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忘れられたころ第二十四話   難儀へ陥る自負心

 カーテンの隙間から差し込む陽射しに目を覚ました時、ガロアは自分の置かれている状況をしばらく思い出せていなかった。


 日が昇ってもなお深夜から続けて騒ぎ通している酔っ払いどもの声など、ここでは聞こえない。静寂の中、安宿の虫でも湧いていそうな寝床とは比べ物にならない寝心地のベッドから起き上がり、ようやく彼は自分が老英雄バルカの使用人として雇われた経緯を思い出したのであった。


「うわ……。」


 起床した彼の目の前にあったのは立派な姿見である。路上をうろつき、妹からせびった金で簡易宿に泊っては酒に溺れる日々を続けていた彼は、眠りから覚めたばかりの自分の姿を見るのも久々であった。


 半開きの口、ボサボサの髪、眠気で腫れぼったい瞼の張り付いた自分自身の顔には学院首席卒業の秀才としての面影など到底見いだせない。不精な生活習慣が身についていたガロアも、流石に自らの有様には危機感を抱いた。


「……髪を整えるか。」


 邸の使用人が身支度を手早く済ませられるよう、部屋の中には蛇口と鏡の備わった洗面台が備えられていた。バシャバシャと水滴をはね飛ばしながら顔を洗ったガロアは、周囲の絨毯や壁に水の染みが散らばったのを見てみぬふりをした。クローゼットの奥にかけておいた自分の私服に手を突っ込み、ポケットから整髪剤を取り出す。


「無くなりそうだな、これ。買ってこないと。」


 今までのガロアにとって宿代と酒代以外に金を支払う唯一の用途が、整髪剤の購入であった。どれだけみすぼらしく暮らし、粗末な服に身を包んでいようとも、秀才はその隠し切れぬ知性を顔立ちに表すものだと自ら信じていたのである。自負心を満足させる最後の砦に関しては、さしもの怠惰なガロアも放棄する気を起こさなかった。


 どうにかガロアが自身の風貌に及第点を与える程度には見た目を整えた頃、扉のすき間を通って食欲を刺激する匂いが流れ込んでくる。すなわち屋敷の厨房にて朝食が準備されていることに他ならなかったが、新たな使用人として雇われたはずの彼に慌てた様子はなかった。


「俺は学歴を買われて雇われたわけだからな。執筆活動の補助ならまだしも、料理などの雑用をやらされる謂れはあるまい。」


 自らの扱いを誰から聞かされたわけでもないのに、ガロアは自分で自分の立場を決め込み自室で悠々と過ごしていた。いつ用件を言いつけられるのかは知らないが、いずれ当然この秀才の手を必要とする時が来る。その前に、自分のために朝食が用意されたことを知らせに来る方が先かもしれない。


 結局、この未だかつてないほどに自己評価の高い使用人をわざわざ呼び立てる者などおらず、ガロアは朝の時間を無為に費やすこととなった。


「もしかすると、俺が疲れてまだ眠っているものだと思われているのか。そう気を遣わないでいいのに……まったく、腹が減ったよ。」


 自らが勝手に定めた認識を改めたためではなく、自らの欲求が満たされんがためにようやくガロアは使用人の控室から出てきたのであった。


 英雄バルカは書斎で過ごしているのか厨房にも食堂にも姿は無く、代わりに食器を下げてきたのは機械の身体の警備員である。前の使用人が居なくなってからというもの、彼は屋敷の警備をこなす傍らバルカの身の回りの世話まで一手に引き受け、超多忙な日々を過ごしていたのだった。


「やっと起きて来たのか、初日から寝坊するとはまったく図太い新米使用人だ。」


「俺は寝坊などしていない。誰も呼びに来なかったから、仕方なく部屋にいただけだ。」


 そう受け答えたガロアの認識に根本的な勘違いが潜んでいることを警備員は感じ取ったものの、今の彼にそれを逐一指摘し修正している暇はなかった。


「ともかく、この食器を綺麗に洗う所から仕事を始めてくれ。」


「どうして俺がそんなことをやらなければならないんだ。それよりも、俺の食事はどこに用意してある。」


「自分の立場を分かって言っているのか?お前はこの屋敷の使用人だろ。」


 使用人は使用人でも、自分は学歴ありきで雇われたのだ、との反論をガロアが吐くよりも先に警備員はそそくさと厨房から出て行ってしまった。後に残された彼は流し台に置かれた食器に一応は向かい合った。


 飲み口や底に紅茶の染みが残ったティーカップ、パン屑が一面にちらばった皿とトレイ、ジャムの付着したスプーンに汚されている小皿、いずれも食器洗いの中では比較的労力が少なくて済む部類のものではあったが、ガロアは汚物を扱うように指先でちょっと触れ、すぐに顔をしかめて手を引っ込めたのである。


「他人が食べ散らかしたあとのものを、俺が片付けなければいけないだって?何と不潔極まりない、こういう事に抵抗を覚えない連中と俺はそもそも感性の出来が違うんだ。」


 つい昨日までの彼が路上をフラつきながら振り回し、ときおり口にしていた酒瓶のほうが余程不潔だったことは間違いないのだが。


 何にせよ、自ら求められている仕事は別にあると信じて疑わないガロアは明確に言いつけられた作業に着手することなどなかった。放蕩生活の中で無駄に磨きのかかった物漁りのスキルを活かし、自分が食べるためのパンを探し始めたことがこの屋敷における彼の初めての積極的な行動であった。


「パンは上の戸棚、右から二番目だ。」


 しわがれた割に芯の通った声に振り向けば、バルカその人が厨房を覗き込んでいた。穏やかな笑みをたたえ、使用人服を着ていなければ不審者と変わりない行動を取っていたガロアを優しく見つめている。


「お……おはよう、ございます。バルカ……様。」


「あぁ、おはよう。今朝は起きられなかったかな、疲れも溜まっていたのだろうね。」


「かも、しれません。えぇと、その、自分の食事を済ませたら、食器洗いにかかります。」


「そうか。頼んだよ。」


 そんな簡単なやりとりだけを済ませ、曲がりかけた腰に手を当てたバルカは厨房の前を通り過ぎる。彼の姿が見えなくなってから言われた通りの戸棚にパンを見つけ、ガロアは早速トースターでそれを焼き始める。


 螺旋状に巻かれた電熱線の上で焦げ目がつき始めるパンを見つめながら、彼は急速に不快感が湧き上がってくるのを覚えていた。この屋敷の老主人は、ただ厨房を覗き込み、これといって他愛もない言葉を掛けただけである。にもかかわらず、自分はいかにも使用人として理想的な振る舞いを探ることに必死であった。


 まるで、叱られることを恐れている子供のように。


「くそ……俺は優秀な人材なんだ。どうしてビクビクしなきゃならない?」


 トーストされたパンは流石に上質なものであった。下町の店で供される、ただ水分が抜けて表面が焦げ付いただけのパンとは比べ物にならない。


 パンに焼き色がつき始めたあたりからガロアの腹はぐうぐうと鳴りはじめ、唾液も止まらなくなる。裏返す手間も惜しんでトースターの上から取り上げたそれに何も塗り付けることなく、彼は瞬く間に平らげてしまった。


「……全く不愉快だ。」


 おそらくここ数年の中で最高の朝食を済ませたガロアは、満たされた気分を抱えたまま眉根に皺を寄せて呟いた。


 他人から与えられるものを有難く感じること、欲を抑えることなくがっついてしまうこと、いずれも自分がたった今とった行動に違いないものの、それらはガロアの自負心を深く傷つけたのであった。

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