忘れられたころ第二十九話 獣にだって理知はある
昼夜の区別がつかぬ、窓のないグラッドストンの屋敷の中。これといって言いつけられる内容もなく、ただただ監視されながら過ごすだけの時間はフィガロを大いに不安で苛んだ。数日か、それとも数時間か、どれほど無為に過ごしたのか分からなくなってきた頃、グラッドストンからの呼び出しが掛かった時には安堵さえ覚えたほどであった。
「どうすれば、解放されるんですか。」
相変わらず深く皺の刻み込まれた顔で固く表情を変えない老人に対し、彼は開口一番そう言い放つ。
「以前も言った通りだ。」
グラッドストンは前に会った時と変わらず独り書類仕事に専念し続けていた。彼の身の回りを固める護衛達はフィガロと違って人語を操ることがなくなった獣人ばかりであり、仕事を手伝える者を敢えて置いていないのかとも思われた。
「店の金を盗んだ者と、その金が見つかればお前は自由の身となる。」
「しかし、自分は拘束されっぱなしです。このままじゃ、何も出来ない。」
「なんだ、自分で探しに行くつもりだったのか?」
「はい。まさか、グラッドストンさん自身が、捜索を行うとは思いませんでしたから。」
冗談を言っている余裕は無く、それはフィガロの本心であった。グラッドストンが従えている獣人たちは話すことが出来ない以上、目撃情報の聞き込み等はグラッドストン自身が行うほかはない。
とはいえ店の金が盗み出された現場に居合わせた自分を閉じ込めた状態で、如何にして真犯人を見つけ出す目途が立つというのか。
「俺自らも探してなどいない。」
「えっ。」
「お前以外の何者かを捕らえておく意味は薄いからな。」
老人が口を開くたび、フィガロはその真意をはかりかねる。それではやはり、グラッドストンはフィガロの弁明を信じていないということだろうか。だが、たしかにフィガロではない真犯人が捕まりさえすれば解放してくれると言っていたではないか。
反論の言葉も見つからないまま口をポカンと開けているフィガロに向け、老人は言い添えた。
「仮に金を盗んだ本人を見つけ出したとして、その金がそっくり残っているとは俺も考えていない。」
「え……えぇ、そりゃ、もう時間も経ってますし……。」
「何よりも、今さらどこの誰とも知れぬ犯人を縛り上げたところで、市場の他の連中に対する何の示しになる。」
尚も混乱の只中にあったフィガロの思考だったが、グラッドストンの言わんとしているところはおおよそ掴め始めた。
市場の地主に一部は上納金として支払うべき売上を、丸ごと奪われ紛失してしまったという今回の事態。原因はフィガロにあったわけではないものの、当事者となった店員に何のお咎めもなく自由を許していては事の深刻さが他の労働者たちに示されないのである。
フィガロを拘禁したまま意味もなく過ごさせた背景には、即座に解放するわけにいかないとの思惑もあったのだ。
「仰ってることは……わかります。ですが、時間が過ぎれば過ぎるほど、犯人を見つけ出すことは難しくなるんじゃないですか?もう、街の外へ逃げてしまってるかも。」
「かもな。お前にとっては災難だが。」
「そんな他人事みたいに」
「他人事だ。金の回収も困難と見られる現状、真犯人を捕らえることによる益は私にない。お前の身柄解放を望んでいるのは、お前自身だけだ。」
市場の地主は、警邏隊ではなかった。秩序を徹底することではなく、自らの利益を失しないことがグラッドストンの根底にある目的であった。既に市井へと散逸してしまったかもしれない売上金を取り戻すため、割かれるコストの損失を彼は重大に考えていた。
フィガロの扱いも簡素なものである。専属の監視員をつけるわけでもなく、睡眠と排泄行為は勝手に任せ、日々与える粗末な食糧だけで「飼って」おけるのだから。前に面会した際は明かされなかったグラッドストンの真意を知り、自らの置かれた現状を絶望視しかけるフィガロ。
それでも、グラッドストンは彼を呼び出し、会話する場を設けているのである。この現状に一縷の望みをかけ、フィガロは口を開いた。
「真犯人を探し出すため、自分を外に出してください。もちろん、監視の下でしか動きません。」
「利益を生まぬ行為のため、人員を割く気はない。」
「今のままでは世間において、自分は単に行方不明になっているだけです。この屋敷へと連行された現場は市場で働く者たちに目撃されていません。グラッドストンさんの所の護衛さんに元店員が連れ回されている姿を見せれば、売上金を紛失した責任を取らされているのだ、と一般にも示せるんじゃないですか?」
グラッドストンは書類仕事の手を止め、初めて視線を持ち上げてフィガロの顔を直視する。相変わらずその表情には何の変化もなかったが、落ちくぼんだ彼の目は利益だけを追及する地主の持つものにしてはあまりに澄んでいた。
「自ら恥をかきに行くというのか。」
「そうでもしないと、永遠に真犯人は見つからず、自分は解放されないんでしょう。」
「この屋敷から一歩も出ることなく、住むことも出来るんだぞ。食事と寝る場所は確実に提供し続けてやる。」
フィガロは即座に首を横に振った。反論を行う彼の声はあくまでも理性的であった。
「自分は、この街の市民として、自分の暮らしに戻りたいんです。決して、動物のように飼われることを望んではいません。」
老人は立ち上がり、フィガロの目の前までゆっくりと歩いてくる。小柄なグラッドストンはフィガロを見上げるような形となったが、フィガロは恐縮することなく背筋をのばし、彼を見下す姿となっても老人と視線を合わせ続けていた。
先ほど覗いたグラッドストンの瞳が、すぐ目の前にある。澄んでいると見えたのは決して錯覚ではなく、よく見れば見るほど静かな水を湛えた淵のように奥深く透き通っている。店員として初めて彼と接した時にはさして気に留めなかった眼差しだが、一般的な人間のものとどこか違うようにフィガロには思えた。
「獣人が誇りを持つか。いよいよ、人間に近しくなったと見える。」
「……何の話です。」
「お前の申し出は聞き入れよう。護衛をひとり付ける、好きに行動して、真犯人への手がかりでも何でも探してこい。」
「好きに行動して、構わないんですか?」
「あぁ、お前がその気なら警邏隊に駆けこんでくれてもいい。ウチに監禁されていると叫びまわってもな。」
仕事机へと戻っていく老人は既にフィガロに背を向けていたため、表情は読めず、その言葉が冗談で発されたのか否か判別はつかなかった。
「そんなこと、しませんよ……。」
「したところで、このグラッドストンの屋敷に足を向けようとする者は居ないからな。」
グラッドストンは、壁際に居並んでいる護衛の内の一体に目配せする。フィガロの元へ彼を向かわせる前に、分厚い財布を手渡した。
「お前を試すわけではない、信頼している。」
自分の傍にノシノシと近寄ってきた護衛は、グラッドストンから手渡された財布をフィガロへ差し出す。フィガロが取り上げられた財布とは比べ物にならないほどパンパンに膨れ上がったその中には、結構な大金が詰め込まれていた。
「えっ、こ、これは……?」
「犯人捜索のための資金だ、不必要な分は返してもらう。市民として誇りある生活を取り戻したいお前ならば、それを持ち逃げするような真似もしないのだろう?」
「も、もちろんです……。」
フィガロは頭を下げ、護衛に連れられて部屋を出る。大金で膨らんだ財布は、フィガロの手の中であまりに重く感じられた。




