忘れられたころ第三十七話 小悪党と火事場
マディスの不安と警戒をよそに、礼拝所の朝はいつも通りに迎えられていた。既に司教は聖堂の演説台で説教を垂れ、拝観者らは席に着いてそれを聞き入っている。
修道士見習いたちも常通り、厨房で忙しく立ち働いていた。野菜の欠片を載せた生地が焼き上がるたびにそれらを皿に乗せ、トレイの上に並べては廊下へと足早に歩き出ていく。ひとり寝坊して遅く到着したことについて無言の中にも批難の視線が投げかけられたマディスは、慌てて彼らと同じ業務に入り、料理の皿を載せたトレイを抱えて聖堂に向かった。
(確実に、パブロが何か悪だくみを実行しようとしているものだと思ったのに。)
拍子抜けなまでに平穏な朝の時間が流れていることに、マディスは多少の安堵を覚えながらもどこか警戒心を拭え切れずにいた。が、拝観者たちが居並ぶ聖堂に踏み入った時、彼の胸中では警戒心が他の感情を抑え込むこととなった。
明らかに、礼拝所を訪れている市民の数が少ないのである。相変わらず最前列は小綺麗な身なりをした敬虔な信徒たちによって席が占められ、その後ろに見すぼらしく薄汚れた姿の来訪者たち……無償での食事提供だけが目当てで、空きっ腹を鳴らしながら司教の声も上の空で聞き流している連中が詰めかけている。
そういった連中が全ての祈祷席を埋め尽くし、座りきれずに立ち見している者が出ているのがいつもの状況だった。しかし今、聖堂の祈祷席は半分も埋まっていない。無償での食事を求める市民が急に減るなどということは考え難い。
「パブロの奴、何をやろうとしてる……?」
マディスの背後では、いつも通り慌ただしく食事のトレイを抱えて聖堂へ踏み入ってきた見習いたちが困惑したように立ち尽くしている。既に最初に給仕へ取り掛かった数名だけで全員への食事提供は完了しており、彼らの仕事はないように思えたためである。
そんな彼らの方を振り返り、本来は司教以外の発言が許されていない聖堂の中ではあれど、マディスは低い声で頼みを伝えた。
「この場は頼む、決して余った食事は捨てないように。後から大量に押しかけてくるかもしれない。」
お前だけが何を知っているのかと訝しげな見習いたちに見つめられる中、自分が抱えていたトレイを手近な祈祷席の上に置いて聖堂の出入り口へと向かうマディス。常通り無条件に開放されている門の前にも、パブロや他の市民たちの姿は無い。
「どこに居る……いつ仕掛けてくる?」
ますます不安の募るマディスは、見習いの身分でありながら許可を得ず礼拝所の敷地から出ていくことにも躊躇などなかった。聖堂の庭園にて清掃を行っていた修士クルフが、驚いたように呼び止める。
「ちょっと、そこの見習い……マディス!どこへ行くのです!」
「クルフさん、このままじゃ危ない。他の見習いたちにも伝えてください。」
何も事情を知らぬまま騒動に巻き込まれかねないクルフに対し、マディスは振り返って真剣な視線を向ける。箒を手にしたままの修士は、今まで見たことのないほど剣呑な気を湛えた見習いの目つきに圧されて思わず後ずさった。
「俺……僕は、警邏隊へと警護を頼みに行きます。何かあったら礼拝所の門をすぐに閉じられるよう、修道士見習いたちを待機させておいてください。」
「何かって……何があるというのです?」
「乱暴なことですよ。騒がしい連中が押しかけてきたら、決して中には入れないように。裏口も封鎖しておいてください。」
クルフが反論を頭の中で取りまとめるより先に、マディスはその場を去っていた。
礼拝所の中には電話機がない。礼拝所の警護を求めるためには、いずこかの商店の店先においてあるであろう公衆電話を探し出すか、あるいは直接警邏隊の詰め所に赴く必要がある。足早に周囲を警戒しながら街を進んでいくマディスであったが、状況の異様さはますます際立ってきた。
人の数が少ないのは礼拝所の中に限った話ではなかった、朝にも関わらず往来には人通りが無い。どこかざわついた空気が流れてくると思えば、甲高い悲鳴が遠く小さく聞こえてきた。
「アイツ、浮浪者たちを集めたまではいいものの、礼拝所以外の場所を狙ったのか?」
わざわざ無防備に彼らを迎え入れる礼拝所こそ、真っ先に標的となると彼は判断していたのだが。安宿の入り口が閉め切られ人気のない路地を抜け、小さな商店の並ぶ区画に踏み込んだ頃には街に響く異常な喧噪がハッキリと聞こえ始めていた。
高く響き渡る悲鳴や鳴き声に交じり、低く空気を震わせているのは怒号だろうか。人間のものとは思えぬ咆哮も混じっているように聞こえる。
ようやく、開いている商店を見つけたマディスは電話を借りるために近寄っていく。恐らく青果店であったろうその場所は商品が根こそぎ奪われた後であり、商品棚は力任せに剥がされたようにささくれ立った板ばかりが残されていた。公衆電話は壊されることなく台の上に残っていたものの、点々と付着した血の飛沫は未だ乾かず赤かった。
「この街に、何が起きてる……?」
マディスはダイヤルを回し、警邏隊へ緊急通報を掛ける。が、受話器の奥からは呼び出し音すら聞こえてこず、奥底のしれぬ沈黙の中からプツプツと雑音が響くばかりであった。
その日、パブロは貧民街でたむろしていた連中を引き連れ、確かに礼拝所へと向かう腹積もりではあった。しかし、早朝になって飛び込んできた報せが彼の決断を変更させた。
「おい、なんか変だ。街のあっちこっちで、野良の獣が暴れてるらしいぜ。」
「マジ?」
「あぁ、それもクマだのトラだの狂暴そうな奴ばっかり。野犬とはワケが違う、街に出ていくのは危ないかもな。」
もとより、パブロは礼拝所への襲撃については慎重に考えていた。修道士見習いとして内部で働いているマディスがこちらに味方しない……ばかりか、パブロの計画を阻止せんと待ち構えているのである。こちらの手の内を知る相手が居る以上、その場へ突っ込んでいくのは不利に決まっている。
ゆえに、パブロはこの報せを一種の天啓と捉えた。より低いリスクで、手っ取り早く収穫を得られる手法へと計画を変更したのである。
「よし、お前ら、何でもいいから叩けそうな物を持ってこい。今から街に繰り出すぞ。」
「言っただろ、狂暴なケダモノどもが暴れてるんだぞ。危ないんじゃねぇのか?」
「ガンガン音を鳴らしてりゃあ、獣は怯えて逃げちまうよ。」
パブロに引き連れられた薄汚い身なりの、しかしほつれた袖から堅く締まった腕を覗かせた一団は立ち上がる。錆びた鉄棒や廃棄されていた鍋、あるいは道端から引っこ抜いた手すりの足に至るまで、彼らは多様なガラクタを手に手に路地裏から繰り出して行った。
路地のあちこちでは積極的にパブロの仲間となったわけでもなく、ただおこぼれに与ろうとついてきただけの連中がどんよりした眼で彼らを見上げながらあちこちにしゃがみこんでいる。パブロは彼らに対しても声を張り上げた。
「お前らも空きっ腹を抱えてへばってるつもりか?どうせ礼拝所で恵んでもらったって、たらふく食えやしねぇんだ。俺たちについて来い!」
「大人しくしてないと、お巡りに捕まるんじゃないか?」
「暴れてる動物どもの相手で忙しいだろうよ。今日を逃せばチャンスはねーぞ!」
幾名かは立ち上がってパブロの後について来たは良いものの、未だ寝起きと空腹が手伝ってボンヤリし続けている者が多い。彼らに見せつけるかのごとく、一軒の商店前までやって来たパブロは先の尖った解体作業用バールをやおら扉の隙間へと差し込み、梃子の原理で力任せに施錠箇所をこじ開ける。
あまりに手慣れた様子で堂々と侵入し、倉庫に並んでいる木箱を運び出してきた彼の周りに民衆は群がってきた。パブロのバールが木箱を叩き割り、中身の果物を投げ渡し始めると歓声が上がり、徐々に集う者たちの数が増えていく。
「普段こんなこと出来ねーだろ?そら、どんどん持ってけ!」
「もう無くなっちまったよ、他には無いのか?」
「いくらでもこの中から持って行きゃいいだろ、取り放題なんだからよ。」
唐突な騒音に慌てた店主が顔を出すも、鈍器を手にした集団が店内へなだれ込んでくる様に顔色を失って引っ込む。恐らくあの奥では警邏隊への通報を試みていることだろうが、街中で暴れまわっているという獣どもの対処に手一杯な連中は対応できないだろう。
「警邏隊は来ない!ボヤボヤしてんなよ他の奴らも、こんなこと出来るのは今日だけだ!」
ひと齧りした果物を掲げて群衆に見せびらかすように振り回し、パブロは数人だけを連れてそそくさと別の店へ押し入り始めた。彼の背後ではますます喧噪が高まり、収穫物を奪い合って争い合う声も聞こえてくる。
つい先ほどまで無気力に路上でへたり込んでおり、パブロが扇動しなければ今朝も変わらず礼拝所の前で大人しく食糧配給を待っていただろうに、楽をして食事にありつけると見るや否や殺気立ち始める連中。彼らをチラと振り返ったパブロは、満足気にニンマリと笑いながら新たな商店の扉を破壊し始める。
「俺たちは取り過ぎるなよ、ウスノロどもに獲物を残していってやるんだ。」
「騒ぎがデカくなるのは、あの連中がいる場所だけだな。」
「あぁ、それに、もし獣どもが俺たちめがけて襲い掛かってきたとしたら……逃げ遅れるのは腹に詰め込み過ぎた奴だけだ。」
バールに力を籠めて一気に扉の木枠をへし折り、戸板を蹴倒して押し入ったその店は雑貨屋であった。既に通りの騒ぎを聞きつけて警戒していた店主とその家族から小鍋やレンガのブロックを投げつけられたものの、荒事に慣れていない一般市民の手は震えており狙いはあらぬ方向へ逸れた。
大振りなナイフを構えては居るものの蒼ざめて声も出せずにいる店主の目の前で、パブロは先を鋭利に尖らせたバールをこれ見よがしに担ぎつつも馬鹿丁寧なお辞儀を披露した。
「朝早くからお邪魔いたします、俺たちはケチなコソ泥です。金目のものさえいただけりゃあ、お宅にまではお邪魔いたしません。どうか、大人しく引っ込んでていただけますかね?」
早くもパブロの背後では、店の戸棚を力尽くで叩き割りながら商品を漁っている男達の歓声が上がり始めている。店主は家族らを背後に庇うよう下がらせ、自分も姿を隠す直前に何かを思いついたように金貨をばら撒き、ぴしゃりと扉を閉めた。ガタガタと重い音が内側から響いている、家具を用いた即席のバリケードを築いているのだろう。
輝く金貨を何枚か掴んだパブロは目を細め、ポケットに仕舞いながら近くの男たちに声をかけた。
「なんて聞き分けのいい店主さんだ、なぁ?ここに散らばってる金貨はお前らのもんだ、後から来る馬鹿どもがこの扉を開けないように見張っててやれ。」
「あぁ?貰えるもんは貰うが、馬鹿どもに話が通じるか?」
「こっちの声が聞こえなけりゃ、仕方ないけどな。」
もはやパブロの関心は他へと移っていた。荒らされて商品が散乱する床から何かを見つけ出したパブロは、いくつかの紙箱を拾い上げる。が、それを自分の服に仕舞いこむでもなく店先に目立つよう並べ始めた。
「何してるんだ。それ、なんだ。」
「俺には興味のない代物だ。が、もしも欲しい奴が出てきたら、こうしておくのが親切ってもんだろ?」
乱雑に並べられた紙箱の一つから、内容物がこぼれ出る。燃料が封入された小さなケースと、圧電素子が組み合わされた携帯用の着火器。これが考えなしに行動する群衆の手に渡ることが、どれほどのリスクを生むかなどパブロの知ったことではなかった。




