忘れられたころ第四十四話 むき出しの善意、秘めた悪意
司教に命ぜられた通り、重傷人たちの身体を簡易寝台に横たえ、なおも散発的に礼拝所へと訪れる怪我人たちのために食糧を厨房へ取りに行く間も、マディスの懸念は常時警鐘を鳴らし続けていた。言うまでもなく、怪我人の一人として聖堂内部に居座っているパブロの存在が原因である。
この調子で人間の怪我人たちを受け入れ続けていれば、いずれ礼拝所の内部は腹を空かせ傷を負った者たちでいっぱいになるだろう。彼等が到着し次第、寝床をあてがい、薬や包帯で傷の処置をし、食糧を与えているが、この調子では礼拝所の物資がいつかは底をつくのも目に見えている。
その際に不満を鬱積させた彼らを、ここぞとばかりパブロが扇動しないなどという保障は万に一つも得られないのだ。
「このままじゃ、前の街で俺たちがやったことと同じように……」
今でこそ、修道士たちが声をかけて回る余裕もあり、食事や治療の施しを受けた市民たちは感謝を覚えている。が、この聖堂がごった返し、苦痛を訴える声々で埋めつくされた時、いかに平静を呼びかけたところでこちらの声はかき消されるだろう。
聖職者というのは、どこまでもお人よしなのか。聖典に関する議論においては決して妥協を許さない修士クルフも、パブロが大袈裟に痛がって見せる擦り傷にいちいち驚き、神妙な面持ちで励ましの言葉を掛けるなどしている。
彼女に親切にされたパブロが浮かべる笑みが、この上なく下卑た色を帯びていることに気づかぬマディスではなかった。幾度目かの往復で料理の皿を載せたトレイを手に厨房から出た彼は、ちょうど廊下にて司教と鉢合わせた好機を逃さず進言する。
「司教、あの人相の悪い黒髪の男は危険です。至急追い出すべきかと。」
「彼の何を知っているんだ。」
いつも通り早足に廊下を歩き去っていく最中の司教であったが、マディスの前に足を止め、その怜悧な眼差しでじっと見つめてくる。応答の必要がない内容には全くの無視を通す司教がそのようにしたということは、マディスから聞き出すべき何事かを彼もまた求めていたわけである。
「奴は……その、何らかの、良からぬ目的を以て礼拝所を訪れたように見えます。」
「マディス、そのように歯切れ悪く喋る印象は君に無かったのだが。私の演説について指摘を行った際の、君の弁舌とは実に対照的だ。」
司教の言う通りであった。あの時は、この街の住民たちが抱く不満を増幅させるかのごとき文言に懸念を抱いたがための反論であったが。
今回の進言について論拠を示す上で、司教に対し明確に語るべき言葉は大いにマディスの口を重くした。よもや、自分とパブロがかつて手を組み、以前修行していた礼拝所にて暴動を引き起こし略奪を行ったのだ、と包み隠さず言うわけにもいかない。
司教はまっすぐこちらを見つめ続けている。明らかに、マディスしか知り得ない情報があることに確信を得ているかのように。
「まず、あの男は、単なるかすり傷しか負っていません。それを大げさに痛がって見せて、他の怪我人たちの治療に割くべき人手を奪っています。」
「かすり傷とはいえ、心細くなれば痛みも実際以上に強く感じるだろう。感染症の恐れもある、彼に治療の手を差し伸べぬ理由は無く、あまつさえここから追い出す理由にもならない。」
「しかし、それでも……そう、自分は、あいつが居酒屋の食器を勝手に持ち去っているのを見かけました。奴に、礼拝所のものを持ち去る目的が無いとも限りません。」
「我々は、持たざる市民たちに与えるために迎え入れているのだ。礼拝所に寄進されたものは、もとより全て市民たちに還元されるべきものだろう。」
マディスが自らの本心を語るわけにもいかないとなれば、パブロを追い出すべき理屈を即興で並べる他になかった。確たる事実に裏打ちされていないその浮薄な理屈は、司教によって悉くあっさりと覆されてしまったが。
わざわざ足を止めて自分の言葉に耳を傾けた司教であれば、パブロの表に出さぬ凶悪さに気づいたものだと信じていたマディスは、司教がその次に続けた言葉で失望することとなる。
「君も彼を疑うばかりでなく、今の彼の姿をしっかりと見るがいい。あの男はむしろ、我々の力になってくれている。」
「アイツが……礼拝所の力に、ですって?」
「あぁ。悪いが失礼する、市議会からの客人を応対せねばならない。」
マディスと話すべき内容はもはや無いとばかりに、スタスタと廊下の奥へ歩み去っていく司教。彼の長身を見送っているマディスの脇を、幾名かの上等な制服に身を包んだ男たちがどこか慌ただしく、マディスには一目もくれずに通り抜けた。
司教が伝えた言葉は、半分は正しかった。パブロは新たに面倒を見て回る修道士が来るたび、ただの擦り傷を披露するパフォーマンスに飽きてしまったらしい。彼は立ち上がってあちこちと歩き回り、知り合いらしい怪我人たちに逐一声をかけてまわっていた。
傍から見れば礼拝所の修道士たちを手伝っているかのごとき光景であったが、パブロがしていたのはただただ励ましの言葉をかけるだけのことである。マディスにはその行為が、いずれ暴動を煽り立てる際に円滑な意思疎通を行うための下準備にしか見えなかった。
「痛ぇ、痛ぇよ……」
「おう、しっかりしろ!お前はこんなところでくたばりゃしない!また一緒に酒飲んで騒ごうぜ、約束だぞ!」
「あぁ……ありがとう、パブロ、お前だけはいつも俺の近くに居てくれる……」
「あったりめぇだろ、早くそんな傷、気合で治しちまえよ。ん、どうした、ペラ。俺の新しい友達に紹介してやろうか?」
「……。」
マディスは答えず、いずれ尽きるだろう食事を黙って怪我人たちに差し出していく。その皿をひったくるようにして奪ったパブロは、いかにも親身になっているかのような声色を遣いながら、体の痛みを訴え続ける知り合いの前に突き出したのであった。
「ほら、食え、食えって。俺の分は要らないからさ。」
付近に居る者たちからの好意的な視線を集めながら、パブロは笑みを絶やさずにいた。




