第二十五話:襲撃3
走り出した瞬間、やっぱり鐙を調節するべきだったかもしれないと少しだけ後悔した。
足をまっすぐに突っ張らせて前のめりに。手綱は短く。足の踏ん張りが利かないので振り落とされないように上半身でバランスをとるが、曲がり角に差し掛かるたび、エルペタの首にもたれかかるようにしてなんとか振り落とされないようにするのが精一杯。
幸いな事に、このエルペタはよく調教されているらしく、私の拙い手綱捌きでも私の意図をよく理解してくれ、ベリルのあとをしっかり付いて行ってくれる。むしろ、私などただ乗っかっているだけの荷持としか思われていないのかもしれない。
時々ベリルがちらちらと私を気にして振り返る。振り返る余裕があるということはこれでも全速力ではないのだろう。
私はと言えば鐙を踏み外さない事と、振り落とされない事で精一杯だ。エルペタの背が跳ねる度にじりじりとつま先が鐙から少しずつずれていくのが分かる。長くは持たないな。到着するのが先か、私が振り落とされるのが先か。
大通りに出て、遠くに大門が見える。避難が終了していて良かった。道に、ゴミや荷台などが放置されているが障害になるようなものは無い。その閑散とした通りを一気に駆け抜ける。
ベリルとの距離は30メートル位だろうか。直線になってようやく少しだけ余裕が出てきた。その先に目をやると、大門は堅く閉じられ門番が立っているのだが、こちらに気付いたのかやや身構えた姿勢。と、ベリルが右手を掲げた。光を放ち姿を現す龍杖。
それを見た門番が慌てて敬礼し、門の開錠にかかる。ベリルはそのまま、速度を落とす事無く門へとエルペタを走らせた。負けじと私も手綱でエルペタの首を打ち加速を促す。
僅かに開いた門の隙間をすり抜けるようにベリルがエルペタを走らせ、やや遅れて私もそれに続く。
門から十数メートルほど離れた所で減速し、ベリルのエルペタが止まった。私もそれに習い、その隣にエルペタを止めようと半ば仰け反るようにして手綱を引き、踵でエルペタの腹を絞める。この、乱暴な指示に驚いたのか減速して止まるはずが、ほぼ減速しない状態でエルペタが急停止。おまけに相当膝に負担が掛かっていた様で、踏ん張りきれずに鐙を踏み外しエルペタの背からずり落ちそうになった。
一瞬早く、肩を支えられ振り落とされることは無かったが尻を鞍に打ち付けてしまった。
「大丈夫か?」
いつの間に私の真横に回ったのか、ベリルが心配そうに私を見た。
「大丈夫だ」
慌てて鐙を踏みなおし、体勢を立て直す。尻を打ったの……見られたかな。
刹那轟く獣の咆哮。
見ると、森と荒野の境目辺りから真っ黒で巨大な化け物が、追い立てられるように疾走してきた。それは、あの夜に見たあの化け物よりも2回りほど大きく見える。日の光を反射するのではなく、吸収しているかのようにそこだけ黒く淀んで見えるような禍々しい黒。大きく開かれた口だけが血塗られたかのように赤い。
その巨体がまっすぐにこちらに向かって来る!
回避しようと手綱を握ったその時、視界を遮ったのは純白の人影。その手には龍杖。
「……近づけさせません。『退けっ!』」
その化け物を追い払うかのように龍杖を一閃。その軌道をなぞり地から幾本もの氷柱が生えた。
化け物は行く手を遮られ、再び咆哮を発し進路を変える。
氷の粒がきらきらと陽光を反射して降り注ぐ。その光の中にベリルが居た。化け物を威嚇するように睨み付けている。その姿を覆い隠すかの様に大きな影が過ぎる。上空で鳥とは違う何かが羽ばたく音。
見上げると青空を黒く切り抜いたような竜の姿。いつもは遠くに見えるそれがやけに近い。
「マイカ!」
手綱を引き寄せられ、エルペタが2,3歩移動する。翼竜は私達の上を通過すると、小さく旋回して降下。そのまま一気に逃げた竜化へと向かう。黄土色の大きな翼竜――アゲイトか?!
一瞬立ち止まる黒い影。その影に迫る翼竜の影。地面すれすれまで下降し交差して、再び上空へ。その動きは猛禽類の狩りに似ていた。ただし、一気に獲物を仕留めるのではなく、十分に弱らせてから止めを刺すような……。
何か仕留められない理由があるのか、それともタイミングを計っているのかここからでは分かりにくい。竜が上空に飛び立ったのを見計らって再び逃げ場を求めて疾走する黒い影。
ふと、生暖かい追い風が頬を撫でた。化け物が怯えた様な声をあげる。上空の竜は空中で2,3度羽ばたいて狙いを定め、一気に下降する。その背に赤い光を纏いながら――
氷柱の向こうにおぼろげな影が動いているのが見える。もっとよく見ようと前のめりになるが、肩をつかまれそれ以上近づけない。疾走する黒い影とそれを追いかける黄土色の影。もう少しで追いつく――。と、再び強く肩を引かれた。
「うわっ……」
「冷徹なる竜レティスよ――……!!」
耳元でベリルの詠唱が聞こえたが、それは直ぐに爆音にかき消された。竜化に向けて放たれたのであろうそれは、一瞬にしてその黒い影を飲み込み、あふれた真紅の塊がこちらに向かってくるのが見えた。
危なっーーー……あれ? 何ともない?
おそるおそる顔を上げると、ガラスの様な何かが日の光を反射して輝いていた。
辺りを見ると、私とベリルを中心にドームの様な形で巨大な氷の柱が乱立して取り囲んでいる。その頂上からは僅かに空が見えた。
ベリルがかざした竜杖をその氷柱の一角に一閃させると、そこだけ鋭い刃物で切ったように崩れ落ちた。途端、そこから熱風と冷気の入り混じった風が入ってきた。
氷柱の外側の土は黒く焼けていて、所々煙が燻っている。外に出ようとした私をベリルが止めた。
「まだ外には出るな」
出るなって言われても急いで……と思ったが、まだじりじりと音を立てる焼け焦げた地面を見て大人しくそれに従うことにした。
不意に日が陰る。空を見ると巨大な影。それがゆっくり旋回して降りてきた。
翼竜は焼けた砂利を巻き上げながら私達の近くに着地した。ベリルに注意されて深く被っていたベールのおかげで砂埃が目に入るのだけは避けられたが、脛に少々大きめの砂利が当たる。手でスカートに付着した埃や砂利を払うと、煤けた砂利がスカートに細かい傷のような汚れを付けて落ちた。
あ、洗えば落ちるかな? 手を見るとこちらも黒くなっている。むむ。
ドレスを着ているのでなければこんな物気にはならないのに。やはりこの格好は戦闘には不向きだ。二度と着ないぞ。
「おう! そろそろ来るんじゃ無いかと思ってたが……何でこいつも居るんだ?」
その低い声はやや不満そうに頭上から投げかけられた。
「居て悪かったな! お前が置いていくから追いかけてきたんじゃないか!」
アゲイトに聞こえるように大声で怒鳴り返す。金色の目が愉快そうに細められた。
「そうかそうか! 俺と離れて寂しかったか」
「寝言は寝てから言えと言ってるだろう!」
まったく。いつでも何処でも軽口が叩けるとは能天気な奴だ。だが、少しだけ安心した。
一瞬、あの竜に乗っているのは別の誰かなんじゃないかと思ったから。
私達の上を過ぎって竜化を追いかけるまでの間のあの竜の動きが、まるでゲームでも楽しんでいるかの様に見えた。私とベリルという観客の前で余裕たっぷりに、見せ付けるように、竜化を殺した。
いや、考えすぎだ。あれは私達という予定外の障害に逃げた竜化を追っただけに過ぎない。それなのにそんな風に見えてしまったのはアゲイトの使った魔法が強力すぎたからだ。竜化1匹を殺すだけにしてはあまりにも過ぎる力。
「それよりも殿下、私が来ると思ったということは何が起きているのか把握していると?」
ベリルが一歩進み出てアゲイトをやや睨みつけるように見た。
「上空から森の一部が焼けているのが見えた。ここんとこ雨も降ってなかったからな。燃えるのが早い」
言われてみればたしかにこちらに来てから雨が降ったのは数えるくらいだ。
「じゃぁ、早く消火しないと!」
「まぁ、待て。いくらこいつでもそう直ぐに、はいそうですか。って消せるわけ無いだろ。あんまり無理させんな」
こいつ、と言いながらベリルを指す。
ぐっ。確かに私が消せるわけではないので気ははやる物の無理を通すわけには行かない。
ちらりとベリルを見ると、ちょっとむっとした表情で、「私は大丈夫です」と言った。が、こいつの大丈夫はあてにならないからな。
と、エルペタの鉤爪の音(馬とは違って地面を引っかくような音だ)がして見ると、森の一角から数頭のエルペタに乗った騎士が現れた。先頭は隊長のようだ。
「お、来たな」
何時もよりやや不揃いな隊列。さすがに灼熱の地面を走らせるのに手こずっているのか、嫌がるエルペタを宥めながらアゲイトの前に集合した。
さすが隊長と言うべきだろう。彼のエルペタだけは嫌がる素振りもなく、きちんと静止した。熱くないのかな?
「殿下。襲撃してきた竜化は以上の様です」
報告しながらも隊長の頭がひょこひょこと上下している。やはり熱いのか、隊長の騎乗しているエルペタはその場で右、左、右と足を上げゆっくり足踏みしていた。その動きに合わせて隊長の頭も上下する。
「ご苦労。んじゃ、次は……」
言いかけたアゲイトの言葉を遮って、ベリルが発言した。
「難民の避難を。彼等をこちらへ誘導させて下さい。スティーブは私と共に森へ」
「……だ、そうだ」
ため息を吐き、騎士達に目配せする。
丁度そのとき、空が翳った。また翼竜が過ぎったのかと思ったがそうではなかった。にわかに立ち込めた暗雲が太陽を遮り、分厚く空を覆う。
自然に出来たものだとしたら随分タイミングが良すぎる。ベリルの仕業だろうか? 尋ねてみたかったが、ゆっくり講釈を聞いている空気でも無さそうなので、こっそり今のうちに鐙を調節しておこう。
鐙のベルト穴を3つほど短くしてみる。う〜〜ん、こんなもんかな。もう少し短くても良さそうだが短くしすぎると逆に鞍から跳ね飛ばされそうな気がする。
そうこうしている間にベリルが竜杖を両手で掲げ、高く、低く、歌うように詠唱していた。ぽつりぽつりと大粒の雨が地面に丸い染みを作ったかと思うと、それはすぐに本格的な大雨になった。焼けた地面から落ちた雨粒が蒸発して濃い霧が発生したような感じになったが、すぐに吹いた風で一掃された。
「急ぎましょう。殿下は上空から彼等を指示してください。マイカは私の傍を離れないように」
「分かってる」
そういう約束だからな。難民の事が気になるが森で何が起きているのかも重要だ。ただの火災ならば良いのだが……。
私とベリルと隊長の3人は森へ。残りの騎士は城壁沿いに難民の下へと急いだ。森へ入る前に一度だけ振り返るとアゲイトが離陸するのが見えた。
森は、鬱蒼と木が生い茂っていてその所為なのか茂みや雑草は所々、木々の合間から漏れる光の当たる場所にだけ生い茂っていた。町の人もよく森に入るのか、獣道のように踏み固められた道が幾つかあるおかげで落ち葉の吹き溜まりにはまる様な事は無いが、雨で足場が滑りやすくなっている。
に、しても大きな木だ。樹齢100年は越していそうな大木が幾本も見られる。植林とかはしていないようだから原生林なのだろうな、やっぱ。見事なものだ。そうか、日本だと家屋は木で作られるから植林も伐採も盛んだがこちらでは石やレンガで家が作られているから植林は盛んではないのかもしれない。それでも所々に切り株があるからこれは燃料として伐採されたんだろうな。
こんな時に何だが、こちらの世界での林業ってどうなってるんだろ? これだけ見事な森ならばやっぱり国が管理してるんだろうか。
きょろきょろと辺りを見回しながら二人に続く。さきほどから小鳥の鳴き声がちっとも聞こえない。火が出ているのだから当たり前なのかもしれないが……。
ふと鼻先を掠める木の焼ける匂い。目を凝らすと行く先の木々の合間には白煙が立ち込めているのが見える。あの先が火災現場なのだろう。
「スティーブ! 雷を!」
へ? 雷? 何の事か分からないが、ベリルがそう言うと隊長が小さく頷いてエルペタを走らせる。腰に刷いた剣に手を掛けた。
「『雷刃』」
呪文のような掛け声と共に鞘から放たれた刃は閃光を纏い、斬撃は雷となって木々をなぎ倒した。
空気が雷気をはらんで頬や手に軽い静電気のようなぴりぴりとした刺激が走る。
す……すごい……。あれ? でもたしか魔法には呪文と相掌が必要だって言ってた気がするんだが。隊長の手にした剣は時折青白い雷光を瞬かせている。もしかしてあれって竜杖みたいな感じのアイテムなんだろうか?
木々がなぎ倒された事により、風の通り道が出来た。白煙が風に流され、視界が開ける。
そこは木が他と比べると妙に少なく、火事で焼けたのかと思ったがまだ燻っている木々の残骸からしてそうではないと知れる。巨木のみを残し間引いたような印象。
注意して見ると、焼け跡には石を積んであったり穴が掘られていたり、さらには板や布などの燃えカスが残っていた。ここで人が生活していたのだろう。そう思って見るとあちこちにそれらしき残骸が見える。
煙が凄くて途切れ途切れにしか見えないがこの辺り一帯そんな感じなのだろう。パチパチと火のはぜる音と木や生ごみが焼ける臭い。
「マイカ。貴女はここで待機していてください」
ベリルはそう言うと隊長と共に辺りを探索し始めた。私も……と続こうとしたのだが、情けないことにこの場所で実際に人々が生活していたのだと思うとあまりに生々しくてすっかり怖気づいてしまっていた。尤もそれに気付いたのはベリル達が竜を進めて、それに続こうとした時初めて自分の手が震えている事に気付いてからだったが。
前も似たような状況だったのに、何を今更怖気づいているのだろう。でも、あの時はただ夢中で馬を走らせて……そうだ! ここに住んでいた人達はちゃんと避難したのだろうか? まさか逃げ遅れて瓦礫に埋まってるなんて事……
自分の思いつきにはっとして辺りをもう一度注意深く見、耳を澄ます。うめき声や助けを呼ぶ声は今のところ、聞こえては来ない。
待機していろなどと言われたことも忘れ、注意深く竜を進める。一歩ずつ足を進めるたび降り積もった煤や灰がさくさくと音を立てた。
どれくらい進んだのかは分からない。注意深く辺りを見ながら進んだからそんなには進んでいないのかもしれない。が、進むに連れどんどんと気分が悪くなってきた。
此処に来るまでに、おそらくは煙に巻かれたのだろう動物の死体を数体見つけた。幸い人間の死体はまだ見つからないが、この先に進めば出てくるかもしれない。それが、理由も無く恐ろしかった。
何であの場で待機していなかったのだろう。こんな状況なのだから死体があるかもしれないという事も予測できたはずなのに。私の怯えが竜にも伝わるのだろう。時折ちらちらとこちらを見てくる。
「大丈夫だよ。たぶん……大丈夫」
自分に言い聞かせるように何度もそうつぶやく。死体だったら何度か見たことはあるはずだ。車にひかれた猫の死体。特に雨の後などはカエルや蛇がよく車にひかれて道路で内臓をぶちまけていた。田舎ならばよく見慣れたはずの光景だ。
なのにそれがこの状況で何がこんなに怖いのか。人間の死体だって葬式の時に見てるじゃないか。
そう自分を叱咤しても、吐き気と言い様の無い恐怖が拭えるはずもなかった。それは多分、つい先ほどまで生きていた物が死んでいるという生々しい現状と、ぱちぱちと火のはぜる音と雨の音以外には生を感じさせる音が自分の鼓動と竜の足音以外には無いからだろう。
虫の音も鳥のさえずりも無い死の世界。白煙と雨の降りしきるこの場所だけ世界から隔離されたような錯覚にとらわれそうになる。
「誰か、居ないのか?」
すっかり怯えてしまって、独り言の様に小さく呼びかける。当然、返事は無い。竜が私を責める様に振り返った。
「そうだな。私が悪かった。元の場所に戻ろう」
言葉がわかるわけでは無いだろうが、そう返事をしてもと来た方向へと反転する。
竜も私も戻ると決めたことで、やや気を取り直したように思える。ほっとしつつも、自分の意気地の無さや役の立たなさに情けなくなる。ベリルや隊長は平気なんだろうか?
そうか、ベリルが私を置いて行ったのは私の意気地の無さを薄々感じ取っていたからかもしれない。大体、いつだってベリルに迷惑かけっぱなしの私が何かできるなどとおこがましかったんだ。
俯いて竜の首の辺りを見ながら自己嫌悪に落ちいっていると、かすかに人のうめき声のような物が聞こえた。
辺りを見回し、耳を澄ます。空耳か? そう思いかけたとき、もう一度今度ははっきりと聞こえた。男性の声だ。
「あっちか?」
大体の見当を付けて竜を向かわせ、注意深く見る。瓦礫の下、木陰、倒れた木の辺り――居た! 倒れた木の下に人影が見える。
その男性は年のころ四十くらいだろうか? 労働者らしい筋肉の付き方だったが、痩せて首の筋や頬骨がはっきり見えるほどだった。
「大丈夫か?!」
竜から降りて駆け寄る。男性は煙でのどがやられているのか体力が尽き掛けているのか、低いうめき声をあげながら地面を掻いていた。どれだけの時間あがいていたのか、その辺りだけ地面がかきむしられ穴の様になっている。
木をどかそうと力いっぱい押してみるがびくともしない。そうだ、竜に引かせて木をどかそう。何かロープになる様な物を探して……
「待ってろ、今助ける」
手綱を外し、鞍に結びつける。それから剣帯と下げ緒も解いてつなげたが、まだ足りない。仕方がないのでドレスの裾を切り裂いて繋げ、地面との隙間から手を伸ばし、木に結びつける。
「もう少しだからな」
竜の引っ張る方向とは逆側に周り、刀を地面と木の隙間につきたて、てこの原理を応用して持ち上げる。みしみしと音がして、動きそうな気配。
「もう一度」
竜が引っ張るタイミングに合わせて力いっぱい押す。何度か繰り返してようやく男性の腰の辺りまで木が動いた。
男性の脇に手をくぐらせ、木の下から引きずり出す。
「しっかりしろ、大丈夫か?」
目だった外傷は無い様に見えるが木の下敷きになっていたのだから内臓が圧迫されて下手したら破裂しているかもしれない。動かすのは危険かもしれないし……でもこうしているうちにも男性の顔色はますます悪くなり、脂汗がぎっしりと浮いている。
「ベリル! ベリル! 居ないのか?!」
声が届けばいい。だが、何度叫んでも返事は無い。……私に、魔法が使えたらよかったのに。
「ベリルーーーー……っ!!」
泣いてる……場合じゃない。自分で、何とかしなくては。
ひとしきり叫んで泣いたら、少しだけ頭が冷えた。街まで移動すれば……でも、この人は動かせない。私だけ街へ行って救援を呼んだところでまたこの場所へ戻ってくることは難しい。
「お前、街まで……戻れるよな」
鞍に結びつけた手綱を解いてそう話しかけると、竜は静にこちらを見返した。
「そら、街まで戻って……出来れば人を呼んできて欲しい。出来るよな?」
出来なくてもいい。街まで戻ってくれれば。もし、それを街の近衛兵。できれば騎士団の誰かに見つけてもらえれば、竜が単身戻ってきた事で何かあったと気付いてくれるはずだ。
「行けっ!」
掛け声と共に迷わず山を下る竜の後姿を少しだけ見送った後、男性を雨の当たらない場所まで移動させる。なるべく動かさないように慎重に。
雨は体温の低下と体力を奪う。救助が来るまでほんの僅かでもそれを引き伸ばさなくては。
「大丈夫だぞ、直ぐに救助が来るからな。うちの騎士団は優秀なんだ」
男性に聞こえているかどうか定かではないが、とにかく話しかけ続けた。
「私以外は皆、魔法も使えるし。団長は普段は頼りにならないんだが、多分大丈夫だ」
降り続ける雨。街や、ベリル達は今何をしているだろう。助けに来てくれるかな? いや、もしかしたら皆手一杯なのかもしれない。
「大丈夫、だよ……。うん。だいじょうぶ……」
男性の息はどんどん浅くなっていく。雨は小降りになってきたが、霧が出てきて視界は悪くなる一方だ。
「しっかりしろ! 今助けが来るからな、な!」
どうしよう、この人は死んでしまうかもしれない。何か、何かできることは無いだろうか。ポケットを漁ると、ハンカチと香水の小瓶が出てきた。こんなもの。他に、何か無いのか?!
だが、いくら探した所で私が持っているものなど小太刀が一振り、それに香水の小瓶とハンカチ。破れたドレス、過剰な装飾品。
「誰か、誰か居ないのか?! 誰かっ!」
もし、近くまでベリルとか救助の人が来ていてくれたら、と立ち上がりかけたその時、かすかに気配がした。
「ベリルか?!」
気配のした方向に注意する。確かに足音が聞こえる。
「こっちだ! 怪我人がいるんだ。助けてくれ!」
私はその時すっかり舞い上がってしまって、その足音が一対しか聞こえない事も、ベリルや隊長以外の誰かがここにいる可能性も何もかも吹き飛んでしまっていた。
現れた人物は、町で見かけたときと同じ軽装に身を包み、相変わらず悪趣味で派手な柄の布を頭に巻きつけていた。
「よぉ。残念だったな、ご期待の人物じゃなくてよ」
「……なっ」
咄嗟に小太刀を掴み、構える。
彼は、うっとおしそうに雨に濡れた薄紫の髪を掻きあげた。
「困ってんなら、助けてやろうか?」
群青の右目が見下すように私の背後を見た。
この男、この男がこの件に関与しているだろう事は間違いないのに、私にその申し出を拒否することは出来なかった。