竜狩りの物語第四十話 花弁の量産跡
具合の悪そうなシオルの傍につきっきりで面倒を見、背をさすってくれなどしたバルカのおかげで多少は体調が良くなった……というのはシオル自身の本心から程遠かったものの、ひとまずそう述べた彼女はようやく今宵の食事にありつけることとなった。
理性を奪われた獣人兵士たちが街中を跋扈しているこの状況においても、食糧を求めることが出来たのはひとえにレナルドの功績である。彼は今なお理性を残した数少ない獣人兵士たちを連れて商店の扉を叩き、売り物として作り置いてあったサンドイッチを過分な対価と引き換えに得てきたのであった。
殆どの商店、特に食料品店は固くその扉を閉ざしていた。食糧の匂いを嗅ぎつけた獣に殺到される恐れについては、既に街じゅうに広まっていたのである。
きっと紙包みでは防ぎきれないであろうその美味そうな匂いを漂わせた状態で、いかにしてレナルドがこの場所まで安全に帰って来たのかについてはシオルの懸想するところではなかった。
今の彼女は、気を抜けば鳴りっぱなしになるであろう腹の虫を抑えつつ、好きなだけがっつきたくなる食い意地にも抗いつつ、いかに食欲無さげに振舞って見せられるかのみに集中していたのである。
昼間に作られてから時間が経っているのであろう、具材やパンの端が乾いてしまったサンドイッチでさえ、丸一日食事を口にしなかったお嬢様には十分すぎるほど魅力的に移ったのである。
「シオル、食べられるか?気が進まなくても、腹にものを入れておいた方がいい。」
「……うん……。」
彼女の本心をまるで窺い知れもしていないバルカは、本気で心配そうにシオルの蒼ざめた顔を覗き込んでいる。礼儀を弁えた面々と歓談しながら食事を摂るのであればまだしも、無作法な若造に顔を覗き込まれるという状況は多少なりとシオルの食欲抑制に役立ってくれていた。
油断すれば一口ででも食べきってしまえそうなサンドイッチ二切れを、チビチビと齧り続けてどうにか平らげたシオル。彼女の血色がよくなったのは父たる市長の訃報に嘆く哀れなお嬢様を演じ続けるうえで不都合なことであったが、バルカは純粋に安堵の表情を浮かべていた。
「シオル、今日はもう身体を休めた方がいい。大部屋の寝室じゃない方がいいか?あの部屋は、他の団員たちも一緒だから……。」
「地下に、重傷者用の治療室があったでしょう。お嬢様がお休みになるのであれば、そこが適切かと。」
しばらく離れて獣人たちと何事か話し合っていたレナルドが、いつの間にかこの場に戻ってきていた。拘留されていた間はこの男へ敵意を向けていたシオルであったが、今はしおらしく彼の言いなりになっていた。
何と言っても、後ろ盾となってくれそうな人物は他に居ないのである。愚直で正義感の強いバルカは何やかやとシオルのことを気にかけてくれているが、このチビは頼りない。自らの意思で人生を歩んでいるつもりだったシオルは、今にして誰かに保護される状態に慣れきっていた自分に気づいていた。
レナルドに言いつけられた通り素直に、バルカともども詰め所の地下へと向かうシオル。重傷者を収容するための治療室は消毒液の臭いが染み付いた寝台さえ我慢すれば、男達の汗臭さや物音に煩わされることなく体を休められそうな静寂の中にあった。
「眠れそうか?」
バルカに問われるまでもなく、空腹の解消されたシオルは健全そのものな睡魔が頭の上からのしかかってくるのを感じていたが、寝台に腰かけたまま物憂げな表情を作り続けるのに努めていた。
「心細くなったら、いつでもいい、俺を呼んでくれ。俺も……初めての巡回任務で、飲み屋街の乱闘に巻き込まれた時は眠れずにうなされたんだ。……いや、シオルの今の気持ちとは、だいぶ違うかもしれないけれど……」
自分を心配してくれているのは分かるが、余りに不器用な言葉を掛けて来るバルカをサッサと追い払って眠りにつきたいというのがシオルの本音であった。物憂げに伏した目をバルカに向け……正しくは睡魔に襲われて瞼が重くなっていたのだが……シオルは掠れた声でつぶやいた。
「ありがとう……もう大丈夫、眠れそう。」
寝台に横たわったシオルは、バルカが必要以上に大きな音を立てないよう、そっと扉を閉める様を薄眼で確認するのがやっとであった。間もなく、悲劇のヒロイン、薄幸のお嬢様であるはずのシオルは盛大にいびきを立てながら惰眠を貪り始めたのであった。
彼女が深い眠りから引き戻されたのは、明け方にはまだ遠い深夜の闇の中である。バルカが残して行ったのであろうランタンが扉脇のテーブルの上で僅かな灯りを揺らしている。薄闇の中で目が慣れるまでしばたたかせていたシオルは、自分の耳が拾い続けている雑音に自分が起こされたことに気づいた。
最初は疲れから来る耳鳴りかとも思えたが、衣擦れの音を立てながら起き上がってみれば確かにその雑音は部屋の外から響いてくる。遥か遠くの屋根を雨滴が叩いているような、あるいは無数の枯れ葉が秋風に流されて地面を撫でているかのようなその音は、細く扉を開けて確認した彼女の耳によりはっきりと届いた。
「ザザ……ザッザザ……ザッ……」
「エノ?」
最初、彼女がそう闇の中へ問いかけたのも無理からぬ話であり、確かにエノが立てるノイズ音のような泣き声とそれはそっくりであった。返事はなく、頼りない小さな火を灯したランタンを手に、シオルは何者が潜むとも知れぬ廊下へ踏み出すのを躊躇っていた。
が、彼女が決断するより先に、異変を察知したバルカがシオルのもとへと降りて来る足音が聞こえ始めるのが先であった。夜通し番をし続ける新米団員の常として、地下へ向かう階段に座ったままで彼は深い眠りに入らぬよう身体を休めていたのである。
「どうした、シオル。お前の声が聞こえたから、様子を見に来た。」
「この廊下の奥から、変な雑音が聞こえるの。エノが立てる音に似ているんだけど……」
「エノなら上の階で、今もコルニクスの身体にしがみついている。エノの音ではないだろう、これは。」
地下へと降りてきたバルカの耳にも、その雑音は確かに聞こえ始めた。
彼はシオルを制止するよう手で合図し、炎を大きくしたランタンを掲げて廊下の奥へと向かう。不安定に揺れる灯りの中では動くものと動かぬ物を区別するのは難しかったが、バルカの感覚はこの先に生き物の気配を感じ取っていなかった。
いくつかの倉庫の扉を過ぎ……バルカは明確に雑音が大きく聞こえる扉の前で立ち止まる。地下の倉庫区画は団長からの許可なく勝手に出入りすることを禁じられていたが、今その団長は居ない。
意を決して扉に手を掛けると、施錠はされていないのか簡単に開いた。その部屋は普段から物資の出し入れが頻繁であったらしく、床には塵や埃がほぼ積もっていない。
代わりに、いくつもの細かな白い糸が散らばっていた。その糸の先を辿ったバルカは、思わず声を上げる。
「うわぁっ……!?」
「ザザザ……ザザッ……」
そこには椅子に縛り付けられた、一体の金属人形があった。金属の肌の至る所には殴打されてへこんだ跡が残り、人形がひどく痛めつけられていた様を如実に物語っていた。人形に痛覚があるとするのならば、の話だが。
裂けた金属の肌からは何本もの真っ白い糸が滝のように垂れ下がっている。シオルとともに自律人形の作製や訓練に携わっていたバルカの目には、これが叡智の花弁から生えるものであることが判然としていた。
そして、人形は放置されたまま朽ちていく自らの存在を嘆くがごとく、雑音を心細げに垂れ流し続けているのであった。




