第一話:気がつけば異世界?
私は崖の上でそいつを待ち構えていた。
矢はまだ3本残っていたが、それを番える弓は置き去りにしたまま。遠ざかる蹄の音と背後に迫る滝の音に耳を澄ます。
前方からはそいつのうなり声と、殺気。
――来い!
私は狩笠を左に構え、太刀に右手をかける。
刹那、そいつは暗い藪を乗り越えやってきた。
月明かりに照らされたそれは、巨大な熊の様に見えた。――ぬらぬらと黒光りする鱗を纏ってはいたが。
そいつの振り上げた腕の先には、月の光を反射して鋭い爪が光る。振り下ろされたそれを、左に構えた狩笠であしらう。
藁で編まれた笠は無残に散らされた。が、振り下ろされがら空きになった左目めがけて抜刀。太刀は寸分違わずそいつの左目を削るが、ほんのわずかに鮮血が舞ったに過ぎなかった。
右わき腹に引き攣るような激痛。笠では充分にあしらいきれなかった爪が脇をかすめたのだ。
――まだ、あと一撃。
この体格差ではまともに遣り合っても、こちらが消耗するばかり。
そいつは身を低くうなるように構える。一気にこちらを押さえにかかるつもりなのだろう。太刀を左脇に構え息を整える。
痛みにのた打ち回りたい気分ではあるがそうもいかない。先ほどから暑くもないのに、額から流れる汗が目にしみる。
――あと、一撃。
それは、己が死ぬか、生き残るかの賭けだった。
そいつは唸り声をあげ、飛び掛ってきた。
一撃!
狙いは――口内!
銀色の鋭い牙が立ち並ぶそこに構えた太刀を突き出す。鮮血。そして左肩にかかる重圧。――激痛。
そのまま仰向けに転倒した私が見たものは、深い紺色の空と金色に輝く2つの満月。
左肩と右わき腹が痛い。だけどそれ以上に寒い。きっと怪我による出血で体温が低下しているんだ。だんだんと重く、暗くなる視界と思考。
なんでこんな事になったのだろう……。
……、……。
……、……、――
遠くで、誰かの声が聞こえる。
あれは――
「舞華、待て」
振り返るとそこには、真剣な顔をした幼馴染の顔が。
「お前流鏑馬に出るって本気なのか?」
あぁ、これは5年前初めて流鏑馬に出る事を決めたときの――
「もちろん。おじい様も出て良いと言ったぞ?」
「言ったぞ。てお前……」
小さくため息を吐き、メガネのフレームに手をやる。
隼人はいつもこうだ。私が何かしようとする度に止めに入る。
小学校の時、山の中腹にある洞窟に探検しようと誘った時も、中学に入って男子剣道部と男子柔道部に単身入部(女子部が無かったので仕方なく男子部に混じろうとした)を決めた時も。
あと、あれだ。高校に上がって自分に因縁をつけてきた不良グループを、逆に叩きのめした時もそうだった。
いつも眉間に皺を寄せて止めに入る。
「大丈夫だ。女だとばれないようにする」
ひらひらと手を振って立ち去ろうとしたが、肩をつかまれ引き戻される。
「ばれるに決まってる。こんな小さな村全員顔見知りだろうが。」
そう。人口数百人足らずなこの村はほぼ全員が顔見知りといって過言ではない。
いや、実際知らない人はいるのだが。しかし「誰それのお母さんの妹の〜」とか「誰それの隣の家のおじいさんの〜」という説明で大体片が付く。そんな村だ。
「大丈夫だってば。それにほら、私がやらなくては人数足りないだろう?外の人間にだけばれなければ良いのだから……」
この村は深刻な過疎化にある。
春に行われる祭り行事の、最大の見所である流鏑馬はこの村最大の観光収入源だ。
あはは……と笑ってごまかす私を一睨みすると、諦めたように大きくため息を吐く。
そう。いつも止めはするが結局は折れるんだ。この幼馴染は。
「怪我したって知らないからな」
ぼそぼそと文句を言い出すが、ほとんど独り言だろう。よく聞き取れないが「毎度毎度……」「その度にオレが……」「これじゃいつまでたっても嫁のもらい手が……」とか言っている。
ちょっとまて、何故こいつに私の貰い手まで心配されにゃならんのだ?
だいたい(確かに)私にも貰い手は無いかもしれないがお前にも嫁の来てが無いんじゃないのじゃないか?
そう言い返しかけてぐにゃり、と景色がゆがむ。
ぼんやりと霞む視界。
薄暗い室内――だろうか。生温い空気と薬草の様な臭い。
もっとよく見ようと首を動かすと、左肩に激痛が走る。
どうやらベットに寝かされているようで、簡単な手当てはされているらしいが明かりが無いからなのか視界がぼやけているからなのか室内の様子はよくわからない。
夢じゃ、なかったのか。
熊の様な得体の知れない化け物と、格闘した時の事が頭をよぎる。
痛みを鎮めるように静かに息を吐き、今朝のことを思い起こす。たしか今日は、毎年恒例の流鏑馬の順番待ちをしていて――
そう。今日は流鏑馬の本番当日。今年は3番手で、去年と同じ様に馬を引いて指定の場所に待機していた。――はずだった。
早朝まで小雨が止まなくて中止かと思われたものの、馬場の状態は少し土を入れればなんとかなる。との事で決行された。
2番手の後に続いて、馬場の上手の山すそに馬を引いて――
そうだ。あの時やたらと霧が濃くて2番手の背中を見失ったんだ。
だが今年で5回目の出場で、毎年同じ場所で行われるのだから霧くらいで見失うはずが無いと、そのまま勘を頼りに馬を引いて……迷子になったんだったな。
どこからか、自分を非難する小姑のような口喧しい幼馴染の声が聞こえてくるようだ。
そういえば幼稚園の時にも似たようなことがあったような……いや、やめよう。むなしくなるだけだ。
霧の中を相棒の柘榴と共に、歩くこと30分あまり。
さすがに迷子になったらしいという自覚が芽生え始めた頃、前方に異変があった。
あたり一面真っ白で1m先も見えないほどだった霧が、徐々に晴れ始めると共にあらわれた森は、まるで夜のように暗く、深く、あたりに生えている樹も杉や檜ではなく見たことの無い巨大な広葉樹にすり替わっていた。
が、それ以上に目を引いたのは前方の燃え盛る炎と騒音。そして幾人かの悲鳴が聞こえてきた。
――なぜ。などと思うよりも早く馬にまたがりその先へ急いだ。
果たしてその先に現れたのは、まるでファンタジー映画にでも出てきそうな場面。燃え盛る、どこか北欧あたりにあるような石造りの家が数軒と、逃げ惑う人々。
そして、あの黒い鱗に覆われた巨大な熊のような化け物だった。そういえば、あの化け物はどうなったんだろう?
手ごたえはあったが、あの外見では致命傷になっていないかもしれない。
上手く崖下に落下してくれていればいいが……と、そこまで考えてふと気がつく。仮にあの化け物が生きていた場合、私は死んでいるのでは無いだろうか?
あの時気を失う直前の記憶は、夜空に浮かぶ2つの月。そこからぷっつりと途絶えている。
私が生きているということは、あの化け物が死んだかあるいは崖の下に落ちるなどして私に止めを刺せなかったのだろう。
そして、私が今ここに寝かされているという事は、何者かが私をここまで運んだからだ。何者かは分からないが、とりあえず手当てがしてある所を見ると害意は無いようだ。
考える事が多すぎる。
何故、私がここにいるのか。
あの化け物は何なのか。
気を失う直前に見た、2つの月は何なのか。
私をここに運んで手当てをしたのは何者なのか。
あの村や人々はどうなったのか。
幾つか仮説を立ててみるが、まさか、という思いがそれを拒否する。が、しかし……異世界……なのか?
そう考えれば一応の説明はつく。この傷も、あの月も、あの化け物も夢ではないのなら。
薄暗い部屋にも目が慣れてきたのか、徐々に様子が分かるようになってきた。
どうやら石作りの小部屋の中に寝かされているらしい。
やや高い天井には木材が使用されているが、壁は黒っぽい石が積み上げられ、所々に絨毯のような布で覆われている。部屋が薄暗いのは天窓と、壁につけられた窓が閉じられているからのようだ。
時刻は昼過ぎくらいだろうか、閉じられた板の隙間から明るい日の光が差し込んでいる。
ゆっくりと起き上がろうとした時、ふいに近づいてくる足音に気付く。
ぼんやりと扉に目をやると、私と同じ年頃と思しき青年が小さな桶を持って現れた。
背は高く、痩身でやや冷酷そうな顔で肩の辺りで不揃いな銀髪が揺れている。一見さきほどの夢に出てきた幼馴染を髣髴とさせる雰囲気を纏っていた。これでメガネでもかけていれば完璧だろう。ただし髪と目は黒ではなく青みを帯びた銀色ではあったが。
「気がついたのか」
持っていた桶をベットの脇にある小さな机に置くと、私を覗き込んで額に手をやる。
ひやりとした感触が心地よい。
「目は―――黒か」
ほぼ無感情にそう言い捨てると、頬の横にいつの間にかずり落ちていたらしい布を取り上げ先ほど持ってきた桶の中に浸す。
どうやら看病してくれていたのはこの青年らしい。
「――あ……」
ありがとう。と言おうとして、上手くしゃべることが出来ない事に気がつく。
発熱したためか、口の中はからからに乾いており、舌が口の中に張り付いて思う用に動かせない。
それに気付いた青年が、机の上の水差しから木椀に水を注いで渡してくれた。手伝ってもらいながらゆっくりと上半身を起こし、水を飲み干す。
「――ありがとう」
青年は木椀を受け取ると、私に再び横になるよう促す。
聞きたい事も確認したいことも山のようにあったが、再び横になった途端再び眠りに落ちてしまった。
あれから数日。
傷はまだ完全には塞がっていないが、上半身を起こせる程度には回復した。
死にかけたと思っていたが傷は思ったより深くは無く、だが出血は酷かったようで未だに起き上がるとふらふらと頼りない。まだ血が足りていたいのだろう。
私の手当てをしてくれた青年は名をベリルと言いどうやらこの屋敷に仕えているようだ。
日に2〜3度食事を運んで、そのついでに傷の手当もしてくれる。
訪れるたびに少しずつ聞き出した情報によると、ここはやはり私の大方の想像通り。異世界――らしい。
ドラコニア大陸の、ディアマンタイト王国の、北に位置するエルバイト地方の、領主の館が現在私のいる場所。
正確には領主の館の、北の庭園の小屋。だが。
そして、あの化け物は一昨日崖下の下流でその死体が発見されたそうだ。その口には私の突き刺した模造刀が刺さっていて、脳髄に達していたらしい。
無残に曲がり刃のかけたそれを、わざわざもって来てくれた。
そして、その化け物だが、どうやらこの世界では割りと普通に存在するらしい。
熊の様な――と思ったのも道理で、あの化け物は元は熊であったものが「竜化」した物。なのだそうだ。
「なんだ? その『竜化』というのは」
手当てを済ませ、立ち去ろうとしていたベリルに食い下がって訊ねる。
一瞬あきれた顔をされたが、思い直したように座りなおすと説明してくれた。
が、ややこしいので要約すると、この世界には「竜脈」と呼ばれるエネルギーによって運営されており、その「竜脈」は強い場所と弱い場所がる。強い場所では生命の活動が強くなり、弱い場所では生命が弱くなる。
つまりは「竜脈」が強ければ資源が豊かになるらしいのだが、それが強すぎるとその「竜気」(竜脈にながれているエネルギー)にあてられ「竜化」するのだそうだ。
竜ってあれだよな? ドラゴン。
「で、『竜化』ってなんだ?」
「お前も見たのだろう? あれ、を。鱗が生えた熊」
「……あぁ!」
「そのままの意味だ。『竜』のような『化け物』になるんだ」
ふむ。
「何故?」
「幾つか説はあるが『呪い』のようなものだな。徐々に症状が現れ始め、やがて鱗が生えてくる」
ふむふむ。
つまり、あの熊はその『竜化』が進んだ状態だったんだな。
「鱗が生えて、その後はどうなるんだ?」
「最終的には『竜』に『成る』」
ほほぅ。ん? ということは
「ではこの世界には竜がいるのか?」
一瞬呆れた様な顔をされる。
「ふん。異世界から来たと言うのは本当のようだな」
私がこの世界の事を質問するのと同じように、ベリルからも私について幾つか訊ねられたため、正直に自分の置かれているらしき状況を説明していた。
曰く、
・気がついたらこの世界に迷い込んでいたらしい
・どうやらこの世界は自分がいた世界とは別物らしい
・私の名前は杉石舞華である
・マイカ が名で スギイシ が氏である
・私の性別は女である
などなど。
異世界人と聞いたときは、かなり胡散臭げな目で見られた。
が、私がドラコニア大陸など聞いたことがないし、ディアマンタイト王国など知らない。というかあの化け物何?
と質問した時点で、胡散臭げなまなざしから何か可哀相な者を見る目に変わった。
なんども質問されるので、その度に答えてやったが私の格好(流鏑馬に出るために狩り装束だったのだがかなり奇異に映ったらしい。実際元の世界に戻ってもそんな格好で出歩くものなんていないだろうが説明がめんどくさかったので「狩をする時はこの格好をするのだ」と押し切った)や特に、髪と目の色が黒というのが普通この世界ではないらしく、やっと信じてくれたと思っていたのだがどうやらまだ疑っていたらしい。
「だから何度も言っているだろう。私は――」
「胡散臭い存在には変わりない」
言葉をさえぎられむっとするが、仮にもとの世界でこいつが家の前に倒れていたら、たしかに胡散臭い事極まりないので黙っておく。
「この世界は竜によって作られ竜によって成り立っている」