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一ヶ月の雇い月  作者: 千早 朔
第八章

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第三十話


 いつの間にか驚く事もなくなってしまった『部屋』も、今日から本当に自分の『家』になるのだと思うと、やはり気が引けてしまう。かといって自身の些細な我儘の為に引っ越しを促すのも申し訳ないし、別に暮らすと言ったら、それこそ本気で引っ越しを検討されそうで、結月はこれも慣れるしか無いと自身に言い聞かせた。

 仁志の手も借り両手に荷物を抱え、最上階に運搬してくれたエレベーターから微妙な心境で踏み出すと、先に廊下を進み行く仁志は例の奥の部屋へ向かうのではなく、手前のドアを開けた。

 結月がおや、と不自然に思っていると、「来い」と簡素に促す。

 思えばあの部屋以外に入るのは初めてだ。恐る恐る踏み入れると、結月に与えられていた部屋二つ分の広さに迎え入れられた。


「ひっろ!?」


 思わず目を剥いた結月に、仁志はコの字型のソファーに荷物を下ろしながら、「今日からお前の部屋はここだ」と飄々と言ってのける。


「は!? え!? どーゆーこと!?」

「どういう事もなにも……俺のパートナーなんだ。生活を共にするのは当然だろう」


 石化する結月に近づき荷物を奪い取ると、同じくソファーに運び起き「後で好きに片付けとけ」と言い放つ。そして再び戻ってきたかと思うと、結月の腕を掴んで導くように軽く引く。

 未だ衝撃から戻りきれない結月は連れられるまま歩を進め、順に部屋を周り、簡素な説明を受けた。


「風呂、トイレ、洗面台。そこが衣裳部屋で、隣が書斎。仕事部屋だな。……こっちが寝室。キングサイズだから、これでいいだろう」

「まって、頭が追いつかない……!」

「ああ、それと。今までの部屋は一応、お前の逃げ込み部屋にしておいてやる」

「逃げ込み部屋?」

「逃げ場がないと、飛び出されそうだからな」


 仁志は苦笑を浮かべ、ポンと軽く結月の頭を撫でる。


(……色々考えてくれてたんだ)


「……ありがと」

「まぁ、俺もあの部屋の鍵を持っているから、入れる訳なんだが」

「意味無いじゃん!?」

「基本的には尊重する。けど、場合によっては踏み込む。時には無理やり抱き込むのも、必要だろうからな」

「愛が重い……」

「よかったな」


 グッタリと項垂れる結月とは反対に、仁志は実にご機嫌だ。

 ふと、何かを思い出したように書斎へと向かうと、足早に戻ってきて結月の手をとった。されるがまま持ち上げると、小さなカードを握らされる。結月にも見覚えのある、縦長のカードだ。


「この『家』の鍵だ。お前用のを作っておいた。無くすなよ」

「う、うん……」


 本当に、一緒に暮らすんだ。

 今更ながらジワリジワリと湧いてきた実感に、結月が照れくさくも頷くと、仁志は満足そうに双眸を緩める。

 どうしよう、空気が甘い。

 羞恥から頬に熱が集中するのを感じながら、結月はどんな態度を取ればいいのかわからずに、戸惑いに仁志を見上げた。

 途端、仁志が小さく吹き出す。


「動きっぱなしだったからな、休憩するか」

「っ、あ、おれ、コーヒー淹れるよ」


 丁度いい口実を与えられたのだとわかるが、今はそれすらもありがたい。

 今後も必要になるからと、置かれていたコーヒーメーカーの使い方を尋ねながら、結月は二人分のコーヒーを淹れた。仁志の分はそのまま、自分の分には砂糖を二杯混ぜる。

 見守っていた仁志がブラックは苦手なのかと尋ねてきたが、やはりその雰囲気は何処と無く甘い。

 ……うん、困る。


「……はい、どうぞ」

「ああ」


 ソファーで寛ぐ仁志の隣に腰掛けるも、どのくらいの距離が適切なのかもわからない。というか、こんな事まで意識している時点で、色々と駄目な気がする。

 実際、仁志はマグを受け取る前から笑いを噛み殺しているようだったし、それは結月がチビチビとコーヒーに口をつけ始めてからも変わらない。

 壁の一角を担う窓から差し込む日差しが、飴色のフローリングに薄い白を落とす。特に会話を紡ぐでもなく流れていく時間は、それでも確かな柔らかさを結月に感じさせた。


(なんだかなぁ……)


 師匠や土竜と共に過ごした日々も十分温かいものだったが、それとはまた少し違う空気感だ。


 静寂を破ったのは、無粋な電子音だった。

 自分のものではない。結月が仁志を見遣ると、不機嫌に眉根を寄せた仁志が、ポケットから渋々スマートフォンを取り出した。

 着信ではなくメールだったらしい。画面をいくつか操作するといかにも億劫そうに息をつき、「結月」とすまなそうな声で名前を呼んだ。


「すまんが、急務が入った。仕事に行ってくる」

「え、あ、うん」


 余程の急ぎなのだろう。仁志は「すまん」と重ねて立ち上がると、足早に衣裳部屋へと向かっていった。

 結月もつられるようにその背を追いかける。手伝えればと思ったのだ。

 けして、寂しかったからではない。


 だがいそいそと付いていったはいいものの、覗き込んだ部屋でバサリと服を脱ぎ捨てる仁志を見て、結月は思わず立ち止まった。

 露わになった上半身は程よく筋肉がつき、引き締まった腰回りが逞しい。思えば仁志の肌を見るのは、これが初めてだ。

 意識した途端、同じ男同士だというのに惚れ惚れする肉体に、見てはいけないものを見てしまったような羞恥が襲い、結月は堪らず視線を落とした。

 仁志は扉前で立ち竦む結月を不思議に思ったらしい。「どうした?」と伺う声に、布の擦れる音が重なる。


「い、いや、手伝おうかと思ったけど、いらなかったね」

「……着替えは一人でも出来るが、そうして恥じらうお前に見られているのも、悪い気はしないな」

「っ、へんたい!」

「覗きに来たのは、結月だろう?」


 愉しげに笑う声が近づいてくる。

 視界に入った足元にビクリと顔を跳ね上げると、すっかり着替えを済ませ、スーツの上着を小脇に挟み、ネクタイを整える仁志が見下ろしていた。


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