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忘れられたころ第五話   戯作は戯作、元より虚構

 ルスサカの街の聖堂は早朝の礼拝時間を過ぎればいったん門は閉じられ、礼拝所の裏手や廊下を掃除していた修道士見習いたちは聖堂の清掃へと移る。


 拝観者たちの靴底に付いて持ち込まれた塵芥、忘れ物や落とし物、時には不信心な来訪者によってポイ捨てされたゴミも含め、そこそこ広い聖堂を掃除する務めは見習いたちにとって一番の重労働でもあった。定刻までに済ませなければ休憩時間が削られ、そのまま購読室へ向かって聖典を読む修行を始めなければならない。そのため見習いたちは無言のまま、テキパキと清掃作業を進めていった。


 慌ただしい屋内とは打って変わって、早朝の礼拝に訪れていた市民たちが去った後の礼拝所敷地内はがらんとし静けさに包まれていた。うすら寒かった朝の空気は温められ、その色も和らいだかと見える芝地を踏む足音も柔らかく響く。


 礼拝所と同じ区域にある学院へ講義に向かった司教を見送り、修士であるクルフは芝生の上を近づいて来る一人の啓蒙市民を出迎えた。随分と古臭いボディパーツに身を包んだ彼は、雑音が混じりすぎて声として判別できない音を出しかけ、発声機構のある自分の胸部を小突き改めて挨拶し直す。


「おはようございます、こちらの方ですか?」


「はい、私はここの修士です。ようこそ聖堂へ。朝の礼拝はもう終わってしまいましたが……」


 クルフは来訪者に対するお決まりの挨拶を返しながら、このみすぼらしい機械市民の訪問を多少訝しんでいた。獣人が人間の信仰を取り入れぬのと同じく、機械の身体を持つ啓蒙市民たちも信心を起こすことはない。人間たちが事あるごとに自らの存在意義を疑い惑うのとは異なり、自らの言動に明確な論理を見出す……あるいはこじつける者たちにとっていよいよ宗教は不要な存在であった。


「いえ、礼拝に来たのではないのです。私、ヴァルカヌ書店のサボーと申します。こちらの礼拝所で、マディスという方はおられますか?」


「えぇ、マディスはうちの修道士見習いですが。」


 普段ならば逐一見習いの名前など修士は憶えていないが、つい先ほど司教によって呼び出されたばかりの彼の名は鮮明に記憶されていた。


「実はマディスさんから書籍のご注文をいただいたのですが、当方には在庫がなくお届け出来ないのです。」


「まぁ、わざわざそれをお伝えいただくためにご足労を。」


「つきましては、在庫切れの証明書、そして受注可能な書籍カタログをマディスさんにお渡ししたいのですが。」


 サボーは書店から持参したのであろう紙袋をガサガサと抱え直している。おそらく注文に応えられなかった顧客に渡すための一式が、その中に揃えられているのだろう。連絡を入れるためであれば電話という手段もこの世界にはあったが、ある程度以上複雑な機械となれば啓蒙市民の手に依らなければ設置や故障時の修理が出来ない。啓蒙市民が普段出入りすることのない礼拝所には、必然的にほぼ機械類が存在しない。


 すなわち、礼拝所の修道士見習いであるマディスに用があるならば、マディス本人の元へ訪れなければならない。たった今聖堂の清掃を始めたばかりの見習いたちは、床から濛々と砂埃を立ててせわしなくゴミを片付けているに違いない。その騒動の中へ入っていって一人の見習いを呼び出してくる気はクルフに起きなかった。


「こちらでお預かりしておきましょうか。マディスは今も見習いとしての務め中ですので、暇が出来た時に渡しておきます。」


「えっと、出来れば本人に直接渡したいのですが。」


 本人確認が必要な役所関連の書面を渡すわけでもないのに、妙なことを言う書店員だとクルフは感じた。彼女が紙袋を受け取るために差し出した手をサボーは見つめ、しかし持参した物を渡そうとはしない。


「その、やはりプライベートな情報ですので。どのような本をお客さんが注文されたか、というのは。」


「きっと、彼は聖典を研究するための参考文献を注文したのでしょう。なかなか普通の書店では置かれていないものですからね。」


 その推測はおおむね正しかった。街で一般的な書籍を扱う書店は、古書の研究にて参考文献として扱われるような類の資料を求める場所として不適切である。クルフはこの書店からの連絡をマディスへ伝えると同時に、聖職を志す者が研究を重ねるうえで然るべき文献の目録を教えようかとも考えていた。


 一方で、自分が夢中になっている『竜狩りの物語』が本業の聖職者によっても研究に用いられるのだと勘違いしたサボーは、俄かに勢いづいた。


「えぇ、えぇ、ウチのようなちっぽけな書店では中々置けませんからねぇ、『竜狩りの物語』は。」


「注文内容はプライベートな情報ではなかったのですか?」


「あっ。」


 クルフが怪訝そうな表情を強めたのは、サボーの言動に矛盾を見出したためだけではなかった。その物語は一般向けの読み物としては認識されていたものの、研究者が専門的に扱うべき類の本ではなかったためである。


 そうとは気づかないサボーは、自らの犯した失態をいかに収集すべきかと焦りに焦っていた。レンズ眼の中心にある絞りを収縮させたまま、辺りを警戒する鳥類のようにせわしなく頭部をあちこちに振り向けながら言葉を探している。


「えぇと、その、個人情報の漏洩につきましては、あの、」


「いえ、胸の内に留めておきます。しかし……あんな戯作を読んで時間を潰しているから、司教には勉強不足だと叱られるのです、マディスは。」


 彼女の独り言を耳にし、サボーのせわしない動きはピタリと止まり、今度はじっとクルフの顔を見つめ始めた。


 自らの大いに入れ込んでいる作品を貶されたように感じた彼は、書店員として取り繕っている態度を内側から生来の性格が押しのけようとしていくのを感じていた。すなわち、黙っていられなくなったのである。小心者のサボーには、自らが本来弁えるべき態度が染み付いたままであったが。


「とは言いましても、お言葉ながら、『竜狩りの物語』は現代を生きる方々にとっても非常に読み応えのある作品だと思われます、いち書店員として申し上げますと。」


「そちらの書店には、置いていないんでしょう?」


「……はい。初版のみが出されたきりですから、数十年前に。」


 サボーの声に混じる機械的な雑音が俄かに増え始める。その物語は世界の成り立ちを描いたとはいえ、古典と呼ぶにはあまりに新しい時期に出された読み物であった。


 現在の社会を形成する以前の戦乱を、実際に経験した老人たちがまだ幾人かは存命であるこの時代。近現代についての考証に耐えうる事実の記載された資料ならばまだしも、物語として書かれたものが真面目な研究対象となることはあり得なかった。


「そのお話の読み応え云々はさておき、私ども聖職を志す者は何らかの脚色を含む内容を論議の場に上げることはありません。」


「いや、この物語はですね、極力主観を排して描かれた内容なんです。いずれの種族、いずれの登場人物の肩を持つわけでもなく、純粋に歴史上にあった事実を列記してあるんですよ。」


「物語の形を取っている以上、記載される事実を書き手は取捨選択しているでしょう。いかに主観が排されていようとも、選択的に示される事実は真実たり得ません。」


「そう……かも、しれませんね。」


 普段から数千節におよぶ聖典の内容について研究と解釈に明け暮れている聖職者に、多少本を読み齧った程度のサボーが敵うはずもなかった。反論をぶつける心づもりが萎え切った彼は、早くもクルフから目を逸らし手近な地面に生える雑草を見つめている。


 ただそれを渡すだけで済んだはずの紙袋を手にしたまましょげ返っている訪問者の様子に気付いたクルフも、自分の負けず嫌いな性格が表に出てしまっていたことに気づいた。


「その……えっと、中でお待ちになりますか?もうじき、見習いたちが休憩時間に入る頃だと思います。」

「あぁ、いえ、私も、書店のほうに戻らなきゃいけないので。」


 ならば最初から自分に手渡せば良かったのに、と言いかけたクルフはこちらに目を合わせることの出来ていないサボーの様子を前に、その言葉をすんでのところで飲み込む。折よく、聖堂から見習いたちの宿舎へと延びる廊下の窓々に、掃除を終えたのであろう面々が歩いていく影が見え隠れし始めた。


「マディスを呼んで参りますね、少々お待ちを。」


「はい、お手数をおかけします。」


 手数なら散々掛けさせられた、との言葉もまたクルフは飲み込んだ。

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