第八話:薄青色のリボン
いつもの見慣れた木目の天井を見上げ、深いため息を吐く。
あの後正午の鐘の音と共に、訓練場に戻って来たベリルによってまた私はこの小屋に戻ってきていた。
ベリルは、私の傍らで気持ちよく失神していたアゲイトを一瞥すると、何事も無かったかのように私を小屋に連れてきて出て行ったかと思うとすぐに昼食を持ってきてそのまま訓練に行ってしまった。
当然私は置いてけぼりだ。
あの時きちんとアゲイトに「参った」を言わせることが出来ればベリルを説き伏せてそのまま訓練に参加できたかもしれないのに。
だいたい「参った」も言わずに失神するなど言語道断だ。そんなに負けたくなかったのだろうか?
いや。そんなわけ無いな。あの時アゲイトは戦意喪失しているように見えたしいつでも「参った」という事が出来たはずだ。
しゃべれないほど苦しい技でもない。
ひょっとしてああいう絞め技は初めてだったのかもしれないな。あれは苦しくは無いが徐々に気が遠くなる技だから限界を見誤ったのかもしれない。
ふむ。次からは気をつけよう。
それにしても……
私は、先ほどの試合でのアゲイトを思い出していた。
たくましい腕。うらやましいほどの体力。力。スピード。
私も男に生まれてきたらああなる事が出来ただろうか?
もしあの試合で、私がアゲイトだったら相手の油断を誘ったり隙を突いたりなどしなくても、正攻法で勝てただろう。
思わず手を見る。棍をはじかれた時の衝撃でまだ手は赤く腫れていた。
もし、正面で受けていたら棍を叩き折られていた。いや、それどころかそのまま棍で一撃食らわされていた。
まともに当たれば骨折どころではないかもしれない。
「はぁ……」
思わずため息が出る。他の門下生には感じなかった感情。女だから適わない。などとは思いたくない。
私には此れしかないのだ。
料理も、掃除も、勉強も。他の才能なんて何も無い。
この子はお転婆だから―と、冗談半分に道場に入門させられたのは7歳の時。以来18年間ずっと道場に通い続けた。
中学になり、他の子がおしゃれに目覚め始めた時も、色つきリップよりもテーピングを買いに町の薬局に買い物に行った。
高校になり、恋人同士仲良く登下校するクラスメートの横を走って道場に通った。
卒業してからは、畑仕事と山の見回りの合間にトレーニングに励んだ。何になりたかったわけでもない。ただ、私にはこれしか無かったのだ。
だが二十歳を過ぎた頃から漠然とした不安があった。
帰郷するたびに都会染みて行く隼人を見る度、高校の同級生の結婚の噂を聞く度。その不安は大きくなっていった。
いつの間にかタバコを吸うようになっていた隼人。町で子供を抱いていた同級生。
門下生の中には自衛隊に入った者もいたし、警察官を目指している子もいた。
では、私は―――?
自衛官になる? お爺様を置いて?
じゃぁ誰か入り婿を取って結婚する? 家事もできないのに?
「……今更だ」
馬鹿げた事だ。今更何を迷っているのだろう。私は。
異世界まで来てしまったのに。お爺様を置いて―――。
騎士団。そこになら私の出来る事もあるのかもしれない。
硬い木製のベットに腰掛け、そのまま横たわり天井を睨む。
アゲイトがいくら恵まれた体をしているからと言っても私の戦法がまったく通じないというわけでは無い。
「次こそは」
ふと、視界が暗くなる。
そういえば今日は結構動いたしお腹もいっぱいで……
「ねむ……」
そのままゆっくりと意識を手放した。
最後にまぶたをよぎったのは、不敵な金色の眼だった。
目覚めた時、最初に見えたのは冷ややかな薄青い眼。
感情の読み取れない表情で私を覗き込んでいた。
「……はれ? ベリ……ル?」
今何時だろう?
室内を見回すとまだ薄明るかったが、あれから結構時間が経っている様だ。
ベリルがここに居ると言う事は訓練は終了したのだろうか。
「大丈夫か? 少しうなされて居た様だったが」
「そう……か?」
夢を見た記憶はない。が寝る前に少し欝になっていた記憶はある。そのせいかもしれないな。
頭が重い。こんな時間に寝てしまったからだ。
ゆっくりと起き上がろうとすると、ベリルが手を掴んで引き起こしてくれた。こんな時間に寝たせいなのか、それとも疲れているのか体が重い。
ふとテーブルを見るがそこに食事の用意は無い。
ベリルはいつもの小さな木の椅子に座ると、ゆっくりとこちらを見た。
「マイカ、少し訊ねたい事がある」
……いやな予感。
心当たりなんて一つしか思いつかない。
出来るだけ平静を装ってベリルを見返す。
「……お前、騎士団に入りたいのか?」
無言でおずおずと頷く。どうせ反対されるんだろうな……
ベリルは深いため息を吐いた。
長い沈黙。
……
……、……
……、……、……気まずい。
何か発言するべきだろうか?
足元の石畳のでこぼこをつま先でなぞる。
やがて、ベリルがぼそり、とため息混じりにこう発言した。
「……殿下からの伝言だ。明日正午前にお前の正式な面会を行う」
そういえば近いうちに面会するとかどうとかいう話があったな。
騎士団の事ですっかり頭の角に追いやられていた。
「その際翼竜騎士団への正式な手続きも行うそうだ」
「……は?」
え〜〜と、それって入団テストに合格したって事か?
やや不機嫌そうなベリルを前に素直に喜んで良いものかどうか、複雑だ。
「言っておくが俺は反対だ」
あ、やっぱり。
でもそれならせめて訓練だけでも参加させてもらえないかな?
ここから出ても良くなれば私がどこを出歩こうといいだろうし。
変装も覚えたし。
「そっか……うん。わかった」
騎士団に入れば衣食住の心配も無いだろうし私にはうってつけだと思ったのだが。
……やっぱり異世界でも私は半端なままなんだろうか。
不意に何かが頬を伝う感触。視界が滲む。
「マイカ?」
ま、不味い。これでは誤解される。
2、3度瞬いて涙を拭う。
「ベ、ベリルがそう言うなら、騎士団はあきらめる」
声は裏返ってないだろうか。
深呼吸して声の調子を整えた。
あーーー。びっくりした。
何で急に涙が?!
しゃくりあげそうになる胸を押さえてもう一度深呼吸。よし。大丈夫。
改めてベリルを見ると、めずらしく動揺した薄青い眼と視線がぶつかる。
めずらしく、というか初めて見た。そのまま少しの間、間抜けに見詰め合ってしまった。…なんだか気まずい。
やがて、ベリルはゆっくり立ち上がると何も言わずに外に出て行ってしまった。
まだ怒ってるのかな?
再びベットに横たわる。
何で涙なんて出たんだろ。おかげで恥ずかしいやら気まずいやらで散々だ。まぁいい。気を取り直して今後の身の振り方をさっさと決めてしまわなくては。
アゲイトとの面会が終わればここを出られる。だが、それは同時に自分の今後も決めなくてはならないということだ。
しばらくはベリルの家に厄介になるとしても何もしないわけには行かないだろう。帰る手立ても調べないといけないが、とりあえずは今何をすべきかだな。
私が出来そうな事って何だろう?
洗濯は……どうかな? 洗濯機は無いだろうから手洗いなんだろうな。それならなんとかなるかもしれない。あと、掃除、か。
細々とした事は苦手だが雑巾掛けくらいなら出来る。うん。
あとは……
何だろう? 水汲みとか?
それから……
……
ふと気づけば、部屋はすっかり暗くなっていた。
どうやらまた寝てしまったらしい。
テーブルの上には明かりの灯ったランプと食事が置かれていた。
が、そこにベリルの姿は無い。
起こしてくれれば良かったのに。
まだ怒ってるのか?
やはりきちんと謝って、もう一度騎士団をあきらめるた事を言うべきだろうか?
食事はやや冷めてしまっていたが、少しだけ暖かかった。ベリルが来たのはつい先ほどの様だ。
ふと見ると、トレイの横に小さな紙きれが置かれていた。
二つに折りたたまれたそれを広げると、それはベリルからの短い手紙だった。
明日、面会時間の少し前に迎えに来るので準備をしておく事。それと面会時には、この世界に来た時の衣装を着ける事。の二つが簡潔に書かれていた。最後にベリルの署名。
ベットの横の低い棚には、流鏑馬の装束がきちんとたたまれて置かれている。
この装束もベリルが繕ってくれたんだったな。
よく見れば装束の上には、曲がったまま部屋の角に立てかけておいたはずの模造刀が、きちんと鞘に納められて置かれていた。試しに抜いてみるがそれは窓から差し込む月光を受けて滑らかに反射した。
曲がったところも、刃こぼれも見られない上にきちんと研がれていて、真剣と障りない程だった。
直してくれたのか……
これは、少しは信頼してくれているという事なんだろうか。
その小太刀は模造刀とはいえ、お爺様が鋼で作ったもので、刃引きがしてある以外は真刀と同様であったから、研いであればそれは立派な刀と言えた。
もしかして、もう怒ってはいないのかも知れないな。
よく見ると刀の他にももう一つ。見慣れない紐のようなものが追加されていた。手にとって見るとそれは薄青色のリボンだった。
そういえば、怪我が治り始めた頃、髪が邪魔になるから何か髪を束ねる紐のようなものがほしいと要求したことがあった。ベリルは少し迷惑そうな顔をしていたが覚えていてくれたのかもしれない。
衣装の羽織が紺色なので、薄青いリボンはちょっとしたアクセントになって良いように見える。衣装がしわにならない様に、リボンと刀を戻すとまずは食事を済ませることにした。
メニューはいつもの硬いパンと雑穀のスープ。それに羊らしき肉を香草をつけて焼いたものと挽肉のパイが添えられていた。
一人で夕食を食べるのはこの世界に来て初めてかもしれない。いつもはこのテーブルを挟んで、向かいにベリルが居た。
ベリルがここで食事を取る事はめったに無いが、食べ終わるまでぽつぽつと雑談をして食べ終わるとトレイを持って帰る。それが日課になっていた。
一人で食べる夕食。
ベットで横になっているときより静寂が気になるが、不快なものではなかった。
ふと思い立って先ほどのリボンをトレイの奥に置いてみる。なんとなくそこにベリルの視線があるような気がして、知らず笑みがこぼれた。
翌朝、日課のトレーニングを終了して顔を洗っているとベリルが朝食を持ってやってきた。
いつもと変わらない朝。
なんとなく気まずかったが、ベリルが普段通りだったのでほっとした。怒っている様子は無いように見える。
謝ろうと思っていたが、昨日のことを蒸し返すようで気が引けた。
そうこうしているうちに、ベリルは迎えに来るまでに支度しておくように、とだけ言い残してトレイを下げて出て行ってしまった。
まぁいい。迎えに来た時にきちんと謝ろう。
一応正式な場らしいので、台所で水を汲んできて簡単に体を拭くと、久しぶりに流鏑馬の装束を身に纏う。
これを最後に着たのが、随分前のことのように思える。
外はすっかり初夏の陽気で、この衣装では少々汗ばむが仕方ない。少しだけ襟をゆるくしてせめて風通しを良くしておこう。
運動したら着崩れるかもしれないが、少し走るくらいまでなら問題ないだろう。
左肩と右脇のやぶれた箇所は着てみても目立たなくなっていた。
脛宛と草鞋を履いたところで、扉をノックする音が聞こえた。程なくしてベリルが姿を見せる。
何時もの動きやすそうな服と違い、裾の長い刺繍を施した白っぽい服を身に着けていた。
「すまん。まだ少しかかりそうなんだ」
と、言ってもあとは髪を結って篭手を付けるだけだが。
「いや、少し早めに来たから時間は大丈夫だ」
そう言ってまじまじとこちらを見る。
たしか、ベリルはこの衣装をつけた私を拾ったのだからこの姿を見るのは2度目のはずだが。そんなに奇怪に映るのだろうか?
まぁいい。
さて、髪はどうまとめようかな。若武者風に高い位置で括るのが良いだろうが……高い位置で括る時は人にやってもらっていたので自分でやるのは初めてだ。
簡単に手で掴んで纏めた後、櫛で梳かして整える……が、片手を櫛に持ち替えた途端崩れてしまう。もう一度、今度は櫛を手にしたまま髪を掴むが、やはり上手くいかない。
あきらめて下で簡単に纏めるべきか?
「貸せ」
四苦八苦していると、ベリルがいつのまにか背後に回っていた。
私の手からするりと櫛を奪うと、器用に纏めてくれた。
こちらの世界の男は髪をいじるのが得意なんだろうか? などと、どうでもいい事を考える。
「ありがとう」
棚の上の小さな手鏡で出来栄えを確認する。正面からでは分かりづらいが、少し横を向くと頭の上でひらひらと薄青色のリボンが揺れた。
思わず笑みがこぼれる。
少し迷ったが、せっかく直してくれた刀を腰に差し、鉄扇を挟むと、準備は整った。が、その前にきちんと謝らなくては。
「よし。では行くぞ」
背を向けて出て行こうとしたベリルの服のすそを掴んで引き止める。
「なんだ?」
怪訝そうに振り返る。
「その、きちんと謝っておこうと思って」
ベリルの眉間にしわが寄る。
「昨日の事だ。勝手に入団テストを受けた事とか……」
「その事ならもういい」
小さなため息と共にそっけなくベリルが言う。
「良くない! ……だって、怒ってるだろう? 」
「……怒ってなど居ない」
嘘だ。明らかに声が不満そうだ。
「昨日も言ったと思うが私は騎士に入るのは、諦めた」
ベリルの眼を見てきちんとそう宣言する。
「……マイカ。その事はもういいんだ。お前が騎士団に入りたいというのなら入ればいい」
やはり無表情のままで素っ気無くベリルが言った。
昨日は反対していたのに。何故?
嬉しいと言うよりも胸が痛い。私はベリルに見放されたのだろうか?
思えば、ベリルにとって私は怪我をしていたのを拾ってきた。ただそれだけの仲だ。血縁でも知り合いでもない。まして異世界人の私など厄介ごとでしかないはずだ。
「……そう」
私にとってベリルは恩人であり、ある種肉親のように思っていた節がある。この世界に迷い込んで最初に出会った人物。以来、ずっと世話になっている、唯一心から信頼できる人。
こっそり街に出た時も、怒られるのが怖いのではなく嫌われるのが怖かった。
行くところがないなら面倒見てやる。といわれた時は本当にうれしかった。なのに、図に乗って怒らせてしまった。街に出た時でさえ怒られはせず、逆に心配してくれたのに。
きっともう愛想を尽かされてしまったんだ。がっくりとうなだれた頭上から、呆れたような声が降ってきた。
「言っておくが愛想を尽かした、とか怒っているという訳じゃないぞ」
はっと顔を上げると、少し呆れたようなベリルの顔が見えた。
「お前がやりたいと言うのならばやってみれば良い。俺が反対していたのはお前は治療を始めとするいかなる回復魔法をも受けつかない体質だからだ。騎士団にはいるという事は実践も兼ねる事になる。当然怪我も多くなる」
一旦言葉を区切ると、今度は私を覗き込むように視線を合わせてきた。
「……この小屋や俺の屋敷に居れば知る必要の無い事や知らない方が良い事も知る時が来るだろう。その時お前がどんな選択をしても俺はお前を見捨てたりはしない」
そっか。魔法が当たり前のこの世界では私が異質だったんだよな。
ベリルは私のことを心配して反対してくれていたんだ。
ふと、ベリルは意地悪そうな顔をした。
「大体、たとえ屋敷に閉じ込めたところでまた抜け出しそうだからな。お前は。ならば最初から目の届くところに居てくれた方が良い」
そう言ってわずかに微笑んだ。
つられて私も微笑った。
「じゃ、行くぞ。そろそろ時間だ」
ベリルがそっと手を差し出す。
私はその手をとってベリルの後に続いた。