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一ヶ月の雇い月  作者: 千早 朔
第六章

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第二十五話


「……どうしたらわかってくれる」


 仁志が呟く。

 結月は呆れたと言わんばかりに、はぁ、と大きく息をついた。


「人の話し聞いてた? わかりたくもないんだって。惚れた腫れた好きだ嫌いだって、そういうのほんっと気持ち悪い」

「……逸見ならよかったのか」

「あの人はおれにそんな事言うほど、愚かじゃないよ」

「…………」


 仁志は暫くの沈黙の後、静かに立ち上がった。

 このまま部屋に帰るのだろう。なら、『最後の仕事』をしなくては。

 結月は秘めやかに覚悟を決めたが、仁志は扉へと向かうのではなく結月の前で立ち止まり、少し身を屈めたかと思うと、結月の背と膝に腕を差し入れ持ち上げた。

 衝撃に「わっ」と声をあげた結月にも視線を向けず、腕に抱えたまま、堅い表情で歩を進める。

 向かった先が寝室だと気付いた瞬間、結月の心臓が小さく跳ねた。

 それは、やっぱり身体だけでも欲しがる男だったのかという失望だったのか、たった一度だけでも重ねて貰えるという喜びだったのか、結月にもわからなかった。

 すっかり慣れてしまったふかりとした感触に、優しく背を落とされる。

 結月はただ真っ直ぐに仁志を見上げ、静かに囁いた。


「……抱きたいの?」

「……そうだな」


 仁志がベッドに乗り上げる。

 てっきり覆いかぶさってくるものだと思っていたら、仁志は結月の隣に横たわり、伸ばした掌で結月を自身の胸元に引き寄せた。

 閉じ込める腕は、大切な壊れ物を扱うかのように優しい。


「今日までは、契約期間なんだろう? ……仕事だと思って我慢しろ」


 言うと仁志は、静かに瞼を下ろす。

 結月が戸惑いにこっそりと見上げても、仁志はただ、穏やかな吐息を重ねるだけだった。

 伝わる体温があたたかい。胸奥からせり上がって来るのは、後悔と、未練と、幸福だ。

 瞳を叩く感情が零れ落ちてしまわないよう、結月は奥歯を噛んでグッと耐える。伸ばしたい指先は、自身の胸元で抱き込んだ。


 流れる静寂が永遠を思わせる中、不意に、仁志の腕に力が込められた。

 結月の髪に、彼が顔を埋める。


「……お前を、覚えていたい」


 夜に溶かされたのは切実な願い。

 結月は小さく微笑んで、ただ抱かれるまま、唇だけを動かした。


「……残念だけど、それは無理な相談だね」


***


 頭上から規則正しい寝息が届き始めた深夜、結月はそっと、自身を閉じ込める男の顔を見上げた。

 疲れていたのだろう。すっかり意識はここに無いというのに、その眉間に刻まれた皺を見つけて、つい口元を綻ばせた。


「……ホント、人の気も知らないで」


 彼はいい。想いのままに求める事が許されている人間だ。

 だが結月は違う。『夜』でしか生きられないし、何よりも彼に見合うような『綺麗な』身ではない。

 結月の好きな琥珀色の瞳は、すっかり隠されてしまっている。

 心残りがあるとすれば、もう一度その双眸を、真近で覗きこみたかった。そんな事を思いながら結月は控えめに彼の腕を解き、上体を起こして、その寝顔を刻みつけるように眺めた。


 どうか次は、なんの負い目もなく隣で笑っていられるような、『綺麗な』人を好いて欲しい。

 祈りながら結月は少しだけ考えて、「最後だから」とその頬にそっと、唇を寄せた。

『挨拶』と称したのだから、別れ際にはもって来いだろう。

 浮かんだ身勝手な言い訳に苦笑しながら躊躇う事無く彼の耳元に顔を寄せ、『対象』を合わせると、沢山の「好き」を込めて『魔法の言葉』を吹き込んだ。


「『さようなら』」


 これで彼は綺麗サッパリ、結月の『情報』を忘れる。

 戯れに抱いた感情も、薄れ、消えていくだろう。


(やっと、終わった)


 明確な理由を持たずに頬に伝った一筋の涙は、溢れ落ちる前に拭った。


 転がしていた鞄一つを掴み、鏡台に鎮座していたメイクポーチを適当に突っ込むと、リビングに戻って商売道具のノートパソコンも忘れずに押しこむ。

 それ以外の荷物の処分は逸見さんにお願いしよう。あの人なら、話も通じる。

 ともかく今は部屋を出るのが先決だと、結月は出来るだけ静かに扉を開け、リビングから持ち運んだ靴を履いて、そっと閉めた。


(さて、どーやって帰るかな)


 この時間ではバスはおろか、電車すら動いていない。近場のネットカフェで時間を潰すのもいいが、今はとにかく、早く一人になりたかった。

 タクシーで帰るか。エレベーターを待ちながら結論を出すと、カチャリと扉の開く音がした。

 ドキリと心臓が跳ね上がる。だが音は結月の来た方向とは、反対側から届いていた。


「っ、逸見さん!?」


 スーツではなくラフな服装の逸見は、深夜だというのにいつもの穏やかな笑みを浮かべると、「お送りします」と車のキーを掲げた。


***


 窓枠に肘をつき、指先に顎を乗せ、流れる街明かりを無感動に目端に捉える。

 逸見の持つ沈黙は穏やかだった。しかし程なくして、やんわりとした口調で尋ねてくる。


「お帰りには、少々お早いのでは?」


 クスクスと笑う逸見は、大方予想がついているのだろう。

 なんだかんだでやっぱり仁志の右腕なだけあると、結月は唇を不満に尖らせる。


「あの人の教育どうなってんの?」

「幼少期の頃から少々感情表現が苦手な節がありますが、優しい方ですよ」


 イマイチ話題が噛み合っていない。

 が、どうせ態とだろう。


「……優しすぎて野良の狼を飼い込もうとしてたんだけど。いや、飼うんならまだマシか。そいつを『パートナー』に据え置こうとすんだから、一層タチが悪い」

「互いに想い合っているのなら、よろしいのでは?」

「いいわけないだろ。片や血統書が無いどころか真っ黒だよ? 世間体的にも、社会的にもアウトなやつでしょ」

「以前より思っていましたが、結月さんは真面目な方ですねぇ」


 逸見があまりにものんびりした口調で言うので、結月は思わずガクリと項垂れた。


「いや、普通でしょ。……ま、これを機にしっかり再教育してあげてよ。こんなんじゃ悪い猫にコロッと騙されちゃうって。あの人が守るべきは、会社と華々しい未来だろ」

「一理ありますね」


 首肯した逸見はやはりクスクスと笑い、バックミラー越しに結月を見遣る。


「だからこそきっと、このまま大人しく手放してはくださらないと思いますよ?」


 まるでこの後の展開は読めているとでも言いたげに、逸見の双眸が意味深に和らぐ。

 仁志の右腕として支える立場にあるのなら、逸見は何よりも優先して、仁志の未来を守らなければならない筈だ。

 逸見が彼を裏切るとは思えない、が。


「……逸見さんは、あの人をどうしたいの?」


 戸惑いに揺れた問いに逸見はただ穏やかに笑んで、「私はただ、あの方の幸せを願っているだけです」と車を走らせた。


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