れまわり、そうなった人間はもはや元に戻ることが無かったわけだが。


「ウワァーーン!ギャアァーーーン!」


「ふざけんな!クソッ、バカにしやがって!俺のことをバカにしやがって!」


 当然ながら警戒心や冷静さを平静通りに残していた住民が、この得体の知れぬ白い大きな塊に敢えて触れようとすることはなかった。が、日頃の憤懣を爆発させ、あるいは恐慌状態のなかで冷静さを失っていた者たちは次々に直に触れ、叡智の花弁によって理性を失っていった。


 街の中には赤子のように泣き叫ぶ市民や、あたり構わず意味も無い罵声を撒き散らす市民が溢れつつあった。その余波は、街の中から訪れる怪我人たちを受け入れている礼拝所にも届いていた。




 マディスは異様な状態で搬送されてきた怪我人を目の当たりにした。ボロ布で猿轡を噛まされくぐもった喚き声を響かせ、四肢と胴体を戸板に縛り付けられた状態でバタンバタンと暴れる一人の男が担ぎ込まれたのである。


 傍に付き添っている妻と思しき中年の女性は、周囲に先んじて近づいてきた司教へオロオロと話しかけるばかりであった。


「うちの人、家まで自分の足で帰って来たのは良かったのですが、明らかに様子がおかしくて……言葉もまともに喋れないし、どこかで頭をぶつけたんじゃないかと。」


「まずはあなたが落ち着きを取り戻してください、ご家族にも不安が伝わっているのかもしれません。じきに、お医者様が来られますから。」


 マディスは顔を上げ、わずかでも話しかける好機を失えばせかせかと足早に去っていってしまう司教に向けて言葉を投げかけた。


「司教、本当にお医者様は来るのですか?こんなにも怪我人を受け入れて、薬や包帯は足りるのですか、そして食糧は?」


「提供が不可能であれば、私は率直にそう伝えている。物資は補充される。」


「しかし、この混乱した街の中で、食料品も医薬品もことごとく暴徒に略奪されてしまっているのでは?」


「言っただろう、市議会議員の先生が礼拝所にお越しになったと。そうも心配するなら、これから搬入される物資の受け入れ作業をお前も手伝いに来い。」


 司教はやはり足を止めることなく口早にマディスへと告げ、怪我人たちのうめき声や泣き声で満たされた聖堂を突っ切って宿舎の裏手へと向かう。食糧や薬を運搬している荷車など、この暴動状態では絶好の標的と化すであろうというマディスの憶測だけは正しかった。


 が、その荷車を護衛している存在については予想が届かなかった。金属製の頑丈な荷車はあちこちが焦げ、あるいは返り血が点々と付着していたが、無事に礼拝所の裏手へと到着していた。周囲を取り囲んでいるのは遠目からうずたかい毛皮の山脈のように見えたが、いずれも人間の数倍の体格を誇る新参画市民の護衛達であった。


 様々な荷箱の積み上げられた荷車の中心には薬箱を抱きかかえるようにして、白衣を身に着けた医者が蒼ざめた顔で座っていた。


 が、その医者よりもよほど小柄な老人は輸送隊の正面で堂々と立ち、礼拝所から出てきたばかりの司教と対面していた。


「支援に感謝いたします、グラッドストン議員。そして、新参画市民の皆様。」


「グルル……。」


「街の騒ぎを起こした原因の半分は俺にあるからな。ともあれ、お医者様を先に入れてやれ。薬品を狙った暴徒どもにののしられて、すっかり縮み上がっておられるから。」

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