第一章7 幽霊の苦悩③
ファムに言われるがまま、俺は耳を澄ます。
すると――
『……い、おい! どうした! 何があった!』
うっすらと、直近で聞いた覚えのある声が聞こえた。
最後に倒した魔族の手元からだ。
「何だ……?」
近寄ってそこを見ると、掌に収まる大きさの黒い物体があった。
パッと見は石にしか見えないが――
『おい、あっちの部隊に何かあったらしい! 救援を頼む!』
「――!」
その『石』は、微かに震えて音を発していた。
それに気がついた途端、俺の記憶が一気に繋がる。
「まさかこれ……遠距離で連絡が取れる魔術器か……!?」
馬車を降りる時、御者がこれとよく似たものに向かって喋っていた。
さっき倒したコイツも、最後にこれに向かって叫んでいたのだ。
決定的なのが、聞こえてきた声。
それは記憶にある御者の声と完全に一致した。
しかし、その気づきは遅きに失した。
遠くのほうから、森を掻き分けて進む足音がいくつも聞こえ始めている。
「やべぇっ……おい、逃げろ! 早く逃げねぇと追手が来るぞ!」
『無理だよイオン! 私たちの声は聞こえないんだから!』
くそ、そうだった。
さっきまであれほど頼もしかった幽霊の体が、今は憎らしくて仕方ない。
目には見えない、声は聞こえない、物に触れもしない。
誰にも意思を伝えられないことがこんなにも不便だということを、俺は今さら思い知らされた。
「くそっ、どうすりゃいい……! 何もできずに『預言者』を見殺しだなんて、世界単位での大戦犯だぞ……!」
今の俺にできるのは、ファムを使って物を斬ることだけだ。
いや、ファムを使えば触ることくらいはできるか……?
でも、今の少女を動かすのは至難の業だ。
あの青年がどれだけ言い含めても無理だったのに、俺がちょっと小突いたくらいで動くわけがない。
「こうなりゃ……ちょっと気は引けるけど……」
――一つだけ、方法を思いついた。
それはあまりにも乱暴で、できればやりたくはない。
だが、迫る足音が俺から選択肢を奪った。
「くそっ、やるしかねぇか! ファム、ちょっと雑に扱うけど勘弁な!」
『イオン!? 一体何する気――』
ファムの返事を待たず、俺は思いっきり地面を斬りつけた。
ザンッと大きな音が立ち、地面に大きな引っ掻き傷ができる。
「な、何……!?」
そして、ひとまず目論見は成功した。
少女は顔を上げ、こちらを見た。俺のことはもちろん見えていないが。
「おらっ、おらっ、おらっ!」
続けざまに、俺は地面を斬りつける。
少女に向かって、徐々に近づきながら。
「や……いや……!」
少女は怯えた顔で、徐々に近づいてくる『何か』を凝視した。
彼女の目には、何か危ないものが自分に迫っているように見えることだろう。
命の危険を感じれば、彼女だってさすがに動くはずだ――
「くそ……動け……動けよ……!」
しかし、彼女は動かない。
いや、動いてはいる。
――青年を抱えて、力の限り引っ張りながら。
もちろん、少女の力で青年を動かせるわけがない。
だが、青年が「早く、俺を置いて」とか細い声で諭しても、少女はそれをやめようとしなかった。
徐々に、俺と少女たちの距離が近づいていく。
ゆっくりと、しかし確実に。
あと五歩も進めば、青年の足先に剣が届いてしまう。
「頼む……」
あと四歩。
少女は懸命に力を込め、青年を引っ張る。しかし、青年は動かない。
「頼むから……っ」
あと三歩。
後ろから聞こえる足音が、さっきよりも近くに聞こえる。どんどん近づく。
「もう、諦めろよ……!」
あと二歩。
少女の顔が恐怖に歪む。それは魔族と相対していた時よりも、ずっと怯えた表情で。
「諦めろって!」
あと、一歩。
その時――青年がこちらを見たような気がした。
ほとんど死んでいるような状態だったから、俺が見えでもしたんだろうか。
いや、単純に状況を見て、見えない味方がいると判断したのだろうか。
あるいは、それこそ諦めたのだろうか。
その真意はわからない。
だが、青年は確かに首を動かし、口を動かし、こう言ったのだ。
「やってくれ」
その言葉の意味を、覚悟を、俺は理解した。
「……クソが」
こんなこと、理解したくなかった。
まして実行したくなんかなかったよ。
青年は最後の力を振り絞り、少女を突き飛ばすと――
「行ってください。生きてください。貴方は、世界の希望です……!」
少女に向かって、最後の言葉を手渡した。
それが、青年にできた唯一のことで。
「――くそったれぇぇぇ!」
あと、ゼロ歩。
俺は、俺にできる唯一のことをした。
青年の体に向かって――ファムの刀身を振り下ろす。
振り抜かれたその刃は、青年の体に、深い、深い傷をつけた。
俺の手に、肉を断つ感触が伝わる。
魔族を斬ったときと何ら変わらないはずの手応えは酷く不快で、まとわりつくような生々しさを俺に残していった。
そして、少女は走り出す。
彼女を動かしたのが、青年の言葉だったのか、彼の明らかな死だったのか、あるいは自身の死への恐怖だったのか。
それはわからない。
だがそれでも、少女は走り出したのだ。
振り返らず、一直線に。
いや、きっと振り返ることなど、できはしなかっただろう。
「そう、それで、いい……よく、頑張ったな……」
俺は、絞り出すようにそう呟いた。
そしてその場に跪くと、青年の顔にそっと手を当てる。
たとえ触れられはしなくても、そうしたかった。
「アンタもな……バズ、とか言われてたっけ。アンタの覚悟、すごかったよ」
どこか満足げで、しかし寂しそうで苦しそうな顔だった。
見開かれた目を閉じてやることができないのが、本当に申し訳なかった。
「それに……ごめんな、ファム」
初めて、人間を斬った。
それも、何の罪も無い、善良な人間をだ。
必要に迫られてとは言え、ファムだっていい気がするはずがない。
『バカ……優しすぎるよ、イオンは』
しかしファムは、呆れたように、けれど優しい声でそう言った。
そして彼女は、決然と告げる。
『私は、イオンの剣。たとえそれが何だって、イオンが斬ると決めたものを斬る。それだけだよ』
だから、泣かないで。
そう言われて初めて、自分が涙を流していることに気がついた。
『大丈夫、イオンは間違ってない。間違ってないよ』
どちらにせよ、あの青年はもう助からなかった。
結果として『預言者』を逃がすこともできた。
俺の選択は、間違っていない。
理屈では、わかっている。
しかしそれでも泣いている俺は、感情でそれを拒んだのだろう。
だから、ファムがただ『間違ってない』と認めてくれたことに、救われた。
頬を伝った俺の涙は、地面に染み込むこともなく消え失せた。
「……ありがとな、ファム。やっぱお前、いい奴だよ」
『だからそこは、“いい女”だって言ってるでしょ?』
「はは、それはまだ認められねぇかな」
その軽口に支えられ、俺は立ち上がる。
そしてその場で振り返ると、ファムを持つ右腕を真っ直ぐに上げ、じっと刀身を見つめた。
「さあ……ファム。もう少し、付き合ってもらえるか? お姫様が逃げる時間を、稼がなくっちゃならないからさ」
『うん、もちろん。どこまでも付いて行くよ』
その言葉を合図に、俺は駆け出した。
近付いてくる魔族たちの足音に向かって――振り返らず、一直線に。