忘れられたころ第三十一話 腹を空かせてもなお吐いて
朝の空気に満たされた廊下の向こう側から、説教を行う司教の声が響いてくる。拝観者たちへ配る食事を両の手に、聖堂へと向かうマディスは常よりも急ぎ足であった。
このところ、朝の礼拝で行われる食糧の無償提供に集まる市民の数が増えている。それはじわじわとした変化に過ぎなかったが、礼拝席に収まることなく立ったまま聖堂の後方に群がる者の数は、着実に増えていた。
「自分に限っては、己が身を自力にて扶け得ぬと考える市民は多い。むろん、そのような者たちのため、この礼拝所は門を開いている。」
聖堂に踏み入ったマディスの頭上から、天井に反響した司教の声が直に降ってくる。相変わらず拡声器やその他機械類を一切用いない礼拝所であったが、司教は自らの声をいかにして響かせるかを知り尽くしているかのようだった。
朗々と響き渡る説教の中、マディスは食事を載せたトレイを支えて礼拝席の間を歩いて回る。最前列に近い拝観者相手であれば、トレイの上に並んだそれを差し出すだけで行儀よく一人一枚の皿を取ってくれる。食事と言っても、穀類の粉を水で練った生地の上に野菜の切れを乗せて焼いただけの質素なものであるが。
「着飾る服、住まう家、蓄えた財産、それらが自らの手の届かぬものになったと考える時、人は自らが落ちぶれたと考えるのだろう。打ちのめされ、押し倒されて、立ち上がれぬのだと。」
手早く食事を配り終えたマディスは、空になったトレイを重ねて小脇に抱え、そそくさと聖堂を出て厨房へと戻る。以前までは財源の問題で集まってくる拝観者へ提供可能な食事が不足気味であったが、いずこからか多額の寄進が行われたためか今日はより多くの食事を準備できていた。
その分、修道士見習いたちは複数回にわたって食事配りに従事する羽目になったのだが。
「考えてもみよ、今朝ここに集った者は皆、自らの身を扶けるための一歩を踏み出している。人生が終わった者がここに来るのではない、人生を今後も歩み続けようと志す者こそがこの礼拝を訪れているのだ。」
今度は食事のトレイを片手にだけ抱え、マディスは食事を一人前ずつ差し出して拝観者たちに配っていく。先ほどは皿にのせていたそれらは、折り曲げた紙で簡単に挟まれているだけである。
席順も後ろの方、あるいは立見席となれば、単に食事の並んだトレイを差し出しただけでは勝手に一人で複数を取ってしまう者も多い。本来は全員に対して皿に乗せ給す原則だったのだが、勝手に食器の皿を持ち帰ってしまうケースも増えた。ゆえに、彼等が帰っていった後、床に散らばる紙屑を掃除する手間と引き換えにこのような形が取られているのだった。
「原始の頃、生き方には正しきと誤りが明確に定まっていた。生き抜くべき道を、踏み外せば即ち死が待っていた。現代の世においては、道を誤った後であろうと生き続けることが出来る。市民よ、目先の富を失ったがために生を投げ出すことなかれ。人々に、聖典の叡智のあらんことを。」
司教による言葉は変わらず聖堂じゅうに響き渡っていたが、入り口付近に固まっている連中には聞き入るつもりなど無いようだった。マディスから差し出された食事を半ばひったくるように受け取った彼等は、包み紙ごと食ってしまうかのごとき勢いで貪り始める。
もはや寒さも和らいだ季節だというのに震え続けている指先、色を失った唇、抜け落ちて疎らにしか残っていない髪。ぼろぼろに擦り切れた彼らの服に、冷ややかな視線を走らせたマディスは最後の一切れを今しがた聖堂にフラリと踏み込んできた拝観者に差し出した。
「おぉ、ありがてぇ、礼拝所に行きゃタダで飯が食えるってのはガセじゃなかったんだな。」
「……。」
「な、ペラ?」
「……。」
「無視すんなよ。それとも、貨幣一枚たりと寄進しない信者には、無視で通せとでも司教さんに言われてんのか?」
やけに親しげに話しかけてきた彼の声を、他の何者とも聞き間違えるはずが無い。あきらかに礼拝には遅すぎる到着をしたパブロは、寝起きということもあってか常より血色の悪い顔がほとんど蒼白そのものに染まっている。
が、側頭には細く血管が浮き出ていた。彼が何がしかに対し興奮、あるいは何らかの心づもりを前に気を高めているしるしである。マディスはその様子に目を向けつつ、おざなりな返答を行った。
「礼拝所へようこそ、ただいま聖堂にて朝の礼拝が行われております。聖典の叡智のあらんことを。」
「こいつは恐縮だ、俺みたいな屑を聖職者様が丁寧に出迎えてくれるとは。せっかくありつけた食い物はパッサパサで実にマズそうだが、こちとら文句を言える立場じゃねぇからな。きっと数が足りねぇもんだと思っていたが、食えるだけ感謝しなくちゃいけない。」
パブロの口調もまたマディスに負けず劣らず本心の籠っていない調子であったが、彼と付き合いの短くないマディスはその中に僅かな実感を込めて放たれた文言を嗅ぎ取った。
「パブロ、わざと食事を受け取れないようなタイミングで来たのか?」
「あ?んなバカな真似をするわけねーだろ、寝坊しちまっただけだ。」
「……もしも、俺が全て食事を配り終え、お前に渡す分が無ければ騒ぎ立てるつもりだったか。」
「そんな畏れ多いこと、出来るわきゃない。自分がいかに怠惰かと、涙を流して悔いて帰るよ。」
当然ながら、この言葉を語るパブロは半笑いのまま、クチャクチャと食事を続けている。さっさとこの場を離れようとしていたマディスであったが、パブロのこの反応に一つの確信を得て詰め寄り、低い声で相手の耳に言葉を吹き込んだ。
「あれはもう二度とやらない。」
「あれ、って何のことだ?全然分かんねぇな。」
「騒いで、扇動して、腹を減らした奴らと一緒に、礼拝所をぶっ壊した前の街でのことだよ。」
「覚えててくれたのか、流石は我が親友だ。聖典と結婚しちまって、俺との共同作業を忘れちまったかと思ってたぜ。」
「いいか、俺が何のために今もナイフを持ち歩いているか……」
パブロも顔を近づけていたマディスへと視線を帰す。クチャクチャと噛み続けていた口の中のものを、ペッと吐き出してマディスの見習い服を汚した。
「しつこいなぁ。どっちにしろ、もう俺に協力する気は無いんだろ?何もやらねーよ、内部で一緒に悪さをしてくれる奴がいないと、あの作戦は成功しねーんだから。」
「妙なことを企んでるのが分かれば、真っ先にお前をぶっ刺しに行くからな。」
「その調子じゃ、お前が聖人なんかになるのは永遠に無理そうだ。俺のおかげでな。」
内容物を吐き出した後も口の端からダラダラと垂れていた唾液は、パブロがいかに飢えていたかを示している。が、彼は手に持っていた残りの食糧を床に落とし、靴底でグリグリと丁寧に踏みにじってから礼拝所の外へヨタヨタと歩き出ていった。
「あばよ、ペラ。面倒臭い友達は居なくなってやるぜ、良かったな。」




