忘れられたころ第九話 誰かの居場所に陣取る権利
バルカ邸の大きな窓からは昼下がりの陽光が注ぎ込まれ、窓越しに草刈り鎌の微かな音がリズムよく聞こえてくる。啓蒙市民特有のガシャガシャとパーツが擦れ合う音が聞こえないということは、警備員ではなく使用人のルシャンが庭の手入れを行っているのだろう。
「毛皮の服を着て、獣人……もとい、新参画市民のもとを訪ねる…あまり良い趣味とは言えませんな、バルカ様。」
司教の眉根は顰められ、彼の目はニヤニヤと笑う老人に真っ直ぐ向けられる。
「おや、獣人への差別的発言で名を馳せる司教様に窘められてしまうとはね。」
「あの説教には、そのような意図はございません。あくまで、今の時代に人間が目指すべき理念を示したまでのこと。」
「今の時代は、そんなもんか。俺はもう寿命を待つばかりだから、関係のない話だな。」
司教の弁明に賛同を示すでも否定を示すでもなく、バルカは鼻先で笑いながら茶菓子を次々につまみ、口に放り込んでいく。来客のために出した菓子は、半分以上がこの老主人の口の中へと消えて行っていた。
「バルカ様、現代は市井の民たちにとって非常に生き辛い時代です。例えば礼拝所におきましては、先月より入り口の階段横に緩やかな斜面を備えました。階段を上れぬ参拝客が増えたためです。」
「腰と膝が悪い俺のような老人には有難い話だな。もっとも、俺は一度も礼拝に行ったことなどないが。」
「お年を召した方ばかりではありません。まだ歳を取っていない、若いと言ってもよい市民の中にも身体を満足に動かせない者たちがいるのです。」
「流行り病か?関節に来る病気ってのも、あるらしいが。」
「いいえ、過労によるものです。」
窓の外で聞こえていた草刈りの音は止み、少しおいて庭に水を撒く音が聞こえてきた。緊張感のない鼻歌が水音に紛れている、天気に恵まれた日の庭いじりはルシャンにとっても心地良いのだろう。注意力を窓の外にも向けつつボリボリと菓子を噛み、茶で流し込んでいるバルカに司教が畳みかける。
「この数か月で、肉体労働による身体への悪影響を訴える市民は格段に増加しました。全市民への雇用機会平等化が推し進められたことと、何の関係もないとは考えられません。」
「ほう、そうか。」
「どうかお聞きください、バルカ様。本来は新参画市民の身体能力が発揮されていた肉体労働の場に、人間の働き手が入らざるを得なくなったのが現在の状況です。確かに彼ら新参画市民は人間と同等の知性を発揮する、しかし人間の身体能力は新参画市民のそれに遥か及ばない。」
司教が熱弁を振るい始めたおかげで、庭から聞こえてくる使用人の鼻歌が聞こえなくなってしまった。静かな昼下がりを、その能天気な鼻歌を聞きつつ過ごすのが好きだったバルカは顔をしかめつつ、追加の菓子を口に放り込む。
「宜しいですか、旧来であれば人間のみが就職を許されていた……とはいっても暗黙の許にですが……職業に、新参画市民が参入してきた結果、職を奪われた人間が少なからず存在するのです。その反動で新参画市民の手が足りなくなった肉体労働に従事し、彼らと同等の成果を挙げようと無茶をして身体を壊す。結果、仕事を続けられなくなる。そういった市民が日に日に数を増し、礼拝所での食事提供に毎朝訪れているのです。」
「見事な演説だが、俺に伝えて何になる。いくら英雄だと持ち上げられようと、俺には政治家どもを動かす力はない。市議会にでも向かって同じことを伝えればどうだね。」
「市議会議員の先生方には同じことを申し上げました、先月。」
司教は厳めしい顔立ちを崩さなかったが、その時のことを思い出しての落胆は早くも表情に表れていた。
「私の演説は拍手で迎えられ、拍手で応えられました。」
「好感触だった、ということじゃないか。」
「議員の皆様はおしなべて笑顔を見せておいででした。」
「野次を飛ばす奴もいなかったのか、最近の政治家は教育が行き届いていると見える。」
「市民たちの切実な現状を知った為政者が、どうして笑顔など浮かべていられるのか……!」
自分の声が自然と熱を帯びつつあることに気づき、司教は冷めかけたティーカップを口に運び一息つく。この男は軍人風ではあるものの、やはり聖職者を目指す人間は純粋さを持ち合わせているものだ、と彼を眺めながらバルカは考えていた。
「結局、私は政治を知らぬ来客として、形通りの歓迎を受けたに過ぎなかったのです。その後の傍聴も許されず、私は体よくあしらわれて追い出されたも同然でした。」
「そういうもんだ。」
「バルカ様、私は礼拝所の運営も任されています。その演説を行った後、一部の議員の先生方には、礼拝所への寄進を打ち切られました。」
「胸中面白くは無かったんだろうな、種族間平等化の政策に水を差されたようで。金が欲しいってんならハッキリそう言え、老い先短いジジイが貯め込んでても仕方ないんだ。」
司教の表情が、今度は分かりやすく曇る。清廉なる精神を有しているはずの聖職者が、俗世のルールを前に跪かざるを得ない。その様子を目の前にしたバルカは一種の快感と、同時にちょっとした同情も覚えた。
若かりし頃、獣人の時代を終わらせ人間の時代を到来させようと立ち上がった頃の自分は、現実を割り切れなかったからこそ行動を開始したに違いなかったのである。
「バルカ様、世間話を。」
「……うん?」
唐突な司教の言葉に、バルカは両眉を引き上げる。彼がふざけているはずもなく、至極真面目そうな両目がバルカを真っ直ぐと見つめていた。
「世間話を、途中までしか聞いておりません。話の腰を折ってしまい申し訳ございません、お聞かせ願えますでしょうか。」
「大した内容でもない。市場に毛皮を着て行って、獣人どもにも見せびらかしたが何とも言われなかった、って話だ。獣人の店まで行って買い物もしたが、丁寧に応対されたよ。何なら人間の店よりもサービスは良かったね。」
「……彼等は、獰猛な一面を有していると聞きましたが。」
「昔の話だ、獣人と人間との戦争が終わってから60年かそこらにもなる。いや、もっとか?」
戦後間もない頃であれば、挑発された獣人たちに路上を引き回されてたこ殴りにされていただろう、とバルカは追想する。
「新参画市民たちもまた、より良き社会を築くために尽力している、ということですか。」
「そりゃするだろうね、なんたって自分が安定して生活するためなんだから。」
「この上、啓蒙市民による社会進出もあるというのに……。」
「機械どもは問題ないだろう、奴らは人間のために生み出されたんだ。」
司教は意外そうな顔をバルカに向ける。それもそのはず、機械の身体を持つ啓蒙市民たちの来歴や構造は現代においても不明とされていたためだ。いくつかの憶測は生まれていたが、無機物の寄せ集めにしか見えない彼らがいかにして命を得、自我を有しているのかはどれほどの学者が集まっても結論が出ない難問であった。
何せ当の啓蒙市民たちにも分からず、寿命を迎えた者の身体を解剖しては首をひねっていたのだから。バルカの方はと言えば、司教が意外そうな顔を見せた事こそ意外であった。
「何を驚いている、そんなことも最近の学問は教えないのか。」
「しかし、彼らがいついかにして生まれたかは謎とされています。確かに、獣人との戦争に勝利したのは、彼ら啓蒙市民の助力もあったとは伝えられていますが。」
「そりゃそうだ、俺とシオルがアイツらを目覚めさせ、兵士として訓練したんだ。」
彼にしては珍しくポカンとした表情を浮かべていた司教であったが、バルカの言葉を聞くとさらに輪をかけて珍しく苦笑を浮かべた。それもほんの一瞬、常に固く締まった口角が緩んだように見えた程度であったが。
「バルカ様、気を遣っていただき恐縮でございます。私も、気を張ってばかりでは視野を狭めてしまいますね。」
「別に場を和ませる冗談というわけではないんだがな。」
「いかにバルカ様が人類にとっての英雄とはいえ、一つの種族を生み出すことなど、とても……。」
その言葉は、応接室の扉をノックする音で遮られた。バルカが「おう」とだけ返答すれば遠慮がちに扉は開き、その隙間から先ほど門前に立っていた新参画市民の警備員が顔を覗かせる。
「どうした。」
「お話の最中失礼いたします、ルシャンの姿を見ませんでしたか?」
自宅で雇っている使用人の名を出されたバルカは、無言で首を横に振る。そういえば、先ほどまで聞こえていた庭に水を撒く音が聞こえない。
「屋根の上で昼寝でもしているんじゃないか、今日はいい天気だ。」
「そんな、猫でもありますまいに。庭掃除の箒が放り出されたまま、姿が消えてましたもので。」
今度こそは冗談を口にしたバルカも、警備員の報告には多少ニヤつきの度合いを抑えた。司教は真面目かつ神妙な顔つきのまま立ち上がり、窓の外を窺っている。
「仕事道具を放り出したまま、となれば事件の可能性もありますね。警邏隊への連絡は?」
「いや、もうしばらく我々で付近を探してみます。ルシャンも気まぐれな奴でして、こないだは草むしりの途中で殺虫剤を買いに出掛けたりしましたから。」
「まったく、猫みたいにな。まぁ司教さん、腰を落ち着けて、お茶のおかわりでも。」
バルカが目を向けると同時に、警備員はゴツゴツした体を家具にぶつけないよう慎重に応接室に入り、空になった菓子皿を手に出て行った。
「いえ、そろそろ私は夕暮れの礼拝の準備に戻らなければなりません。本日は貴重なお話を戴きありがとうございました。」
「有難がるのは、司教さんに訪問していただいた俺の方じゃないのかね。……ま、寄進の金なら払い込んでおくよ。」
「御寄進、有難くお受けいたします。」




