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竜の棲む国  作者: 佐倉櫻
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第十話:晩餐会

 私は、アゲイトにキスされていた。

 キスというより噛み付かれている気分だ。その両腕は、獲物を捕らえた肉食獣の様に私を捉えて離さず、力いっぱい押し返しているのだがさっぱり離れる気配は無い。

 両腕は私の体と共にアゲイトの両腕にしっかりと抱きかかえられていて動かす事もできない。

 情けない。唯一自由になる足で脛を蹴ってみても、効果は無いようだ。尤も爪先立ちのこの体勢ではたいした威力も無いだろうが。私が力いっぱい抵抗したところでこの体格差では無理なのかもしれない。

 そうこうしている間にも、アゲイトはキスを止めない。口を割って進入してきた舌が口の中を蹂躙する。苦しい。息が出来なくて苦しい。頭がくらくらする。

 どれくらいそうしていたのか、ふと抱えられていた両腕が緩み、かかとが地面に着く。それと同時に、ゆっくりとアゲイトの顔が離れた。アゲイトの顔は微かに上気し、両目も熱っぽく潤んで見える。

 私は、それまでの息苦しさに肩を上下させながらそれを見上げた。

 アゲイトの右手が頬に触れ、その親指がゆっくりと私の唇を拭った。そしてそっと、触れるか触れないか位にやさしく両腕を背中に回し、耳元でささやいた。

「……噛み付いて来るかと思ったが」

 そのまま首筋にそっと唇が触れる。

 見上げた体勢のまま、その眼前に広がるのは深い藍色の夜空と輝く二つの月。訳もわからず衝動的にアゲイトを突き飛ばす。

 完全に油断していたのだろうが、それはこちらも同じだ。半歩よろけて後退したアゲイトは驚いたような顔をしてた。私はひどく間抜けな顔をしていただろう。

 とっさに片手で顔を覆い翻ると。そのまま全速力で駆け出していた。

 背後からアゲイトの声がした気がするが無視した。




 夢中で、とにかくその場から離れたくて必死に走った。

 何処まで走ったのかさっぱり分からないが、足がもつれて転びそうになってようやく立ち止まる。

 膝に手をつき、ぜえぜえと息を吐く。そっと振り向いてみるが、追いかけてくる気配は無い。よかった。さすがにこれ以上は走れない。

 ふと水音に気付いてそちらに目をやると近くに噴水が見えた。ふらふらとおぼつかない足取りで噴水の傍まで歩く。

 私は混乱していた。とにかく混乱していた。

 落ち着かなくては。

 噴水の水をすくって顔を洗う。冷たくて気持ちがいい。水滴を袖で拭って噴水の縁に座り込む。

 なんだったんだ。あれは。訳がわからない。

 夜気が頬に心地よい。きっと顔が赤いのだろう。まだ酔いが醒めていないのかもしれない。動悸も激しい。これは全速力で走ったからだ。胸が苦しい。というか痛い。……全力で走りすぎたのか?

 何でこんなに動揺してるんだ? 動揺してるのか?! 私は。何故?!

 分からない。分からない事だらけだ。頭を抱え込もうとして、両手が小刻みに震えているのに気付いた。

 あーーー! もう! 訳分からん! 両手で頭を掻き毟る。

 おまけに胃がムカムカする……吐きそうだ。

 そうか。私はまだ酔ってるんだな。ならば早いとこ寝てしまおう。

 寝て目が覚めればすっきりするに違いない。実際私は酔うとよく酔った時の記憶が飛ぶ。寝てしまえばこの記憶も混乱も消えてしまうだろう。よし。

 と、そこまで考えて小屋までの道がわからない事に気がつく。というか、此処は何処だ?

 噴水と、数本の樹木。近くに建物はあるが明かりは灯っていない。

 月明かりだけがこの庭を照らし足元に薄い影を作っている。聞こえてくるのは噴水の水音だけ。

 滝や川のせせらぎ、噴水の水音などには人の心を落ち着かせるヒーリング効果があると言う。その効果があったのか、さっきまであんなに熱かった頬が急激に冷めて行く。

 いや、違うな。

 認めたくない。認めたくないが……どうやら迷子になったらしい。

 さっきは夢中で走ってきて、ふらふらと噴水までたどり着いたが、どの方向から走ってきたのかさっぱり覚えていない。

 こういう時は、そう。まずは状況を把握する事だ。

 此処は城内だ。間違いない。ならば城内から外れる事がなければ、いつかはたどり着くはずだ。うむ。

 そして、目的地の特徴を思い出す。

 明かりの灯った騒がしい広間。その明かりは外からも確認できた。という事は野外から明かりの確認できる部屋を覗いて回れば、そのうち広間にたどり着くだろう。

 まったく自慢にならないが私は迷子の経験だけは豊富だ。

 幼い頃から、遠足でも、社会見学でも、肝試しでも、入学したばかりの頃は中学校や高校の校内ですら迷子になっていた。忌々しい事に、この世界に迷い込んだのも迷子になったのがきっかけだ。

 幼い頃……というか、元の世界に居た頃は迷子になっても、最終的にはほとんど必ず隼人が見つけ出してくれていたが、今は、当然だがここに隼人がくることは無い。

 だが、まぁいい機会だ。そろそろ自力で迷子から脱出できなくては。

 空には輝く二つの月。

 見上げると余計な事まで思い出しかけたので、あわてて頭を振ってその記憶を追い出す。また混乱するのは御免だ。

 私は月に背を向けて噴水を後にした。













 先ほどの広間は、この建物の中にあったのだからこの建物沿いに歩けばたどり着けるはず……だったのだが。

 おかしい。

 明かりの灯った部屋どころか人の気配すら感じない。

 回廊をよぎった方が近道かもしれないと、あちこち移動してみたが誰ともすれ違わない。まずいな。ベリルに何も言わずに抜けてしまったが、そろそろ居ない事に気付いているころかもしれない。

 こうなったら誰かに道を尋ねたほうが早い気がしてきた。いきなり自力で迷子から脱出するのは無理があったか。

 きょろきょろとあたりを見回すが人の気配は……

 視界の端にすっと、動く影を捉える。いた。やっと見つけた人影にほっとする。

「あ、あの! すみません! 道を尋ねたいんだが」

 人影の過ぎった方向に声を掛ける。が、返事は無い。

 見間違いか? 確かにこの柱の影に見たと思うのだが。柱の裏に回りこむとやはり人が居た。

 その人物は柱の影に隠れるようにそこに立っていた。

「……道を尋ねたいんだが」

 改めて声を掛けると、その人物はやや驚いたようだった。

 陰になっていてよくわからないが、身長や体格からして男だろう。

「それ、俺に言ってる?」

 妙な事を言う。それとなく見回すが他に人影は無い。

「他に人が居るようには見えないが」

 男はやれやれ、といった感でため息を吐くと影から出てきた。

 月明かりに改めてみるその男は私よりやや年上くらいに見える。

 目を引くのはその髪の色。紫だ。よく白髪のおばあさんが髪を染めているが、あんな感じの薄紫色。目の色まではよくわからないが片方は眼帯をしていて、もう片方は翠とか蒼とかそんな感じの色だということは分かる。

「で、あんた。何処に行きたいんだ?」

「広間だ。今宴会をやっているはずなのだが」

「あぁ……あそこか」

 男は気だるそうに髪を掻き揚げると、歩き出す。

「おい?」

 無視されたのかと思ったが違うようだ。こちらを振り向きもせず、ちょいちょいと指を動かす。着いて来い、という事かな? 小走りで男に駆け寄りその後に続く。

 少し歩いたところで不意に男が立ち止まった。広場に着いたのかとおもったが明かりは見えない。

「あのさ、俺。後ろ歩かれるのすっげー嫌なんだけど」

 ふむ。私も後ろを取られるのは苦手だ。男の左側に並んで立つ。と、男は無言で歩き出した。

 そうしてしばらく並んで歩いていると男が話しかけてきた。

「で、アンタ誰?」

「私は舞華だ。マイカ・スギイシ」

「ふ〜〜ん……」

「お前は?」

「……アメシスト」

 アメシスト、ね。覚えたぞ。……多分。

 歩きながらアメシストと名乗った男を観察する。町で見かけたような服装で、この城の兵士には見えない。頭にはよくわからない柄の布をバンダナみたいに巻いている。

 その布からあふれた薄紫の髪が月明かりに透けて見える。

「アンタさぁ。さっき噴水に居ただろ」

「……見てたのか?」

「見えたんだよ。噴水から広間まで結構離れてるぜ?何やってたんだ」

 何って……いかん。また思い出したくない記憶が蘇りそうになる。どう説明するべきか。何と言えばよいのかわからず黙っていると、

「ま、いっか。何だって」

 と、アメシストから話を切り上げてくれた。その後は二人とも無言だった。

 アメシストが何者なのか、とか気になる事はあるにはあったが害はなさそうだし、こうして案内してくれているのだから疑うのは失礼だろう。それに、なんとなくだがアメシストも聞かれたくないことのように思えた。

 幾度目かの曲がり角を曲がると、甘いくちなしの香りが鼻をついた。見るとそう遠くない所に明かりが見え、騒がしい喧騒も聞こえてきた。

「ほら、あそこだ」

「ありがとう」

 迷っていた時間の半分も無いくらいの時間で目的地にたどり着く。すごい。

「じゃぁ、な」

 アメシストは踵を返すともと来た道を戻り始めた。が、2、3歩進んだところでふと思い出したように振り返りこちらに戻ってきた。

「マイカ、だったな」

 何か忘れ物だろうか? 目前に立つアメシストを見上げる。と、アメシストの顔が目前に迫る。口元に柔らかい感触。反射的にアメシストの頬を思い切り引っ叩く。小気味良い音が響く。

「何をする!」

「挨拶だよ。ア・イ・サ・ツ」

 アメシストは引っ叩かれた頬を押さえて軽く笑う。

「じゃ、マイカまたな」

 そう言ってひらひらと手を振りながら去っていった。

 またって何だ。またって!二度と会いたくないぞ、私は。口元を袖で痛いくらいに強く擦る。

 まったく、西洋人のやる事はわからん。いや、異世界人か。この世界ではキスが挨拶みたいなものなんだろうか? だとしたら私はこの世界ではなじめそうに無いな。

 私はさきほどのアメシストの行為に憤慨しながら広間へと戻った。







 あれからどれくらいの時間が経ったのかはわからないが、宴会は続行中だった。

 何人か机に突っ伏しているが騒いでいる人間の方が圧倒的に多い。と、いうより私が抜けた頃より盛り上がっているようだ。広間を見回すが赤い頭は見当たらない。ほっと胸をなでおろす。

 さて、ベリルは何処に……

「誰を探しているんですか?」

 背後で冷ややかな聞き覚えのある、声。

 そっと振り返ってみるとベリルが、そこに居た。

 一見平静そうに見えるが眉が片方わずかにつりあがっている。

「ベリル、丁度お前を探していたところなんだ」

「マイカ、私は此処に居ます。で、どちらに行っていたのですか?」

「ちょ、ちょっと、庭に」

「随分と戻るのが遅かったですが、どちらに?」

「え、えーと……」

 まずい。ベイルは相当怒っているように見える。しかも私が抜け出したのを随分前から知っていたようだ。

「あ、と。庭で……」

「庭で?」

「……迷子に」

 嘘じゃないよな? 迷子になったのは本当だ。どきどきしながらベリルの顔色を伺う。

 不機嫌そうだった眉が、今度は困惑したように寄せられ、眉間に細い皺を作っている。

「何故庭に?」

「酔いを、醒まそうとしたんだ。で、ちょっと歩いていたらいつの間にか迷子になってしまって……」

 嘘は吐いていない。多分。全速力で走ったからなのだが、そこは説明しなくてもいいだろう。というか説明したくない。

「マイカ、今度から出歩く時は私に声を掛けてからにしなさい」

「はい」

 素直に頷く。今度迷子になっても一人で戻ってくる事は難しいだろう。どうやら私の迷子癖は筋金入りのようだからな。

「心配した?」

「もちろんです」

 やや怒ったように肯定される。

「ごめんなさい」

 うなだれていると、ぽんぽんとやさしく頭を撫でられる。

「もういい。少し用件を済ませてくるからここで待っていなさい」

 ベリルは私を近くの椅子に座らせると、その場を離れた。それに気付いた給仕が飲み物を持ってきてくれる。

 陶器で作られたジョッキには気の抜けたまずくてぬるいビール。それを見て自分が咽が渇いていたことに気付く。あまり飲まないほうがいいのだろうが見回したところで酒以外の飲み物は無い。ビールの一杯くらいなら大丈夫だろう。

 一気にそれを飲み干し、空になったジョッキをテーブルに置く。もう少し飲みたいな。近くの給仕を呼び止めて、トレイの上のジョッキをもらう。

 こちらはビールではなく琥珀色の液体でツンと鼻を刺す匂いがする。そのジョッキを半分ほど空にしたところで声を掛けられた。

「マイカ、こんな所に居たんですか? アクア・マリン卿が探していましたよ」

 オレンジの頭。人懐っこい青い目。

 ……誰だっけ?

 見た事ある。知っている人物だ。

「ベリルならさっき会った。あっちに……」

 と、ベリルの去った方向を指すがベリルの姿は無い。

「あれ? …こっちかな?」

 ふらふらとベリルを目で探す。むむ? なんだか視界が揺れる。

「ひょっとして、酔ってます?」

「酔ってない!」

「……そうですか」

 酔ってない。うん。

 これくらいで酔うわけが無い。ビールの2杯くらい……

「隣、座ってもいいですか?」

「ん、どうぞ」

 少年は私の隣に座る。やっぱり見た事ある。誰だっけ?

「それで、マイカ。あの話ですが、考えてくれましたか?」

「……あの話?」

 何だろう?

「僕と一所に王都に行くって話ですよ。アクア・マリン卿も一緒に」

 何のことだっけ。この少年には会った事がある。

 しかもつい最近。

「マイカ? 」

 青い目が私を覗き込む。

 思い出した!

「あーーー! 勅使の、アゲイトの弟の、え〜〜……と」

「……アズライトです」

「そうそう。アズライト殿下!」

 今日会ったばかりじゃないか。そうかそうか。

「で、考えてくれました?」

「……何を?」

「王都に行く件ですよ」

「何で?」

「貴方の事が気に入ったからです」

 人懐っこい笑顔。だがその目は笑っていない。

「それは嘘だろう?」

「……なぜそう思うんです?」

「私はな、友人も少ないし人付き合いも下手だ。だがその人間が嘘を吐いているかどうか位は分かる。……何年も人の顔色ばかりを見てきたからな」

 この少年は嘘を吐いている。いや、嘘ではないかもしれないが私を気に入った云々というのは本当のことではないだろう。

「本音を語らない人間についてゆくほど子供ではない」

いかん、頭がぐらぐらする。

「……マイカ、貴方はアクア・マリン卿の事をどこまで知ってるんですか?」

「何の事だ?」

 少年を見ると、先ほどまでの人懐っこい笑顔は消え、その目には剣呑な光が宿っていた。

「卿は、こんな所に居る人物じゃない」

 そういえば面会式の時にもそんな事を言っていたな。

「マイカはオブシディアンという機関を知っていますか?」

「いや? 知らないな」

「このディアマンタイト王国において唯一の独立機関です。そこには法皇を初め11人の枢機卿と以下数百人の神官が居てこの国の重要な行事を執り行います」

「……ふ〜〜ん」

「魔法の研究や医療の研究などもしていますがね」

「それで?」

「彼は、その11人の枢機卿の一人です」

 それがどれほどの事なのかよくわからないが、国の王子が重要視しているのだからきっと凄い事なのだろう。

「ベリルは自分のことを元神官だ、と言っていたが?」

 広間はあいかわらず盛り上がっていて私たち二人には目もくれない。なのにやけに周りが静かに思える。

 私がアズライト殿下の言葉に集中しているからだ。

「オブシディアンには11人の枢機卿。それはオブシディアンとこの国の建国から変わりません。枢機卿は死ぬまでずっと枢機卿のままです」

 ……なんだかきな臭い話になってきたな。ぐらぐらと揺れる頭で必死に考える。

 枢機卿が死ぬまで、という事はベリルは死ぬまで枢機卿という事だ。……何故?

 そしてベリルは枢機卿が死んだ後、枢機卿になった事になる。

「あ、もちろん枢機卿が法皇になる事もありますね。現法皇がそうです」

 よく分からなくなってきた。この少年は何が言いたいんだろう。

「枢機卿には法皇の補佐や行事の執り行いのほかにもう一つ、重要な役目があります」

 この先は多分、聞かないほうがいいだろう。

 そう思うのに耳を傾けずにはいられない。

「選王です。この国の王を決めるのも枢機卿の判断にゆだねられます」

 やはり、聞かないほうがいい。これ以上は……

「卿は……」

「あーー! もういい。」

 強引にアズライト殿下の話を遮る。

「そんな難しい話は私には分からない。大体、私は今日までベリルの本名すら知らなかったんだからな」

 少年の目が大きく見開かれる。

「……本当ですか? 信じられないな」

「本当だ」

 断言すると、不意に少年は愉快そうに笑い出した。

「あははは。卿が後見人だなんて、どんな人物かと思ったら。なんだ、貴方卿の事本当に知らないんですね。信用されて無いのかな」

 直も少年は愉快そうに笑い続ける。不愉快だ。

 苛立ちまかせに机を叩く。

「たしかに、私はベリルの事を何も知らない。だが、わざわざ知る必要は無い」

 少年が不思議そうにこちらを見る。

「何故なら、ベリルがそれは必要ないと思っていると思うからだ。必要ならばそのうち話してくれる」

「必要なかったら?」

「話さないだろう。私には私の目に見えているベリルで十分だ」

「貴方の知っているアクア・マリン卿?」

「うむ。例えばだな、ベリルは料理が上手い。それに器用だ。リンゴの皮を剥くのとか」

「それで?」

「あとは、そうだな。裁縫も上手い。それに……」

 思いつく事を片っ端から上げていく。

「それから、怒ると右の眉がつりあがるんだ。困っている時は眉間に皺が寄るな。ちょっと分かりにくいが機嫌が良い時は左の口の端が上がっている。それから……」

「……まだあるんですか」

「まだまだあるぞ。怒りっぽいし、怒ると怖いし、心配性だし。……良い奴だよ。本当に。すごく」

 いかん、眠くなってきた。上体を起こしているのも辛くなって机に突っ伏す。

「……良い奴、なんだ」

 意識が遠くなる。まぶたが重い。誰か直ぐ傍に立っている気配がするが起き上がれない。

 私はそのまま意識を手放した。











 ……地面が揺れている。

 頬には暖かい布の感触。鼻先をさっきから何かが掠めていてくすぐったい。

 ぼんやり目を開けると蒼銀の不揃いな髪が揺れている。

 首を上げると藍色の空と、細い三日月。夜に染まった庭園が見える。下を見ると白い神官装束。

「……ん」

「起きたか」

 聞き慣れた声。どうやら私はベリルに背負われているらしい。

 身を起こして改めて状況を確かめる。此処は野外だ。そして私はベリルに背負われている。

「そのまましばらく寝てろ」

「やだ、降りる」

「いいから寝てろ」

「おーりーるーーー!」

 ベリルの肩を揺する。

 ベリルが舌打ちしたような気がしたが気のせいだろう。立ち止まると、ゆっくり降ろしてくれた。

「大丈夫か?」

「だーいじょうぶ!」

 ベリルの肩を叩くと一人で歩き出す。

 ゆらゆら。あぁ。良い気分。

「ちゃんと歩け!」

 ベリルに腕を掴まれる。

「歩いてまーーす」

 ふらふら。ゆらゆら。

 らん、ららら〜。あぁ、良い気分だ。ふふ。ふわふわ。ゆらゆら。

「ラン、ラララン、ララ、ラララララ、ラララ、ラン」

「随分機嫌が良さそうだな」

「ふふふ」

 ベリルが呆れたように言う。そう、なぜか良い気分だ。ふわふわ。

「ラン、ララ、ラララ、ララララ、ラン、ララララララ」

「……酔っ払い」

「ラン、ラララン、ララ、ラララララン」

 しばらくラララと歌いながらふらふらと歩く。

「何の曲だ? それは」

「愛の挨拶。エルガーの曲だ」

 小学校の5、6年の頃だったろうか?

 さすがに格闘だけにのめり込む娘を見かねた両親が隼人の通っているピアノの先生の元に通わせたのだ。隼人も一緒ならサボったりはしないだろうと思っての事だ。が、ピアノは私には向いては居らず(3年通ってバイエル2冊しか進まなかった)挫折した。

 ちなみに隼人は高校卒業まで通い、よく放課後に音楽室で弾いていた。おかげで私もクラシックだけは詳しくなったつもりだ。

 隼人はせっかくピアノが弾けるのに音大には進まず、医者だか弁護士だかになるつもりらしい。理由はお金が儲かるから。私と違って頭がいいからな。あいつらしい選択だ。結局どっちの道を選んだのかは知らない。高校は別だし、私は大学には進学していないしな。

 ふらふらと歩くと傍らにクチナシの花が咲いていた。良い匂い。匂いのある花は好きだ。沈丁花とか金木犀とか藤とか。

 ベリルの腕を振り払ってクチナシの前にしゃがみ込む。

 あーー。良い匂い。歌うのを止め目を瞑って深呼吸。

 いーにお…い……

 気が遠くなりかけたその時、がっしりと襟首を掴まれる。

「寝るな」

 見上げると紺色の空と三日月。三日月に照らしだされる蒼銀の髪と冷たい薄蒼色の目。

「寝てませーーん……」

 瞼が重い。

「言った傍から寝るな!」

 強く腕を引っ張られると、そのままベリルに担がれた。

「まったく。世話の焼ける」

「おーろーせーー」

 細く見えるのに意外と力はあるようだ。ばたばたと手足をばたつかせて抵抗するが取り押さえられる。

「そのまま寝てろ!」

「あーい……」

 もういいや。寝よう。

 ゆさゆさ。ゆらゆら。

 ゆらゆら。ゆらゆら。

 どこからか甘い、くちなしの香り。

 この腕の中は、背中は、心地よい……




 ふと、下に降ろされる感覚に目が覚める。

 見ると、ぼやけた視界にベリルの顔がある。

「着いたぞ」

 見慣れた天井の木目。

「ん、ありがと……」

 頭の奥でかすかに音楽が聞こえる。エルガーの愛の挨拶だ。挨拶…。

(挨拶だよ。あ・い・さ・つ)

 薄紫の頭。……誰だっけ? まぁいいや。ゆっくりと上体を起こす。

「寝てろ。酔っ払い」

「……酔ってない」

 どこからかくちなしの甘い香り。……挨拶。

「……ベリル」

 ふらふらと手を振ってベリルを呼ぶ。ベリルは怪訝そうな顔をして近づいて来る。

「何だ?」

「もうちょっと……」

 さらに怪訝そうに顔を近づけてくる。

「もう少し」

「何なんだ」

 ちょっと不機嫌そうな声色で、しかしちゃんと近寄ってくれる。

 手を伸ばさなくても触れられる距離。

「挨拶」

「は? 」

 ベリルの口元にそっと口付ける。

「おやすみー……」

 挨拶もしたし。満足だ。そのまま後ろに倒れて瞼を閉じる。

 そしてそのまま意識を手放した。




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