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一ヶ月の雇い月  作者: 千早 朔
第二章

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第五話

 部屋に響いたノック音に思考を切り、結月は持参していたノートパソコンの蓋を閉じた。

 そのまま眠れそうな居心地の良さと広さを兼ね備えたソファーから立ち上がり、足早に扉へと向かう。開くと、黒いスーツの男が柔いだ笑顔を携え、軽く頭を下げた。


「お待たせしました、結月さん」

「そんなにかしこまらなくても」


 彼は結月の部下ではない。云わば、お世話係を押し付けられた、不運な男である。

 だというのに、そんな不満など微塵も見せずに「そうですか」と笑うだけで、纏う温かな空気には確かな安心感がある。

 とはいえ、いつまでもここで和んでいては、この後のスケジュールに狂いが出てしまうだろう。


「呼び出してごめんね、逸見さん。よろしく」


 靴を履き、後ろ手に扉を閉じた結月に、逸見は微笑みながら頷いた。


***


 外出の際は連絡をいれるようにと、仁志からアドレスと番号を受け取っていた。車を出す必要があるならば逸見に要請しろと、ご丁寧に逸見の番号まで。

 逸見は仁志が居住区としている最上階の、エレベーター横にある一部屋を『家』としているらしい。

 社長補佐というよりは従者のようだと述べた結月に、逸見は穏やかな顔で「似たようなモノです」と首肯した。


 逸見は幼少の頃から、仁志の『補佐』をしていたらしい。

 仁志の家は元々商業施設向けの不動産業を中心とした商いをしており、現在その社長の椅子には仁志の父親が、補佐の位置には逸見の父親が腰を据えているのだという。

 つまり逸見は幼少時から『補佐』としての教育が徹底されており、現在の立場はなるべくしてなったと言うべきなのだ。

 仁志の目を盗んで不満はないのかとこっそり尋ねてみたが、逸見は「ありません。向いていたんでしょうね」と微笑むだけだった。


 そんな逸見に都合の良い時間帯を伺い、こうして車を出してもらったのは、結月がただ社長気分に浸りたかった為ではない。

 というより、真逆だ。

 出来るだけ普通車に近いデザインの車を選んでもらったのも、目的に起因する理由である。


 車が停められ降り立ったのは、あのマンションから一番近い位置にあるスーパーだ。

 おそらく立地上、結月が日頃足繁く通うスーパーよりも、単価が高いと推測される。


「予算は?」

「特に指定はされておりません。お好きに選んで頂いて構いませんよ」

「どんだけ適当なのあいつ……」


 監視するつもりなら金の管理もキチンとしておけと、結月はいらぬ心配を脳裏に浮かんだ涼しい顔にぶつけた。

 滞在中、食事は自炊でも出前でも好きにして良いと言われている。費用は勿論、『雇い主』持ちだ。

 ただし一点だけ、仁志が『家』に居る時は共に食卓を囲むようにと、ついでのように付け足されている。

 その時に報告もしろ、という事だろう。なんせ『面倒だから』の理由で、裏稼業の人間に部屋を提供してしまうような男だ。

 昨日の昼食は和食の御膳が届けられ、寝不足だからとひと眠りした後の夕食には、フレンチのフルコースが用意されていた。個人宅へと出張シェフなんて、初めに目にした。

 当然ながら二食とも文句なく美味しかった。

 だがやはり、どんなに環境が変わっても、結月は結月のままなのである。

 衝撃と、初めて口にする食材の数々に気が漫ろになり、膨らむ胃とは裏腹に、なんだか食べた気がしなかったのだ。


 スーパーだというのに隠しきれない高級感を漂わせている自動ドアをくぐり、小型カートに買い物カゴを乗せる。

 スーツの男を従えたジーンズ姿の男という奇妙な組み合わせは、周囲の奥様方の好奇を刺激したようだが、特に声をかけられるでもなく、結月は目ぼしい材料をカゴに突っ込み、逸見に精算してもらった。

 折角だからと普段は手の出せない高級牛肉をワンパックだけ忍び込ませたが、それ以外は実に慎ましやかな選択をした。だというのに、やはり予想通り置いているモノが違うので、結果、自身が買う時よりも二倍近くになっていた金額に、結月は頭痛を覚えた。


「逸見さんはお昼どうするの?」


 昼食は手軽なパスタにしよう。

 ピカピカのシステムキッチンを陣取り、しめじの石づきを取り除いて、程よい脂身のベーコンを厚めにカットしながら、結月は通話を終えた逸見に声をかけた。


「大したもんじゃないけど、食べてく?」


 フライパンにオリーブオイルを垂らし、沸騰した大鍋に投入するパスタを握りながら伺うと、逸見は腕時計を確認してからすまなそうに眉を傾けた。


「ご迷惑でなければ、お願いしてもよろしいでしょうか」

「うん、いいよー。味は保証しないけどね」


 茹でる乾麺を二人分に増やし、温まったフライパンにチューブのニンニクを投入しようとして、やめた。

 社長補佐がニンニク臭くては示しもつかないだろう。


 醤油とバターで味付けし、塩コショウで整えた和風パスタを皿に盛る。

 逸見はその間にダイニングテーブルを拭き、フォークを並べ、グラスにお茶を注いでくれた。

 なんという手際の良さ。つい、「いい嫁さんになれるね」と感心しながら言うと、やはり穏やかな口調で「ありがとうございます」と笑みを浮かべ、結月の両手から皿を受け取り、机上に並べてくれる。


(おれ、逸見さんと生活してたら駄目人間になりそう)


 いや、既に駄目人間だからそれ以上……って、なんだろ。

 首を捻ったまま結月が着席すると、逸見が律儀に「いただきます」と手を合わせたので、結月も思考を切り「どうぞ」とフォークを手にした。


「あ、美味しいです」

「ホント?」

「はい。結月さんはお料理が出来るんですね」

「常に収入がある訳じゃないから、仕方なくだよ。逸見さんは? 出来ないの?」

「最低限は心得ていますが、最近は全くですね。効率の方を優先してしまって」

「時間は有限だからねー」


 等しく与えられた二十四時間の活かし方は、人それぞれだ。

 あっという間に平らげた逸見は「ごちそうさまでした」と手を合わせ、「お粗末さまでした」と返した結月に、皿洗いを申し出た。

 そんな暇はないだろう。大丈夫だと断って、結月は会社に戻ると言う逸見を苦笑混じりで送り出した。

 逸見の謙虚さと仁志のふてぶてしさは、足して二で割ったら丁度なんじゃないかと思う。

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