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忘れられたころ第十九話   猫の気まぐれ人目を盗み

 市場へと斜めに差し込んでいた夕日の光もいよいよ弱まり、黄昏時の薄闇は一帯を包みつつある。本日きりでこの商店がたたまれる事を知らせぬまま、売り子たちを帰宅させてしまったことがフィガロには心配の種となっていた。人間の数倍は利く獣の耳を立ててみるが、既に売り子たちの足音は聞こえない。


 すぐ隣に居るコークへ声を掛ける。当のコークは状況が状況であるにもかかわらず、能天気に鼻歌を歌いながら空っぽの商品棚に腰かけて足をぶらぶらさせていた。


「なあ、流石に知らせるべきだったんじゃないのか?売り子たちは皆、明日の朝ここに来て初めて店がたたまれてることを知るんだろ?」


「別に気にすることないぜ、それに知らせちまったらややこしいだろ?」


「ややこしいって、何が。」


「いや、アイツらの取り分だよ。確実に要求してくるだろ、せめて今月働いた分は払えって。」


「そりゃそうだろ、払ってやらなきゃ……。」


 コークはフィガロの言葉を遮るように、肉級の付いた指を立てて横に振って見せる。


「フィガロ、俺たちに支払う義務はないんだぜ?なんたって、経営者じゃないんだからな。」


「お前、荷物運びをしてた連中には気前よく払ってたのに……。」


「臨機応変ってやつだよ。ともかく、今店に残ってる金は俺たちのもんだ。地主のグラッドストンさんが取った後は全部な。」


 コークは事も無げに言い放ち、何の後ろめたさも無いような笑顔で鼻歌を再開した。今の彼は、自分がこれから手にするであろうまとまった金額しか眼中にないらしい。何も知らされることなく帰宅し、明日も仕事があると信じているのだろう売り子たちにフィガロは同情した。


 とはいえ、今から街へ駆けだして行って連れ戻すほどの気概はフィガロにもなかった。


「グラッドストンさん、『あとで人を寄越す』って言ってたけど……あとでって、いつごろなんだ。」


「さぁ。あの人が『あとで』と言ったんなら、今日の深夜かもしれないし、明日の夜明け前かもしれないし、明後日かもしれない。」


「マジか……。いつになるか分からないまま、ただただ待ち続けるしかないのか。」


「あぁ。俺たちは、地主サマに文句を言える立場じゃないからな。」


 店じまいを終えた近隣店舗の従業員たちが押し黙って歩き去っていき、市場はにわかにひっそりとし始めた。この時間になるまで仕事場に残ったことは無い。昼間の喧噪にあふれた市場の姿を思い返せば、静寂のなかに沈んでいくこの場所は異様に広く感じられた。


 ぼんやり何もせず待ち続けることが苦ではないらしいコークと違い、手持無沙汰になってきたフィガロは自分の鞄から一冊の本、『竜狩りの物語』を取り出した。商品を入れてあった空箱の上に本を乗せ、一部分だけ消灯させずにおいた店の照明の下で物語の行をなぞり始める。


「何してんだ?」


「本を読んでる、見りゃわかるだろ。」


「楽しいのか?」


「楽しい……のとはちょっと違う。けど、話の先が気になって続きを読みたくなるって感じだ。」


「酒を飲んで踊ってるときと、どっちのが楽しい?」


「それと比べるものじゃない。」


 コークは早くも興味を失ったのか、フィガロの手元を覗き込むのを止め、また夜空を見上げながら鼻歌を歌い始めた。自分の置かれている状況は将来に多大な不安をもたらすものであったが、フィガロは物語のページをめくるごとに一時的とはいえ心の暗雲が流し去られるような感覚を抱いた。


 竜によって統率され、屈強な肉体と徹底した軍律をもって人間たちの前に立ちはだかった獣人の軍。物語の主人公はあくまで人間であったため、自分と同じ獣人たちが敵として描写されることには多少の抵抗は確かにあった。が、その敵たる獣人がどの場面においても無視できぬ脅威として描かれ続けていることには、どこか胸のすく思いがあった。


「コーク。」


「なんだよ。小難しそうな本なら、勧められても読まないぜ。」


「分かってる。俺たち、戦争の時代に生まれてたらどうなってただろうな。」


「いきなり何言い始めるんだ。働く先がなくなったからって、警邏隊にでも入るつもりか?」


 それもフィガロが脳内で思い描いていた一つの選択肢ではあった。増加装甲パーツによって堅牢さを手に入れられる啓蒙市民、生来より頑健な身体を誇る新参画市民にとって、歓楽街のゴタゴタを解決したりひったくり犯を取り押さえたりする役割は適任であった。すすんでやりたがる人間が居ない職業であることも事実ではあったが。


 が、フィガロが『竜狩りの物語』を読みながらコークに問うてみたかったのは別の内容であった。


「俺たちって、昔はもっと力が強かったらしいんだ。でも今は人間と大差ない……そりゃ、人間よりは強いけれどさ。」


「普通に暮らしてきたからじゃねーの?」


「あー……普段から鍛えている奴は、違うか。」


 昼間会った、グラッドストンの護衛を担っていた巨体の獣人を思い起こす。だが、『竜狩りの物語』の中で描写される獣人は例外なく、かの護衛のごとく人間など物の数にも入れぬほどの怪力を発揮しているのである。


「けど、やっぱり、人間と戦争してた時代とくらべて、俺たちは弱くなってる気がする。」


「戦わなくていい時代なんだから、気にしなくていいだろ。」


「それも、そうかもしれないけどさ……。」


「だいたい、ウチの爺さんたちは昔から戦ってなかったと思うぜ。」


 コークは空っぽの商品棚の上で盛大なあくびをしながら身体をのばし、しなやかな猫背を左右に曲げてストレッチしている。そういえば、彼のような猫型獣人は物語の中で描写されることが無かった。


「ホントだな。だとしたら、戦争の時代は何してたんだろ。」


「こういうことかもな。」


 こういう、とはどういうことだとフィガロが問いかけるより先に、店の照明が墜とされる。時刻は既に日が沈んだ後であり、一瞬で暗闇が店内を満たした。フィガロの目は人間よりも早く暗闇に順応できる性質であったが、真っ暗な中で真っ黒な毛並みのコークが何をしているのか目で追うことは叶わなかった。


 慌てて店の照明を点け直した時、コークの姿は無かった。足音も聞き取れず、気配もなく、この場をいつ去ったのかも分からない。


「おい、コーク?コーク、どこに行ったんだ……。」


 妙な胸騒ぎと共に、店の奥へと入っていくフィガロ。売上金を保管していた金庫は、開きっぱなしとなっている。その中に詰められていたはずの貨幣の袋は、とっくに持ち去られていた。

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