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一ヶ月の雇い月  作者: 千早 朔
第八章

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第三十二話


 ひとり部屋で仁志を待つ間、結月は運んできた荷物を適当に片付け、夕食作りに取りかかった。

 入っているかはわからないが、残りの食材を確認してから買いに行こうと部屋の冷蔵庫を開けると、真っ白な空間には思った以上に食材が詰まっていた。

 一瞬、結月が居ない間に別の女か男かを囲っていたのかと過ぎったが、土竜の話しからも推測するに、仁志に限ってそんな事はあり得ないと直ぐに打ち消す。

 ならば自炊を始めたのか。結月の疑問は下段に置かれた肉のパックに乗せられた、明らかに不自然なメモ用紙で解消された。


『よろしければ使ってください。逸見』


 本当、どこまでも出来た人だ。

 どうやら結月が戻ってくるならばと、事前に目ぼしい食材を入れておいてくれたらしい。

 お礼は後でするとして、おかげで結月は歩くには少し遠いスーパーまで赴く事なく、数品を作り上げた。


 さて、問題はここからだ。結月は腰に手をあてた。

 一応、今日の引っ越しをもって、結月は正式に同棲を始めることとなる。土竜と仁志の言葉から察するに、それは『お付き合い』の意味合いよりは、『婚姻関係』に近しいモノであるコトは、なんとなく理解した。

 と、いうコトはだ。


「……やっぱ、言うなら今日が新婚初夜ってやつ?」


 想いが通じ合ったのは昨晩だが、互いにやっと手にした充実感で、特にナニをするでもなくただ抱きしめ合いながら、実に気持ちよく眠りについて終わった。

 からの、今日だ。

 いや、関係を持つには少々早いのではと渋る理性と、でも別に嫌な訳じゃないしなと前のめりになってしまう情欲の間で、結月の心は大きく揺れていた。

 仕事上、出会ってその日限りの関係ばかりを続けていた結月にとって、まともなタイミングというモノは未知でしかない。


「あーもーわっかんない!」


 ただひとつだけ分かるのは、ここで可愛らしくまごつくような性分ではないという事だ。


「……よし」


 壁にかかる時計を見遣れば、仁志の帰りはあと三十分後。

 結月は覚悟を決めて、衣裳部屋へと大股で踏み込んだ。


 仁志の反応は早かった。

 解錠された音にパタパタと向かった結月を見つけるなり、バタリと後ろ手に扉を締めた。


「逸見。悪いが、挨拶はまた今度だ」


 どうやら逸見が居たらしい。そういえばその可能性を忘れていた。

 だが結月にとっては、別に逸見がいてもいなくとも構わないというのが本音だ。残念ながら、この格好で今更恥じらうような初々しさは持ちあわせていない。

 目の前で勢い良く扉を閉められた逸見が何を思っていたのかはわからないが、「では、また明日に」と届いた声は、なんだか笑っていたようにも思えた。

 微かに届く足音が去っていったのを見計らい、結月は靴も脱がずに石化する仁志に小走りでかけより、手にぶら下がってた鞄をムンズと奪い取った。


「おかえりダーリン。ご飯にする? お風呂にする? そ・れ・と」

「ズボンを履け」

「なんだよ、最後まで言わせてよ」


 結月は今、衣裳部屋から拝借した仁志のシャツに、ご丁寧意に運び込まれていた以前仁志にプレゼント(という名の配給)されたエプロンという格好である。

 体格差の為シャツの裾は腰を覆い、エプロンとの絶妙な兼ね合いで下着が見えたり、見えなかったりしている。ついでに萌え袖のオプション付きだ。

 だというのに、何が不満だ。


「せっかく頑張ったのに」


 結月が唇を尖らせると、仁志は自身の額をおさえ、重々しい溜息をついた。


「いらん」

「えー」


 やっとの事で調子を取り戻したのか、靴を脱いで上がると「さっさと着替えて来い」と結月を衣裳部屋に押し込んだ。


 言われるまま着替えを済ませた結月がリビングに戻ると、仁志はソファーに座って書類をいくつか広げていた。スーツを脱げないままでいるのは、結月が衣裳部屋を陣取っていたからだろう。

 昼間の一件があったから、気を遣ってくれているのかもしれない。

 可能性に結月が「ごめん、ありがと」と呟くと、仁志は気にした様子もなく「ああ、終わったか」と結月を手招いた。


「これ、おれが見て平気なの?」

「構わん。というより、お前に見せる為に持ってきた」

「へ?」

「『飼われるだけは嫌だ』と言っただろう? 頼みたい事がある」

「っ!」


 正直、意外だった。仁志が結月に『仕事』を頼むなど。

 だが確かに、結月に出来る事は『それ』しかない。


「うん、いいよ。で? 今度は誰さぐんの?」

「違う。その『仕事』じゃない。……させる訳ないだろう」


 呆れ半分、怒り半分の双眸に見据えられ、怯んだ結月に仁志は溜息を重ねた。


「これはウチの人事に関する資料だ。社外秘だから、取り扱いには気をつけろ」

「あーうん、そーゆーのは慣れてるけど……」


 意図が読めないと結月が眉を顰めると、仁志は真摯な目を向けた。


「お前には、人を見てきた目と勘がある。人事にはうってつけだ。相談に乗ってくれ」

「……わかった」


 結月の胸中がホワリと浮足立つ。

 それは自分にも役に立てる事があるのだという安堵と、仁志の見込んでくれた技術に、嬉しさを覚えたからだ。

 期待に応えられるよう、がんばろう。

 小さく握った拳に気付いたのか、仁志は「あまり気負うな」と肩を竦めた。


「ああ、それと、もうひとつ」


 思い出したように仁志は懐から一通の手紙を取り出し、結月へと差し出した。


「お前にだ」

「へ? おれ?」


 戸惑いながら受け取り、裏面に書かれた差出人を見ると、黒のインクで『田淵』と書かれていた。

 見覚えがある。確か、『彼女』は――。


「……あの後、ウチの広報で引きぬいた。今日わざわざ社長室まで来て、あの時の『お連れ様』に渡してほしいと言われてな。綺麗な女性だった筈なのに、まったく思い出せなくてと恐縮していたぞ」


 仁志の言葉を耳に受けながら、結月は早まる鼓動に急かされるように中身を広げた。

 綺麗な字体で綴られた文字には、あの時取り乱してしまった事への謝罪と、救って貰えたのだという感謝が書き連ねられていた。末尾には今、この会社で楽しくやっていると。


(……よかった)


 楽しくやっているという言葉が、何よりも結月を安心させた。

 とはいえ、あの時結月が力を貸せないかと思ってしまったのは、偏に彼女の人柄と、情熱に感化されたからである。今在る環境は間違いなく、彼女自身の力で掴みとったモノだと結月は思うのだ。


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