忘れられたころ第二十六話 獣たちの尊厳
フィガロが通された部屋は、グラッドストンの屋敷にいくつもある部屋と同じく使用人兼護衛が詰める場所であった。
「あの、ここに居ればいいんですか?」
「……。」
彼の質問は、グラッドストンの護衛によって無言で返される。部屋の中に置かれている家具は少なく、屋外宿泊用の寝袋が床に幾枚か放り出されている他は折り畳み式の椅子、そして何を乗せるにも不自由しそうなほど小さなテーブルがあるばかりである。
廊下に面した窓は開かれっぱなしである。その気になればいつでも窓枠を乗り越えて廊下へ出られるほどに大きかったが、グラッドストン邸の入り組んだ間取りをフィガロは到底把握しきれていなかった。すなわち、彼を閉じ込めるよりも、常時直接的な監視下に置く意味が強かったのだろう。
「グルル……。」
「あ……それ、自分の鞄です。お返しいただけるんですか?」
低い唸り声を発しながら部屋の中を覗き込んだグラッドストンの護衛は、フィガロの拘禁が決まった時に取り上げた彼の私物の鞄を部屋の中に放り込んだ。
監視の目を気にしつつフィガロは恐る恐る持ち上げ、中身を確認する。一度全て取り出されたのか乱雑に詰めなおされていたが、ほとんどの私物に関してはそのままであった。もとより危険物と判断されかねないものを運んではいなかったが、唯一彼の財布だけは無くなっていた。
「所持金なしでここから脱走して、遠くまで逃げ切るのは無理があるか。」
脱走を図ったところですぐ屋敷内にて迷い、なすすべなく屈強な護衛達に取り押さえられてしまうだろう。
それに、グラッドストン邸の入り組んだ構造は明らかに侵入者や脱走者の行動阻害を目的として造られている。フィガロ以外にも、市場で商売を続けるための上納金を用意できなかったり、グラッドストンの不興を買ったり等の理由で同じ屋敷に監禁されている者がいるかもしれない。
「とにかく、従順な態度を示すしかない。こちらには、やましいことが全く無いんだから。」
そう呟いたはよいものの、窓が開かれっぱなしの部屋で落ち着くというわけにはいかない。時おり廊下を通り過ぎていく護衛たちはほとんど例外なく、フィガロが所在なく佇んでいる部屋を覗き込んでくる。プライバシーも何もあったものではない。
勤め先の店が無くなったとはいえ、まだフィガロは家賃を支払った分は自宅にいることが出来たはずであった。このように囚人と同じような扱いを受ける謂れはない、世の中の多くの人間であれば不服を露わにしていたであろう境遇であったが、フィガロは諦めたように椅子に座り込んだだけであった。その眉間には小さく皺が寄っていたものの。
「参ったな……。」
とはいえ、ただ椅子に座っているだけで時間が過ぎるに任せることがいかに苦痛であるか、フィガロは早々に感じ始めていた。店で忙しく立ち働いている間は少しでも暇な時間が欲しいと願う事が少なくはなかったが、いざこうして何もしないで居続けているとあまりに時間の進みが遅く感じる。
頭の中には、今こうしている間にも事態がどんどん自分にとって悪い方向へ進んでいるのではないかとの懸念ばかりが浮かんでくる。
それに、もっと具体的な、切実な状況が迫りつつあった。
「あの、すみません。」
我慢をし続けることがそろそろ限界に近付いていることを感じ取ったフィガロは、窓枠に肘をついてがっつり部屋の中を覗き込んできていた暇そうな護衛に声を掛ける。
「トイレ、行きたいんですが。」
「……。」
「言葉は、通じてますよね……。その、大きい方、なんですが。」
フィガロの問いかけが耳に届いているのか否か、グラッドストンの護衛はしばらく無言で野生動物と大差ない獰猛な視線を投げ返してくる。もう一度同じことを話しかけようかとフィガロが口を開いたとき、ちょうど通りがかった別の護衛がこちらに唸り声を掛けた。
護衛達は互いに低く重い鳴き声をいくつか交わしていたが、今通りがかった方が唐突に部屋の扉を開き、フィガロの腕を無造作に掴んだ。
「えぇと、トイレに、連れてってくれるん……ですよね?」
当然ながら返事はない。ばかりか、頭にはすっぽりと布の袋を被せられた。屋敷の中を歩き回らせて、内部構造を把握されたくないということであろうか。
しばらくは腕を掴まれたまま、右へ左へと振り回されて引っ張られ続けながらも足を進めていたフィガロであるが、自分が望む場所に近づいている事は徐々に分かりつつあった。望む場所ではあったが、望まぬ形であろうことも。
「なんか、物凄く、臭くないですか?」
頭に被せられていた袋を取り除かれたとき、フィガロは自分が優れた嗅覚を有していることを生まれて初めて憎んだ。目の前にあるのは確かにトイレであったが、明らかに屋敷の主であるグラッドストンが使っているものからはかけ離れた代物だったためである。
そこは屋敷の裏庭だったのだろうか、屋根の庇と高い塀に挟まれた隙間から細く夜空が覗いていた。その狭い区画に、一定間隔で空けられた穴がある。便座は当たり前のように無く、蓋も存在せず、周囲に仕切りもない。雨が降っても居ないのに周囲が濡れていることから、一応は水洗式であることは分かる。
「……皆さん、ここで、してるんですか……?」
「……。」
やはり面倒くさそうにジロリと睨み返されるだけで、何の説明もされないままフィガロは背中を押される。慌てて踏み出してしまった足が便所の穴に嵌まりかけ、姿勢のバランスを取りなおそうとかがんだ視線が穴の中を覗き込んでしまい、水で流される前の汚物がその中に溜まっている様子を直視してしまう。
「ゲェェ……。」
この屋敷で働く獣人たちの扱いは、グラッドストンの方針によって定められているのだろうか。確かに獣人の体格によっては、水洗式トイレも人間用のものを使えず、排水管が人間のものとは異なる排泄物によって詰まらないように取り換え工事を行う必要がある場合もあった。
この方式、即ち便座もなく、直接下水へと押し流すパイプの中へ排泄する形であれば、逐一護衛達の体格に合わせて便所を作りなおすコストも掛からない。とはいえ、一般的な生活感覚に慣れているフィガロには耐えがたい環境であった。
「えっと、トイレットペーパーとかは……?」
周囲を見回して、それらしいものが無い事を確認しながらも、フィガロは尋ねずにいられなかった。もっと贅沢を言えば、排泄物が体毛に付着しがちな肛門回りを温水で洗浄する機能を有した便座も欲しかった。抗菌、自動洗浄機能付きの……。
誰かが見張っている中で排泄を済ませるなど、自分が体験するとは思いもしなかった。汚れが自分の尻の毛並みに付着していないか気にしながら下着を引き上げているとき、股下で腹に響くような太い音がする。
「わっ!?」
一定時間ごとに流される排水が、この半屋外のトイレにも到達したのであった。どうどうと音を立てて流れゆく汚水は今用を足したばかりの穴の中を一気に流し去り、ついでに穴から上がった飛沫が周囲に撒き散らされる。
中途半端にズボンを引き揚げながら飛び退いたフィガロに向け、見張りは白い歯を向いた。攻撃的にギザギザと尖った犬歯が剥きだされたそれは、彼がここに来て初めて目撃する笑顔であった。
「いつ……ここから、外に出してもらえるんだろう。」
細く屋根のすき間から覗く夜空を見上げ、溜息を吐いたフィガロの顔に袋が被せられた。与えられた部屋への帰り道も、視野の自由は奪われるらしい。




