第五話 天使の願い
ベッドに横たわった俺はそのまま深い眠りについた。まるで水中で漂っている感覚。それは俺にとってなじみのある感覚だった。
「隆一郎。異世界での生活はどうですか」
忘れもしないあの天使の声。 真っ暗な空間の中で、直接俺の脳内に響き渡る。
「ああ、ルナか。どうした、アフターケアでもしに来たのか?」
「そうですね、アフターケア、ということにしておきましょう。うふふ」
暗闇の中でこだまする笑い声は非常に不気味だった。
天使というよりも、今から地獄にいざなうかのような悪魔のようだ。
「……この異世界は酷いな。俺からしてみたら原始時代に戻ったようだ。ろくに生活できたもんじゃない。水道もないし、文字を読めるやつも一部しかいない。本もないから退屈極まりない。学者にとっては地獄だよ」
「そうですか」
「ただし、まあ……」
俺はこの世界で起きたことを思い出す。
メルルやセーラ、様々な人に出会い、そして色々なことがあった。
「――前世よりかはましだな」
「……そうですか。それは良かった」
表情は全く見えないが、あたかも暖かく微笑みかけた、そんなような声だった。
「……お前は俺をどうしたいのだ? 俺はこの異世界に来てもう少しで一年が過ぎる。これまでお前は俺を呼びかけたことはなかった。何か話したいことがあるのだろう」
「あら、もう少し雑談をしたかったのですが、あなたはそれを許してくださらないようですね。残念です」
頻繁に会っているのであれば、雑談するために呼び出すことも往々にしてあるだろう。
だが、長年あっていない知り合いからお呼びがかかったら、必ず何かしらの目的をもっているに違いないと心に決めている。
「私はあなたの今後について話したい。ただそれだけでございます。……前世では天才だったあなたです。この世界の状況も、課題も、なすべきことも。全てもうわかっているでしょう?」
一年も生活していれば大体の状況はわかる。
この世界では複数の王家が各地の領土を占有していること。
その王家が協力して世界全体で大々的な学者の粛清が行われ、全世界的に知識人が育っていないこと。
王を含めた貴族階級は全て血筋で決まっていること。
下手に新しい商品や魔法を開発すると、知識人だと判断され、粛清対象になること。
全て理解するのに、一年という時間は十分すぎた。
しかも厄介なことにこの国には裁判がない。自分自身が知識人かどうか判断するのはあくまでも王の主観だ。王が知識人だと思えば、処刑される。弁解の余地は残されていない。
魔女狩りみたいなものだ。
自分の命がかわいいのであれば、下手な動きはしないこと。それがこの世界のルールなのである。
「あなたはこの世界の文明が遅れている理由はもう既にわかっている。この世界にはあるべきものがない。学問がない。研究機関もなければ、粛清を恐れ、それをやり始めようとする若者すらいない……。そして、それは各地の王が知識人を一人残らず処刑し、根こそぎつぶしたから。だから……」
「……お前はこの世界の王になれとでもいうのか?」
「……話が早くて何よりです」
「……ふん、バカバカしいな」
「あなたが王になれば状況は変わる。天才のあなたであれば、全ての学問の基礎を一人で体系化することが出来る。――特に経済と経営に関しては、誰にも引けを取らない。その知識が、この世界では必要なのです」
今まで歴史の中で貴族階級を引きずり降ろすために、どれほどの人間が血を流したと思っているのか。
フランス革命でさえ200万人の人間が死んだ。
俺のせいで人が死ぬのはごめんだ。もっと言えば俺にそんな数の民衆を率いるほどのカリスマ性もない。ロベスピエールにでも転生してもらえばよかったのではないか。
「……契約の範囲外だ。俺はこの世界で穏便に余生を終える。条件はそれだけのはずだ。俺は王になるつもりなんてない」
「その通り。あなたは既に契約での条件を満たした。あなたはこれから自害でもしない限り好きなように転生することが出来る」
ルナは、自信満々な口調で続ける。
「でも、私は知っているのです。あなたはこの世界を良しとしないと。経済が思い通りに動いていないこの世界をじれったく、そして憎く感じていると」
「……それはお前の推測だ」
「そして、自ら愛する妹、エレナと似た容姿のエルフをこのような世界に放っておけないということを」
「……っ! ……お前、どこまで知っている!!」
俺は動揺を隠せなかった。
「私は天使です。しかもあなたをこの世界へ転生させることを決めたのも、この私。あなたのことであれば、全て知っています。誰にも大切にされず、唯一の生き甲斐であった妹は事故で死に、そして信頼を寄せていた助手には殺された……。哀れなあなたのことは、全て」
自分でも触れないようにしていた心の腫れ物に、この天使は触れてきた。
俺は何とか夢が覚めるように体を動かすが、この夢が覚めることはなかった。
「やめろ……! やめてくれ……」
「あなたは認められたいのです。求められたいのです。――だからここで立ち止まるわけがない。しかも、妹の面影があるエルフを前にして。あなたがあのエルフを買ったのも、妹と似たその少女を檻の中で放っておけなかったから。……それは私が最もよく知っている」
「そんなんじゃない!! 俺はそんな人間じゃない!! 俺は一人でも……一人でも生きていける……!! そんな感情論で動くのは合理的じゃない……!! 俺はそんな非合理的な人間じゃない……はず、なんだ……」
「隆一郎、自分を信じなさい。あなたは天才なのです。まぎれもなく、世界を変えるほどの天才なのです」
「そんなことはない……! 前の世界だって、俺は何の役にも立たなかった。……誰一人……。誰一人助けることが出来なかった! 俺は空っぽなんだ、そんなこと、天使のお前ならわかるだろう!!」
天使は優しい口調で、俺に語り掛ける。
「いえ、あなたなら出来るはずです。パレッタはあなたがいたから救われた。――ライ麦パンの味は美味しかったですか?」
俺はメルルと一緒に食べたライ麦パンの味を思い出す。
そして、メルルが美味しいと食べていた時の表情を思い出す。
「……ああ、おいしかった……でも……!」
わかっているのだ。
この世界なら自分の居場所を作れるかもしれないと。
「――あなたは生まれる世界を間違えた。だから、私がここへ連れてきたのです」
俺は妹のことを思い出す。
エレナはいつも俺のことをお兄ちゃんと呼び、常に対等な人間として扱ってくれた。
冗談を言い合ったり、色んな所へ一緒に出掛けた。
「……ありがとな、エレナ」
俺はふと妹の名を口にする。
彼女の死が、今の俺を生かせてくれているのであれば、俺はその分、リターンを与えなければならない。それが俺の寝こみを襲おうとした、ちっこいエルフに対してだとしても。
「自分を信じて、リュウ。……あなたは優しい人なのは私が一番知っています。……いつもそばで見守っていますよ」
そして、俺は夢のない眠りについたのだった。




