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忘れられたころ第三十八話   その炎は祭りのごとく

「グゥゥ、ガオォ!」


「見つけたか。行くぞ。」


 緊迫感を伴った咆哮が響いてきた路地に向け、グラッドストンは護衛たちを従えながら足を急がせた。萎び切った老人の身体ではあるが、杖を使わずともそこそこの速さで走る事は出来る。本来の人間としての年齢に換算した場合、それはあり得ない身体能力ではあったが。


 グラッドストンの向かった先では既に、大柄な狼が護衛の一人によって取り押さえられていた。牙を剥きだして威嚇し続ける狼であったが、護衛の熊のごとき怪力で抑え込まれ攻撃することも逃げることも出来ずにいる。鈍器を構えて警戒する護衛達に囲まれながら、老人は狼の背にその手を載せた。


「グルルル……!」


「落ち着け、少し触れるだけだ。竜のように、完全な理性の与奪を行うことは出来ないが……」


 グラッドストンの手、その爪の先まで生えそろっていた白い毛がゆっくりと狼の背を撫でる。その内の一本は意志を持つように狼の毛皮へと突き刺さり、スルリと入り込んでいく。


 直後、抑えつけられてもがいていた狼の全身から力が抜け、ガクリと頭が垂れる。意識を失ったように倒れ伏したその獣は、微動だにしなくなった。グラッドストンが狼の背に載せていた手を除けてゆっくりと立ち上がる一方、周囲の護衛達は不安そうに顔を見合わせている。


「心配いらない、目を覚ませば少なくともお前たちと同等の知性を取り戻しているはずだ。コイツを俺の屋敷へ連れていってやれ。」


 その後もグラッドストンは護衛によって取り押さえられた動物たちのもとへと駆けつけ、あるいは捕縛されて連行されてきた動物へと触れ、彼らを眠らせ屋敷へと収容させた。いずれの獣たちも一様に暴れていたところを捕らえられたものであったが、いずれも人工物に囲まれた環境に怯え、あるいは逃亡を図っているに過ぎなかった。


 一名ないし二名程度の護衛で取り押さえられる程度の獣であれば問題はなかったのだが、熊ほどの大柄な動物ともなれば確保し続けることは困難を極めた。同じく熊サイズの護衛達が必死の形相にて六名がかりで抑え込み、幾名かは流血している現場にグラッドストンはたどり着く。


「グォォ……」


「ガッォォオオ!!」


「理性は失っているが、服は身に着けている……うちの護衛の一人か。」


 手をかざし、自分の身体から生えた白い毛を触れさせようと接近するグラッドストン。だが、渾身の力をもって暴れる熊は口元を抑えつけられながらも全身で抗い、岩石の如く筋肉の締まった肩が老人の腕にぶつかる。


 バランスを崩して仰向けに転んでしまった老人のもとへ、後方から別の護衛たちが駆け寄ってくる。が、心配そうに見つめてはいるものの誰一人としてグラッドストンの身体に直接触れようとはしない。


「いや、気にするな、大丈夫だ。私の有する叡智の花弁に触れてしまっては、お前たちの意識まで奪ってしまう。」


 咄嗟に地面についたグラッドストンの掌からは血はにじまず、破れた皮膚の内側からは白く細かな糸が綿のようにはみ出ているばかりであった。暴れる熊が改めてしっかりと抑えつけられている所へ、彼はその傷跡を押し付ける。


 瞬間、熊はドタリと全身の力を抜いて地面へ伏せた。グラッドストンからの目配せを受けてその体を屋敷へと搬送していく護衛達であったが、熊と同等の怪力を以て熊の巨体を引きずって運ぶだけでも人手は相当数必要であった。


「ウチの護衛たちの回収は、ままならぬか。お前たち、くれぐれも白い毛の塊を見つけても触るんじゃないぞ。」


 老人の傍らに立つ護衛の一人が、鼻を空へと向けてひくつかせ、不機嫌そうな声を上げる。遅々として改善の進まない現状に苛立ったのみならず、風に乗って実際に漂ってきた臭いが不穏さをはらんでいたためである。


 彼を先行させ、足を進めているうちにグラッドストンの鼻にもその臭いが判別できるほどになった。野性的で、悪臭に満ちた火災現場のような……


「奴ら、肉を焼いているな。」


 臭いという道しるべに立ち昇る煙も手伝い、現場は分かりやすかった。市場の広がっていた広場は暴徒たちによって殆どの屋台が破壊され、その建材が燃料として供されたかがり火があちこちに燃え盛っている。


「ガルル……!」


 そこで歓声や奇声を上げている人間たちよりは、まだ冷静さを残していたグラッドストンの護衛は声にならない呻きを上げて顔を背ける。かがり火の周囲に積み上げられていたのは、ぬらぬらと血に染まった臓腑の山である。


 剥がれた獣たちの毛皮は人間たちの尻や足の下に踏まれ、廃材によって串刺しにされた獣の肉は炎の中で脂を滴らせながらも不味そうに焦げていた。


「お前たち、これを今すぐやめろ。」


 焚火を囲んで焼肉にかぶりついている一団のもとへ赴き、グラッドストンは威厳を込めた声で言い放つ。空になった酒瓶を手に、ほぼ前後不覚となるほどに酔いつぶれていた男たちは何がおかしいのか笑い声をあげる。


 彼らを煽り立てたパブロの姿は無かったが、その騒ぎに乗じて街を破壊し略奪して回っていた群衆は、怯えて逃げることもままならなかった獣たちを殺していたのであった。常に空腹を抱えて年中面白くない顔を晒していた彼らにとって、食肉ほどの贅沢はなかったのである。


「やめろ!やめろってな!ハハハ!ゲェェップ!ジジイも食えよ!」


「街中をタダ肉が歩き回ってんだぜ、こんな腹いっぱい飲み食いしたのは久々だ!」


「言葉が通じんのか、人間のくせに。獣たちの方が、よほど理性的だ。」


 グラッドストンからの目配せを受け、彼の背後から熊型の新参画市民が姿を現した時はさすがの男達も顔色を失って縮み上がった。護衛はめらめらと炎を上げるかがり火の中へ直接足で踏みこみ、力任せにもみ消している。


「……。」


「く、熊だ!熊が出た!」


「まだお前たちより、よほど理性的な熊だ。今すぐこの肉の焦げる臭いを止めろ……いずれ嗅ぎつけてここに来る、狂暴な熊に襲われたくなければ。」


「なんで、獣は炎を怖がるはずだろう……?」


「こいつらは、火を恐れない。お前たちは刃物や棍棒を手に獣の肉を仕留めたかもしれんが、熊を狩った者はおらんだろう。」


 男達が何かを言い返す前に、広場の一角ですさまじい悲鳴が上がる。遠くのかがり火が盛大に火の粉をまき散らしながら崩れ落ち、猛る獣の咆哮がこだました。身体を鋭い牙で生きながらに貪られているのであろう人間の絶叫は長く続き、その者の喉が張り裂けたのを示すがごとく唐突に立ち消えた。


 グラッドストンの目の前では、酔いは醒めてもヨタヨタと言うことを聞かない千鳥足で立ち上がった人間たちが荒い呼吸を立てながら這うようにこの場から離れていく。


「……。」


「もう火を消す作業はいい、手遅れだ。人間どもは、事を穏やかに収める知恵を備えていない。」

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