9. 身をつくしても
12月に行われるマラソン大会は3学年とも参加必須の行事だった。
その為、文化祭後から体育の授業は校外へのロードの時間になった。
マラソン大会当日または翌日に入試が控えている生徒の参加は免除。
それ以外の生徒は余程の理由がない限り、授業を欠席すると後に補講が待っている。体育の時間を休んでもやっぱり補講。そのおかげで、誰もがサボれずにフラストレーションを抱えたまま授業に出るしかなかった。
1月からの本格的な入試期間に備えたスケジュール編成とはいえ、2学期の怒涛のイベント進行に生徒も教師も疲弊しきっている。
「さっむー。手袋つけてもいいならマフラーも許可してくれればいいのに。ジャージ、上まで閉めても首スースーして仕方ないわ」
生徒は皆、首元まで目一杯ジャージのファスナーを上げている。
柚月が肩をすくめて襟を顎まで持ち上げ、少しでも隙間をなくそうと頑張っている。
「ただでさえ、この人数でぞろぞろ街中を走るのは目立つのに。このジャージは罰ゲーム以外の何物でもないよね」
溜息をつく麻琴。サボれない不満をそれぞれ口にすることで発散している。
麻琴たちの高校の基本的なジャージの色は白である。首の部分、両袖先、ズボン、胸の校章エンブレムの色だけが学年ごとに色が違う。
1年生は紺に近い青、3年生はえんじに近い赤、麻琴たち2年生だけなぜか蛍光色に近い緑。
ミントグリーンと称すれば聞こえは良いがとてつもなく明るい蛍光緑なのである。
文化祭が終わったのが10月終わりで中間試験がそのすぐ後。
1、2……と麻琴が指を折る。日下と話さなくなって2ヶ月になろうとしている。
テストが終わってから、勇気を出して社会科準備室に行ってみたが、朝は授業の準備で忙しなく、放課後は鍵が掛かって入れなかった。
“マラソン大会の委員で忙しいんじゃない?”そう柚月がフォローしてくれても気持ちは晴れなかった。
どんなことを言われてもポジティブになれないでいる。
マラソン大会当日は学校から20分ほど離れた場所にある運動公園に集合する。
そこからスタートして男子は17キロ女子は14キロの距離を走って運動公園内競技場のトラックを1周後ゴールとなる。
スタート地点で隣に並んだ柚月に麻琴が声を掛ける。
「早く走っておわらそ」
「麻琴自信あるの?」
「……ない」
女子より距離の長い男子は先にスタートしていて、この場所には女子の声しか聞こえない。
文句を言いつつも持久力のある柚月は、スタートして20分もすると背中も見えなくなっていた。自分のペースで走るのが一番だとお互いに意見は一致しているので気にはならない。
小学校の頃、道徳の教科書に載っていた話に“小さな目標を作ってそこまでたどり着いたら次の目標から次、次と進めばゴールに辿り着ける”とあったのを思い出した。
少しずつ進めていければそれで良かったのに、どうしてこうなっちゃったのかな。
何を考えていても日下のことに行き着いてしまう。
「いった……」
麻琴は目の前の段差に気づかずにバランスを崩して転んだ。
立てば大したことないと思ったのに左足に力が入らない。まずい。
ひとまず後続の走者の邪魔にならないように捻った足を引きずりながら道の端に寄った。そして傍にあった木の幹に背を預けながらゆっくり座った。両足を伸ばした。
むくんでいるときのように 履いているスニーカーがキツイ。足首が相当腫れていることは間違いないようだ。
「何やってんの、お前」
自分と同じ色のジャージが麻琴を見つけて近づいてくる。
既に中継地点を折り返してきたらしい久瀬だった。今まで男子に会っていないのでもしかしてトップだろうか。
「なんでいつもこういうの久瀬くんに見つかるの」
「日頃の行いだろ」
「ちょっとドジっちゃった」
「捻ったのか?」
単なる会話で済んで通り過ぎていくと思ったのに久瀬は麻琴の傍へ歩いてくる。
「少し休めば走れるから気にしないで。久瀬くん多分今のところトップだよね? 早く行かなきゃ」
「早く終わりたくて走ってただけだから、別にいい」
久瀬に急に足を掴まれて驚き、そのまま麻琴は手をついて後ろに逃げた。逃げようと思ったのだが遅かった。されるがままにスニーカーを脱がされたところで久瀬の手を止めた。
「……っ! ……痛いから」
少し足を動かすだけで痛みが走る。久瀬は動かす手のスピードを緩め、改めて靴下を脱がした。
「こういう時はさっさと冷やさないと余計腫れてくんだよ! ちょっと待ってろ」
麻琴の足をゆっくりと下ろすと久瀬はどこかへ走っていった。そんな久瀬を麻琴はボーッと眺めていた。
少しすると久瀬は水のペットボトルを持って戻ってきた。
「これで冷やしとけ」
ここで遠慮すると再度怒られそうなので大人しくペットボトルを受け取る。靴下の下の足首は右足とは比べ物にならないほど赤く腫れていた。
「これで走ろうとすんのはどう頑張っても無理だろ」
自分がケガをしたわけでもないのに久瀬が顔を歪める。他人がそうなるほど酷いケガなのだと今更気付く。
「うん……」
腫れた足首にペットボトルを当てると痛みが幾分かやわらぐ。
ここから歩いて行こうにもゴールはまだまだ遠い。こんな時に限って誰も通らない。
「どうすっかな。この辺教師が立ってるポイントまで遠いんだよな……」
周囲を見渡しながらぶつぶつ思案し始める久瀬。
じっとしているとかいた汗で体が冷えてくる。陽が射している今はまだマシだが、雲が出始めてきた。
「見回りの先生もいるみたいだし、それ待ってみるよ。久瀬くんは早く行って」
男子の後続はまだ見えないが、久瀬がどんどん遅れてしまっていることが気掛かりだった。
「そんなの待ってたら汗で体が冷えて風邪引くぞ。ちょっと待ってろ」
久瀬がジャージの上着を脱いで麻琴に投げた。そしてズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。
「あ、ずるい」
頭に降ってきたジャージから麻琴が顔を出した。
「バカ正直に預ける方が悪いの。こういう時に役に立つだろ」
久瀬は画面をタップして耳に当てながら麻琴の文句に言い返した。
「はーい。救護班でーす。どうした?」
久瀬の持ってるスマートフォンから大谷らしき声が聞こえてくる。
「運動公園から30分ほどのところで生徒が一人捻挫してます。迎えに来てもらえませんか?」
「その辺回ってる先生がいるから連絡してみる。そこで少し待っとけ」
久瀬は画面を再度タップして電話を切り、麻琴へ向き直る。
「ココらへん回ってる教師がいるから来てくれるって」
会話は聞こえていたが、久瀬に何か言われると思い大人しく返事をする。
「ありがと……」
先程までは早く走っていってくれればいいのにと思っていたが、今は久瀬が居てくれることに安心した。
「痛むか?」
「……ちょっとだけ」
程なくして、遠くから車のエンジン音が聞こえてきた。路肩へ車が寄せられて止まると、人影が走ってくる。
「どうしました?」
日下が小走りに麻琴たちへ寄ってきた。
「あんたかよ」
久瀬の言葉を無視し、日下はしゃがみ込み麻琴の足を触った。
「いっ……」
「左足首を捻挫しててかなり腫れてる」
麻琴に代わって久瀬が症状を告げる。
「だいぶ酷いですが、骨は大丈夫そうですね。ちょっと失礼しますね」
麻琴の首の後ろと膝の裏に手を差し入れ、ひょいと抱え上げる。
「せっせんせい、自分で歩けます」
日下に横抱きにされた麻琴が驚いてバタバタと暴れる。それを久瀬がじっと見つめる。
「落としてしまうので僕の首に腕を回して掴まってください」
「でも私重いしっ」
手だけバタつかせても効果はなし。
「暴れられる方が重さが増すので大人しくしていてください」
「……はい」
日下に重さを強調され、麻琴が大人しくなった。
「僕が彼女を運びますから久瀬くんはゴールに向かってください。後で補講になるのは嫌でしょう?」
麻琴を抱えたまま日下が久瀬に指示をする。
「……わかりました」
久瀬は拳を握りしめ、一瞬だけ日下を睨むようにしてからとゴールへ向かって走り出した。
「久瀬くん、これ!」
麻琴が肩に掛けたジャージを摘んで久瀬に呼び掛けた。
「いいから羽織っとけ」
半袖で走っていく久瀬の背中を見送ると、日下が持っていた車のキーのボタンを押した。車のライトが光り、ドアが開いたことを示す。
「櫻井さん、ドア開けてもらえますか? 僕は両手が塞がっているので」
麻琴を抱えたまま、日下が少し屈んだ。麻琴がドアノブを掴めるように。麻琴が助手席のドアを開けると日下はそこにゆっくり麻琴を乗せた。
「体調が悪いなら先に言っておいてください」
「だって後で補講になるの嫌なんだもん……」
「だからってこうなる方が面倒です」
見上げる麻琴の頭に軽く手を乗せると静かにドアを閉めて、運転席に回る。それを麻琴は視線で追い掛ける。
運転席に乗り込んだ日下は車のドアを閉め、キーを差した。
「私のこと心配?」
前にも同じことを聞いたことがあった。その時は歯牙にも掛けられなかった。
「当たり前です」
素っ気ない日下の言葉でも振り向いてくれなかったあの頃は違う。
「目の届くところにおいて置かないと、気が気ではありませんね」
体中で叫びだしたくなるくらい愛しい。
「さて、病院に行ってその後、櫻井さんの家まで送っていきます。道案内お願いしますね」
麻琴がたまに方向を指示するだけで車内は静かだった。
病院での検査の結果は全治2週間の捻挫。
帰りの車の中でも何も話せずに車は麻琴の家に着く。日下はサイドブレーキを引くと一旦外へ出て助手席へ回り、ドアを開けた。
「はい、着きました。テーピングしているし、ここからなら歩いていけますね?」
「大丈夫です、ありがとうございました」
麻琴の家の前ではなく、少し離れた場所に車を止めた。別に家まで来てくれてもいいのに、と麻琴は一人ごちる。
日下は運転席から降りて助手席へ回ると麻琴の手を取り、倒れないように補助をしてくれる。お姫様になったようなシチュエーションなのに今は全然ときめかない。
「じゃあまた明日」
麻琴が家の前に着いたのを見届けてから日下が告げた。
「また明日」
麻琴が挨拶するとすぐに日下は運転席に戻り車を走らせていった。
「大丈夫? 麻琴」
夕方になり、柚月が鞄を持って麻琴の家を訪れた。
「うん、まだ痛むけど大丈夫。ありがと柚月」
「気付いてあげられなくてごめんね、麻琴」
柚月の顔が曇る。
「ぼーっとしてた私が悪いから気にしないの」
普段気が強いくせにこういうとき、柚月はひどく心配性になる。
「うん。久瀬も心配してたよ」
「そっか。悪いことしちゃったな」
左足に力を入れると痛みが更に増した。