第一章2 幽霊になりました②
飛び出してきたソレ。
思いのほか小さな影、その正体は。
「――何だ、ただの栗鼠ね……」
何てことのない小動物だった。
思わずという感じで、ラインスはため息を吐く。
だが、少し妙だ。
「いや、待った。コイツ、何か持ってる」
俺がそう言うと、あろうことかソイツは近寄ってきて、それを手渡してきた。
「ちょっと待って、それ……」
「……制服のボタンだな」
ローレイ学院の制服のボタン。
それも、ただのボタンでなく……
「これ……血、だよな」
「……!」
ボタンに付着した赤い液体。
見れば俺の手にも少し付いていて、まだ新しいものであるとわかる。
そして、栗鼠は少し移動するとこちらを見つめてきた。
まるで「ついてこい」と言わんばかりに。
俺は知っている。
動物と会話ができる『天与』が存在することを。
その使い手も一人。
そして、血の付いたボタン。
――どうする。
うちの生徒は戦闘訓練を受けている。
しかも今回来たのは全員七年生――最終学年であり、もう立派に一人前だ。
この辺りの魔物は大して強くないし、戦って遅れを取るとは考えにくい。
となれば別の要因――崖から落ちた、とか?
あるいは、想定外の種類の魔物がいたか。
盗賊が森に潜伏していた、なんて可能性もある。
何にしたって、クソ雑魚の俺が行っても役に立たない。最悪の場合俺まで危険に曝される。
それは御免だ、あんな奴らのために。
ここは一旦、森の外に出て先生や村の人を呼んで――
「って、おい!」
そんな風に思考を巡らせていたら、ラインスがすでに走り出していた。
もちろん栗鼠の行き先に向かってだ。
「何ボーっと突っ立ってんのよコクレン! 行かないと! 何かあったのかも!」
いや、何かあったに決まってるだろ。この状況。
だからこそ行かないほうが――なんて、きっと彼女は聞く耳持たない。
実は、彼女は優しいのだ。俺以外には。
「あーもう、クソ! 待てよ!」
さすがに、ここで彼女を放って逃げるのは人でなしが過ぎる。
後で周りから何を言われるか。
俺の今後を考えると、彼女を追うしかなかった。
すぐに追いつくと、栗鼠を追って森の中を突き進む。
ほどなく前方に動き回る人影が見え、立て続けに響く金属音が聞こえてきた。
「あれは……」
「パレス!」
呟く俺の横で、ラインスがその名を口にした。
クソ、やっぱりアイツかよ。本気で来なきゃよかった。
パレス・アンティパス。
諸事情あって俺の天敵である。もっとも、向こうもきっとそう思っているが。
要するに、お互い相容れない人間だ。
そんなパレスは今、何かと戦っているようだった。
敵の姿はまだ見えないが、苦戦しているのは明らかだ。
やはり何らかの非常事態が発生しているらしい。
アイツの実力なら、この辺りの魔物は一方的に倒せるはずだ。
さらに言えば――
「ティナは!?」
「少なくとも、こっからは見えねぇな」
パレスは、双子の妹であるティナと常に行動を共にしている。
今回も(くじ引きにも関わらず)当然のようにペアを組んでいた。
そして、ティナが天与『動物会話』の持ち主だ。
にも関わらず、パレスの姿しか見えないということは。
――嫌な予感がする。
しかし、そう思った時にはもう遅かった。
「リズ!? それに――っ」
近づいてきた俺たちにパレスが気づいた。そして、次の瞬間。
「ダメだ、逃げ――」
発された警告。しかし、それを言い終わることなく――
「――っ」
目の前で、パレスの胴体が真っ二つになった。
「ふん、つまらん。全く相手にならんな」
俺もラインスも、完全にその場に固まった。
あまりの衝撃に、叫び声も上げられない。
パレスの体から血が撒き散らされ、上半身が足元まで転がって来るのを、ただ見ていることしかできなかった。
その目は虚ろに見開かれ、傷口からは真っ赤な血が生々しく流れ出す。
唐突に叩きつけられたその苛烈な光景が、俺のすべてを塗りつぶした。
「さて。見られてしまったか」
そして、声がかかる。
台詞に反し、どこか嬉々とした声。
その手に持った大剣で、パレスを一刀両断にしてみせたソイツは。
「ま……魔族……?」
筋骨隆々の肉体を簡素な鎧に押し込み、歪んだ口の端から鋭い牙が覗く。
形は人の体を成しながら、ぎらぎらと輝く眼光は獣のそれだ。
何より――黄土色の皮膚に、頭に生えた角。
その特徴と、突き刺すような冷たい威圧感が、俺たちに事実を突きつける。
全身が総毛立つのを感じながら、俺は目の前のそれを正しく認識した。
魔族。
人のような体を持ち、人のように喋り、しかし人ならざる暴虐を平然と行う。
人間という種族そのものと敵対する、最悪の蛮族がそこにいた。
「あ……あ……」
どさり、と横から音がする。
見れば、ラインスが腰を抜かしてへたり込んでいた。
口を、いや全身を震わせて、声にならない声を漏らすばかりだ。
「おい、しっかりしろラインス!」
我に返って呼びかける。
が、彼女は委縮しきって全く動けそうにない。
「女か――コイツはいい。さっきの女は、ソイツをかばって勝手にくたばったからな……これで、楽しめるってもんだ」
下衆な視線でラインスを眺める魔族。
その言葉に俺は視線を巡らせ――魔族の背後にそれを見つけた。
「ティナ……!」
彼女はパレスと同じように真っ二つにされて、無残に転がっていた。
ティナもパレスも俺を疎んでいた。それは俺も同じくだ。
しかし、こうも惨たらしい死に様を見せつけられると――胸の奥がざわついた。
「さて……じゃあ、邪魔者の始末をしておくか」
そして魔族は、鋭い視線を俺に向ける。
ガシャンと重たい音を立てながら、奴は大剣を担ぎ上げた。
――ヤバい。
魔族は強い。マナを知覚できる奴らは、種族としての戦闘力が土台から違う。
当然、俺なんか逆立ちしたって勝てっこない。
強くなれるなら逆立ちくらいしてやるが、それで強くなれるわけねぇだろ。アホか。
俺はチラリとラインスに視線を送る。
完全に腰を抜かしている彼女は、ただ恐怖だけをその顔に貼り付けていた。
――ここで、コイツを見捨てて逃げれば。
魔族の体の構造は、人間と同じだ。
だから、魔族の男に捕まった女は慰み者にされるらしい。
だったら、彼女を置いて行けば。
奴はお楽しみの時間に入り、俺は逃げ切れるかもしれない。
命あっての物種だ。
誰が好き好んで、自分を毛嫌いしてる奴を助ける。
そうだ。誰だって命は惜しい。
たとえ下らない人生を送っていたって、いざとなれば我が身が可愛い。
それの何が悪い。一体誰が、俺を責めることができる。
逃げてしまえばいい。尻尾を巻いて、逃げてしまえば――。
「……ほう。やる気か。面白い」
――でも。
気づけば俺は剣を抜いていた。
ラインスと魔族の間に歩み出て、静かに構える。
まったく、どうかしている。
俺は絶対にコイツには勝てない。
勝ち目のない戦いを挑むのは馬鹿のすることだ。
命を粗末にするべきじゃない。
でも――
「最後に良いことすりゃ、天国に行けるかもしれないしな」
それに、ちょっとは周囲から見直されるかもしれない。
多少は親孝行にもなるかもな。
ほら、悪い奴が良いところ見せると高評価になったりするだろ?
俺の下らない人生だったら、それに賭けるのもアリだ。
――そんな風に嘯いて、自分を騙して、言い訳を固めて。
「ラインス、逃げろ」
それだけを、彼女に伝えた。
「っ……イオン……!」
呟く彼女の声を置き去りに、俺は魔族に飛び掛かった。