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忘れられたころ第十五話   人の子に示す道は踏まれ

 静寂に満たされた礼拝所の書物庫に、ペンを走らせる音だけが微かに響く。毎朝の礼拝での説教を済ませた司教は、日課となっている書籍の執筆作業に従事している。彼から指示された資料を机へと運びつつも、修士クルフはひとつの事が気がかりになっていた。


 昨晩、あの自堕落な兄を追い出した後、部屋の床に零れていた酒は綺麗に拭き取ったのだが、その嗅ぎ慣れない臭いは今朝目覚めた時もなお部屋に残っていた。


 自分にも酒の臭いが移っているのではないかと念入りに体を洗い、出発する直前に着替えてきたのだが……。


「クルフ。」


「はい。」


 筆記具をペン立てに挿しながら司教が口を開く。執筆作業を止めて話しかけてきたということは、よほど改まった内容に触れるつもりなのだろうか。表情は動かさずとも緊張して彼の言葉を待つクルフであったが、司教はその予測を裏切らなかった。


「昨晩、何者かに会ったのか?」


「……。」


 聖職者として、殊に司教を目の前にして、嘘を吐くわけにはいかない。が、クルフが口を噤んだのは、兄の身を案じたためであった。昨晩あったことを何もかも曝け出してしまっては、兄が罪に問われかねない。聖職者を、それも身内である妹を、邪な欲求に駆られて押し倒し、服を脱がそうとするなどと。


 自分自身が身内によってそのような被害に遭いかけたことについての悔しさも、同時に感じていたが。


「何があったかは問わない。」


 クルフの逡巡を見て取った司教が言葉を継ぐ。


「ただ、困っていることがあるのならば言いなさい。私は司教として、この礼拝所に属するすべての者に責任を負う立場にある。」


 司教の言葉はあくまでも確固たる意志のもとに発せられ、常に軍隊の上官が命令を下すかのような調子で統一されていた。とはいえ何かの作業の片手間に話しかけられているのであれば、クルフも返答を誤魔化しただろう。個人的な内容で司教の仕事を邪魔することにはなかなか踏み切れない。


 が、今目の前にいる司教は作業の手を止め、返答を待つように真っ直ぐにこちらを見ている。自分には聞き入れる準備があることを示そうと、司教なりに思いやった結果であった。


「昨夜、私の兄が自宅を訪れていました。」


 口を開いたクルフから視線をそらさず、司教はじっと聞いている。


「兄は、仕事に就いていません。その日の食べるものや、寝泊まりする場所にも困っている様子でした。」


「にもかかわらず、酒は飲んだのか。」


 やはり、僅かな臭いにも司教は気づいていたらしい。クルフは慌てて弁明する。


「私が買った訳ではありません、兄はどこからか調達した酒瓶を私の部屋に持ち込んでいたのです。私の部屋で飲酒をしないよう、彼に宿代を手渡し、退去を求めました。決して私が一緒になって飲酒などしてはおりません。」


「その点は疑っていない。君がいかに敬虔に聖典へ身を捧げているか、私もよく知っている。」


 人一倍真面目な彼女であったからこそ、司教は補佐にクルフを選んでいたのであった。が、彼女は言葉を継げずにいる。帰ったら兄が部屋に居て、出て行って宿屋に泊まるよう伝えて……。


 そこから先の事を、いまここで口に出すことは出来ない。


「分かった。これ以上は問わない。」


「あの、」


 視線を机へと戻した司教が椅子から立ち上がろうとする前に、彼女は慌てて声を掛ける。


「兄のため、働き口を見つけたいのです。」


「求人広告ならば礼拝所の入り口付近にいくつも貼りだされてある。」


「もちろん兄にも伝えました、ですが、彼は、その、とある理由で、肉体労働には就けず……」


 司教の一際鋭くなった目つきがクルフの顔に視線を突き刺す。嘘や誤魔化しには人一倍敏感であるだけに、クルフの口調に言葉を選ぶ余白が挿まれたことに気づかぬ司教ではない。彼の目つきの意味を一瞬で察したクルフは、諦めて実際のところを語った。


「……いえ、正しくは、肉体を酷使する労働を嫌っております。」


「誰しもが同じだ。」


「はい。これは、兄の我儘に他なりません。とはいえ、ええっと、彼はこの街の学院を首席で卒業しておりまして、その実績を活かせる職場であれば、本人の意欲も増すかと思われます。」


 喋りながら、クルフは自分自身の発言内容に嫌気が差し始めていた。本心を言うなれば、兄が二度三度と同じように自分の部屋へ転がり込んで来ないようにしたい一心であった。


 そのように個人的な目標を達するために、司教に対し嘘とも真ともつかぬ曖昧な物言いを自分は続けている。聖典について明確な持論を述べることが責務であるはずの修士にはあるまじき行いであった。


 押し黙っている司教に対して再びクルフが口を開こうとしたとき、司教はそれを遮り簡潔な内容を伝えた。


「ある屋敷で、新しい使用人を探している。君の兄さんを、そこに紹介しよう。」


「……あ、ありがとうございます。」


 クルフは驚きに目を見開いたまま、ひとまずの感謝を述べた。が、その直後から種々の不安が一気に立ち上がってくる。


 司教はさっそく机の引き出しから便箋を取り出し、ペンを走らせて紹介状を書き始めていた。


「お待ちを、司教様。」


 あまりにも早く判断を行動へと移す司教に、慌てたクルフは声を上げる。彼女の狼狽が伝わらなかったわけではなかったものの、司教は返答しつつ紹介状を書く手を止めなかった。


「どうした。」


「その、私の兄を実際にご覧にならずとも宜しいのですか?彼に職を与えるため紹介状を書いていただけるのはありがたいのですが、果たして、兄がひと様の使用人として振る舞うのに相応しい性格であるかどうか、見極めていただいてからでも遅くはないかと。」


「言わんとするところは分かる。」


 一字一句忽せにしない紹介状を、速筆を以て既に書き上げていた司教は便箋を畳み、封筒に入れてクルフへと手渡していた。


「君のお兄さんがいかなる人物か、先ほど聞かせてくれた話からもおおよそ推測は出来ている。」


「でしたら、なおさら、どなた様のお屋敷かは存じませんが、そこへ兄を紹介するか否かの判断は慎重になさった方が……。」


「君は、彼を今の状態から救い出したいのではないのか。」


 クルフは口を噤む。確かに、兄には今まで逃げ出してきたような日常とは別の生活に入るきっかけが必要だ、と彼女は考えていた。兄が最初から業務への従事を拒むようなことのない、そんな職場に雇われる機会があれば、と。


 だが、まさか雇うべき使用人を探しているような屋敷を仕事場として紹介されようとは。誰が雇い主になるかは知らないが、街の有力者に失礼があってはならない。兄が学院を首席で卒業していることは事実であり、一応の教養を身に着けてはいるとは思われるものの。


 とはいえ妹の住む部屋に勝手に押し入り、酒瓶を呷って寝ころんでいるような男が一定以上の振る舞いを実現できようとは思えなかった。


「司教様のお心遣いには感謝しかありません、ですが、万が一、兄がそのお屋敷に失礼を働くような真似をしてしまうと、紹介状を書いていただいた司教様にもご迷惑が……」


「人が進むべき道を見出すためであれば、私は喜んでこの身を投げ出そう。歩む道を踏みにじることの、何が意外であろうか。」


 変わらず司教が差し出し続けていた紹介状を、ようやくクルフは受け取った。


 これだけ責任感が強く、親身になって見ず知らずの他人のために動ける司教。彼の言葉には感嘆を覚えたものの、この恩をも自分の兄は無碍にしかねないという不安が早くも脳内に沸き上がり、クルフは喜びを感じている暇もなかった。

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