忘れられたころ第四十二話 もはや老いた者たち
木立の中で、湧き出る水の表がゆっくりと流れている。いつもは忙しく各々の縄張りを見回っているはずの鳥たちは、一斉にこの街における数少ない緑地……老英雄バルカの邸宅、その敷地内の一角にある木立の奥へと集まって来ていた。小動物たちは、街の至る所で暴徒たちが立てている騒音や怒号に怯えて逃れ来たのである。
今も慌てて飛び込んできたカラスに追い立てられ、止まり木を離れたムクドリたちが下の地面に点々と糞を散らす。それは芝地に直接腰を下ろしているシオルの膝にも飛び散っていたが、老婆は気にする様子もなく木の葉の囁きに耳を傾け続けていた。
密生する木立の間を縫うようにうねる小道を辿り、曲がった腰をさすりながら歩いてきたバルカはようやく探していた相手の姿を見出した。
「ここにいたのか、シオル。この歳になってもなお、君に振り回されようとはね。」
「私としては、歳を重ねておとなしくなったものだと思っていましたけれど。」
バルカは返事の代わりに小さく咳払いをし、シオルの隣に腰かける前に地面の鳥の糞を靴裏で擦り散らす。長年連れ添った男友達の手が、自分の膝に散った汚れをハンカチで拭き取る様を見つめながら、シオルは何気なしに尋ねた。
「私、往生際が悪いかしら。」
「何を言い出すんだ、いきなり。」
どうにか手の届く範囲で鳥の糞の清拭を終え、やれやれと腰を下ろしたバルカの靴めがけて新たに飛来した小鳥が糞を落とす。顔をしかめて靴を拭っているバルカに向け、シオルはこう返した。
「いずれ、報いを受けるものだと信じているの。私が余計なことを思い立ったせいで、コルニクス先生も、父さんも、自警団の皆さんも……それから、そう、サベイ団長さんも。皆の人生を、大きく狂わせてしまったわ。」
「サベイ団長か!懐かしい名前だな、何十年ぶりに聞いただろうか。ところで君に人生を狂わされた名簿の中に、俺は入っていないのかい?」
「あなたは下っ端自警団員から英雄にランクアップしたでしょう、感謝してもらいたいほどよ。」
「相変わらず父親譲りの腹芸が冴えていらっしゃるお嬢様だな。」
ガサガサと鳴る草むらの音にバルカが軋む腰をさすりながら振り返ってみれば、一匹の黒い野良猫がじっと隠れて二人の様子を窺っていたのであった。バルカ邸の広大な敷地の隅に生い茂る、この木立は身軽な小動物たちの避難所のごとき様相を呈していた。
「その報い、今になって受けようとしているの。人間たちが治める社会は、市民の不満を膨れ上がらせるばかりだったから。」
「獣人が治めている時代だって、俺たちという市民が不満を抱えて立ち上がったじゃないか。」
「今ほど多くはなかったわ。私が声をあげた時なんか、こんなにも大勢、街中の人たちが一斉に暴動を起こすだなんてことなかったでしょう?」
密集して生える木立は外部からの喧噪を多少は和らげていたが、それでも暴徒たちの金切り声や猛る獣の咆哮、尾を引いて長く続く絶叫は時おり老人たちの耳に届いた。屋敷の門の方から俄かに叫び声が上がり、力尽くで鍵を破壊して民衆がなだれ込んできた音が響いた時、バルカは多少の緊張を眼差しに走らせて顔を持ち上げた。
が、シオルは変わらぬ穏やかな調子で足元の池の水面を眺めつつ、言葉を継いでいた。
「今の時代は、私たちが呼んでしまったの。あのまま、獣人たちに政治を任せていれば、人々はもう少し穏やかに生きていられたかもしれないわ。」
「そうか?いずれ、同じ道を辿ったとは思うがな。いつの時代も人間の欲求ってのは、歯止めが利かないものさ。」
「そのとおりね。現に私も、穏やかに過ごしていられる時間を多少でも引き延ばそうとして、屋敷から逃げてここに隠れているんですもの。」
シオルはここに来て初めて顔を上げ、バルカの目を真っ直ぐに覗き込んで笑みを浮かべる。彼女の顔には深い皺が幾本も刻まれ、髪の毛は真っ白になってしまっていたが、その笑顔は自分勝手な小娘だった昔と何ら変わりなく狡そうに、そして生き生きとして見えた。
若かったころのバルカは、この小賢しい娘の笑顔を全く好いていなかったことを思い出して苦笑しながら俯いた。
「あわよくば、あの暴漢どもに見つからず隠れ通しおおせるとでも考えているんじゃないのか。」
「もちろん。私は死にたくないわ、寿命がどれだけ近づこうともね。いざとなれば、英雄さんが私を守ってくれるでしょうし。」
「こんなヨボヨボのジジイに何が出来るっていうんだ……。」
バルカは自嘲気味にそう答えたものの、不意に背後で枝を踏み折りながら近づいて来る重々しい足音には素早く反応し、腰に手を当てながら立ち上がる。彼の左手は痛む腰を庇うようにそのままあてがわれていたが、右手はベルトに吊るしていた折り畳み式の警棒に添えられていた。
老人が微笑みを絶やさぬまま、しかしその真剣な眼差しで出迎えたのは屋敷に務めていた警備員であった。ヘルメット型ヘッドパーツの奥で表示された目をぱちくりさせ、全身の装甲をガチャガチャと揺らしながら現れた彼は安堵の余りノイズまじりの溜息を吐いた。
「あぁ!よかった、ここに居られましたか、バルカ様、シオル様!」
「ったく、驚かすんじゃない。いよいよこのみすぼらしいジジイにも、お迎えが来ちまったかと思ったぞ。」
「申し訳ございません、バルカ様。よもやと考えてこちらを確認して正解でした。しかし……その、門は破られ、屋敷の中に暴徒どもが……」
「いいの。あなたもこちらへいらっしゃい。」
シオルに促されるままに、彼女の傍へと赴き跪く警備員。もう少し楽な体勢で、と老主人から言われても、彼の体型はくつろいだ格好で座るに適さなかった。
「すると、お前はこの屋敷で働き始めてからこの方、あぐらをかいたことも寝そべったこともないのか。」
「今になって初めて気づくだなんて、ごめんなさいね。」
「いえ、自分はわずかな時間でも静止できていれば、それで休息は取れますので……」
屋敷の方から、盛大にガラス窓が破られ、破片が飛び散る音が聞こえてくる。中から歓声と喚き声と悲鳴がごった混ぜになって、木々の葉に吸音されながらも遠く響いてきた。
「あぁ、お屋敷が……やつら、手に火の付いた廃材を掲げても居ました。きっと、このままでは大変なことに。」
「くれてやれ、どうせ老い先短い老人が抱え込んでても仕方のないものだ。金庫も空っぽだからな。」
「あら、司教さんに全額寄進なさったの?」
「君と旅行にでも行ければと貯蓄していた分だったが、こうなる前に僅かな信心に応えておいて正解だったよ。」
知らされていなかったサプライズプレゼントが、やはり知らぬ間に無に帰していたことを告げられたシオルは、この期に及んでもなお残念そうな表情をバルカに向けている。老人たちの間に流れる時間は穏やかであったが、その様子を跪いて眺めている警備員は僅かに空恐ろしいものを感じていた。
(あの新入り使用人ガロアが行方不明なこと、全く心配なさらないんだな……まぁ、あんな奴、俺も気にはしていないが。)
警備員の予想通り、やがて火の手が上がり始めた屋敷は窓の内に赤い炎の舌をチラつかせながら黒煙を上げ始める。懐に思い思いの戦利品を抱えた略奪者たちは、体中に付着した血しぶきを拭いながらも次なる獲物を求めて街へ走り出て行った。




