第一章8 幽霊の苦悩④
薄暗い森の中で、俺は崩れるようにへたり込んだ。
疲労など感じるはずもないのに、どこからか溢れる倦怠感のままに。
辿り着いたその場所は、奇しくも俺の最期の地――俺が魔族に殺され、幽霊になった場所だった。
戦っているうちに、だいぶ森を進んでいたらしい。
「あぁ――」
俺はそのまま、仰向けに転がった。
森の木々の隙間から、ほんの少しだけ青空が覗いている。
昼夜の感覚もだいぶ鈍っていたが、今は昼らしい。
「あの子……ちゃんと森を抜けられたかな」
自分が手を尽くして逃がした少女のことを思う。
この時間なら、森さえ抜ければカルテンルビーの住人に会えるだろう。
そうすれば、デトランシェル陥落の報せも伝わるはずだ。
『きっと大丈夫だよ。だってイオン、すーっごく頑張ったもん』
「……ああ、そうだよな。俺、頑張ったよな。柄にもなくさ」
首を横に回し、視線を空から地面へ向ける。
少し離れたところには、何人もの魔族の死体が転がっていた。
「なあ、ファム……」
『なーに?』
「アイツら……きっと、それなりに強かったよな」
『たぶん、魔族の戦士としてやっていけるくらいにはね。どうして?』
その死体を眺めながら、ふと思った疑問を口にする。
「つまり、俺を殺した奴と同じくらい。ソイツらを俺、簡単に倒せたわけじゃん?」
『そうだね。凄いと思う、よ……?』
「いや、そういうことじゃなくてさ」
別に、褒めてほしくて確認したわけじゃない。むしろ――
「でも――俺は、魔王に傷一つ付けられなかった」
『それは……』
魔王城でのことを思い出す。
俺がファムを振るえば、普通の魔族は斬れる。
しかし、魔王には全く歯が立たなかった。
「やっぱりさ。俺が魔王を倒すなんて、無理だと思う」
『そんな……そんなこと、』
言い淀むファムを、「っていうかさ」と遮る。
そして――
「『魔王を倒さないと逝けない』って言うけどさ。それ、俺以外の誰かが倒したらどうなんの?」
そんな、最高に他力本願なことをぶちまけた。
『え!? えっと……それは……まあ、魔王が倒されれば、いいんじゃないかな……?』
さすがにファムも面食らったようだが、返ってきた答は僥倖だ。
「だよな! つまり、俺が頑張る必要ってないんじゃね!?」
まくし立てる俺の声音は、やたらと明るい色で響いた。
「そう、そうだよ。なんで俺、こんな頑張っちゃてんだ。それでいいじゃん」
思えば、ここで幽霊になったあの時――いや、ラインスを助けようとしたあの時からか。
俺は、どこかおかしかった。
あり得ない事態に振り回され、非日常に侵されて。
きっと、熱に浮かされていたのだ。
じゃなきゃ、命懸けでラインスを助けたり、魔王城に突貫したり、あの子を助けるために……。
「そんなのは、俺じゃない。俺はもっと卑怯で、怠惰で、歪んだ男だ。なに死んでまでカッコつけてんだか」
自分のこれまでの行動のあり得なさに、乾いた自嘲を浮かべる。
本当に、あれはまったく、俺らしくなかった。
『……そうかなあ』
と、ファムは静かに口を挟む。
『私は……頑張り屋さんだと思うけどな。イオンって』
「……おいおい、今まで何を見てたんだよお前。地味に無難に平穏に。それが俺の座右の銘だっつの」
ファムの紡ぐ、まっすぐに俺を信じる言葉。
俺はそれに耐えられなくて、軽い口調で自分を否定した。
軽くて軽くて、口の中から勝手に飛んでいくくらいだった。
「っていうか、頑張ったって意味ないだろ。俺、死んでるし。それに――」
だから、俺は溢れる言葉を止められない。
「……あんな顔されるくらいなら。何もしないほうがマシだよ」
ついうっかり漏れ出てくる、そんな情けない本音すらも。
俺の手には、まだ残っている。
青年を斬り殺した、生々しい感触が。
俺の目には、まだ焼き付いている。
俺に向けられた、少女の恐怖の表情が。
頑張って、やりたくないことまでやって、人を助けたって。
今の俺は誰にも見えない。誰にも気づかれない。
俺のやったことを認めてくれる人はいない。褒めてくれる人はいない。
それで一体、どうして頑張れると言うのだろう。
『……そっか』
しばらくの沈黙の後、ファムはぽつりとそう言った。
『うん……そうだよね。
そうするとイオンはしばらくあの世に逝けないんだけど、それはいいの?』
そしてファムは、さっきの俺と同じくらい軽い口調でそう言った。
まるで今日の晩御飯でも聞くような態度で。
「……まあ、この世に留まる理由はねぇけど、あの世に急いで逝く理由も無いからな」
『そっか。なら、いいんじゃないかな』
俺の答を、彼女はあっさりと受け入れた。
その声音からは、字面以上の感情は読み取れなかった。
『よし、そうと決まれば! 折角だし、楽しいことしようよ! 時間はたーっぷりあるんだし!』
そしてお得意の、真面目な雰囲気をぶち壊す明るい声音でそう言ってくれる。
「おう、そうだよな! 面倒な授業も、鬱陶しい集団生活もない! 俺は自由だ! 何でもできる!」
『そうだそうだー!』
それにありがたく乗っかって、二人で馬鹿みたいにはしゃいでみせる。
まるで、遠足の前の日の子供のように。
連れ添って歩く恋人のように。
『ねぇねぇ、何しよっか! 私、サーカス観てみたいんだよね! 演劇もいいなー!』
「おう、何しろ俺らは幽霊だ、入場料も取られねぇ! いくらでも観れるぜ!」
『やったー、楽しみだなー! うーん、後は……旅をするのもいいね! 二人で気ままに、のーんびり!』
「時間も腐るほどあるからな、いいんじゃね? 馬車もタダ乗りできるし!」
そうだ、これでいい。
魔王だって不死身じゃない、いつか誰かが倒してくれるはずだ。
よしんば誰も倒せなかったとして、俺があの世に逝けない以外の不便はどこにもない。そのはずだ。
そんな風に、言い訳を重ねて。
俺はファムと二人、今後の楽しい計画を語り合うのだった。