8. わびぬれば
「麻琴が最近元気ない。どうにかしろこのヘボ養護教諭」
保健室で救急箱の整理をしながら、柚月が大谷に不満をぶつけた。大谷にぶつけたところで、どうとなるものではないのはわかっている。かと言って、沈んだ麻琴を見ているのはもっと嫌だ。
「ヘボとはご挨拶だね、保健委員長。彼女が俺のところに相談に来るならまだしも、何にもないんだからどうしようもないでしょうが」
大谷は机に向かって日報を書いているところだった。
くるくると、包帯を巻き直しながら柚月は再度催促してみる。
「先生の親友の方から聞けばいいじゃないですか」
「あいつが相談しにくる輩に見える?」
「……見えない」
「委員長が話を聞いてあげれば一番いいんじゃないの?」
良いことを閃いた! とばかりにドヤ顔なのが腹が立つ。
「麻琴が話してくれるまで何も聞けません。余計なことも言いたくない。あーもう! ただでさえ毎日マラソン大会の練習に嫌気がさしてるっていうのに、これじゃ余計ブルーになるー!」
叫んだ柚月に、大谷がいつになく真剣な表情になった。
「まぁ、軽く話を聞くくらいならできるから、辛そうなら櫻井さん連れてきてあげて」
大谷はたまに養護教諭らしい顔で優しい言葉を掛けてくる。胸の辺りがうずいた。
「うん」
返された微笑みに調子がくるって柚月は持っていた包帯を落とした。巻き直した包帯はテンテンと床を転がっていった。包帯が転がっていった先を確認すると椅子から立ち上がり、壁際の棚の下を覗き込んだ。
「うんって委員長、俺のこと先生だと思ってないでしょ」
包帯は部屋の明るさが分かる位置に転がっていた。柚月は手を伸ばして包帯を取ると部屋の隅のランドリーボックスにポイッと放った。
スカートと手足についたホコリをパンパンと払いながら大谷の問いを否定した。
「うん、いやそんなことないです」
「もういいけどね?」
大谷が深い溜め息をついてお湯を沸かし始める。
「そんなことより保健室の掃除、ちゃんとしてくださいね大谷先生」
両手のひらを見つめた柚月が抗議の声を上げたが、大谷は素知らぬ顔で紅茶の缶を眺めている。
今更紅茶の入れ方を読む必要などないだろうに。
*
あんなに忙しくて早く終わってほしいと思っていた文化祭。終わってしまうと、麻琴は抜け殻のようになった。
「麻琴大丈夫? 保健室行かなくていい?」
柚月が心配そうに麻琴の顔を覗き込む。麻琴が柚月に力なく笑い掛けた。
「柚月。保健室、保健室言い過ぎ。そんなに心配しなくても大丈夫。きっと朝ごはんが足りなかっただけだよ」
と適当にはぐらかした。その答えに柚月は納得していないようだ。麻琴を見つめる視線が物語っている。
「大丈夫ならいいけど。一人で抱え込まないでね」
「うん、ありがとう」
文化祭が終わった後。
時間が出来ても社会科準備室の扉を開けることはなかった。
――僕は教師なのでいつも後手に回ってしまいますね。
日下に言われたその一言が、自分との間に線引きをされたような気がした。
――想いが通じて距離が近くなったと思っていたのは私だけだったのかな。
何も知らずに先生を追っ掛けていた頃は何を言われても平気だった。
両想いになった方が辛いなんて、思ってもみなかった。
「最近行ってんの? 社会科準備室」
昼休みに渡り廊下でぼーっとしていると久瀬が通り掛かった。
「もうすぐテスト期間だしね。前に先生に怒られたから」
「お前ならそんなの気にしなさそうだけど」
麻琴のもたれている手すりから少し間を空けて、久瀬が隣にもたれ掛かる。
「だって先生と生徒だもん。わきまえるところはわきまえないと」
自分で言っていて悲しくなる。
涙が出そうになって麻琴は慌てて手すりに突っ伏した。ひんやりとした冷たさが両腕に広がる。
「お前、やっぱ様子おかしくないか?」
「おかしくないよ」
いつもなら噛み付いてくるのに嫌味を言われたことにも麻琴は気づいていないようだ。
「わきまえなきゃいけない恋愛ってなんだろうな」
気付いているのかいないのか、久瀬は麻琴に背を向けた。
「……だって私たちは先生と生徒だから」
少しだけ目線を上げると1階で楽しそうに話している男子と女子の二人組がいた。付き合ってるのかはわからないが、2人の顔には終始笑いが絶えない。
「我慢してばっかじゃん」
「そんなのわかった上で選んだんだもん」
辛くなってもう一度目を伏せた。
「日下も?」
「……わかんない」
「辛いだけの恋愛なんて意味ないよ」
ポンと軽く頭に手を乗せられた。出てきてしまった涙を隠そうとするしかない麻琴からは、久瀬の表情が見えなかった。
「あれ、今日は社会科準備室行かないの?」
今日はどこへ行っても同じことを聞かれるな。
柚月も含め、気に掛けてくれているのはわかるのだが今は放って置いて欲しかった。
「当分行かないことにしたんです。……テスト期間前なので」
面倒くさそうに答えれば、空気を察してどこかへ行ってくれると思ったのに、大谷はしぶとかった。
「じゃあ、ちょっと仕事手伝ってくれないかなー。櫻井さんクラス委員やってるんだよね? 書類整理、得意そう。俺苦手でさ」
白衣のポケットに突っ込んだ両手をぐうっと押し、麻琴の顔を覗き込んできた。
本当に教師らしくない。その軽さが人気の秘訣なのかもしれないけれど。
「テスト期間中です。中には入れませんよ」
早く一人になりたくて仕方なかった。涙は既に引っ込んだけれど、まだ目が赤いはずだ。
「保健室にはそんなの関係ありません。特別に美味しいコーヒーもつけるからさ。あ、紅茶の方がいいかな?」
「……紅茶でお願いします」
強引な大谷に麻琴はお手上げだ。
言われたことだけさっさと済ませれば帰れるか。麻琴は大谷の申し出という名の我儘を受け入れることにした。
目の前に広がるは壁の白。微かに香る消毒液の匂い。
その中の紅茶の匂いがひどく異質で、今の自分のようだった。
「はい。砂糖かミルクいる?」
「ミルクでお願いします」
それでも、温かい紅茶を体の中に入れるとホッとした。
「大谷先生って紅茶淹れるのお上手ですね」
「厳しい師匠がいてねー。しごかれてる」
そう楽しそうに話す大谷はまんざら嫌でもない様子だ。
「保健委員長が心配してたよ」
大谷は自分のカップにも紅茶を注ぐと、自席の椅子に落ち着いた。
「柚月がですか?」
「ここへ来ると櫻井さんの話ばかりしてる。隠せない悩みなら無理しない方がいいよ。ほら、ここに養護教諭がいるんだしさ」
その言葉に、麻琴は以前から気になっていたことを聞いてみたくなった。
「先生たちから見て、私達生徒は子どもですか?」
――唐突過ぎたかな。
大谷は気にする風でもなく、あくまで俺の見解だけど、言い置いて続けた。
「子どもと線引きできるのは中学生までかな。君たちは間」
「大人と子どもの間、ですか?」
麻琴の問い掛けに大谷が軽く頷く。
「そ。ある程度分別がつくから結婚が認められるし、選挙権もある。でもまだ経験が足りないからいろいろ考えてしまうのは仕方ない。躊躇するのもわかる。でもそれは机上の空論でしかないの。経験するから大人になるんだよ。俺たちくらいになるとある程度先が見えてしまって動けなくなるけど、櫻井さんたちはまだ知らないでしょ? 知らないってのは強みだよ。今だけの」
今だけ? 大人になると弱くなってしまうのだろうか。今でさえ自分に自信が持てないのに。
「大人になると強くなると思ってたんですけど、違うんですか?」
すると大谷は困ったように眉をひそめた。
「強くなる、というよりは悲しいこととか辛いことへの耐性がつくんだろうね。何度か経験すれば我慢できるようになる。……辛いのは同じだけどね」
大谷がそう言って持っていたマグカップを回して、紅茶を揺らした。その表情が麻琴には愁いを含んでいるように見える。
「だから遠慮しすぎも良くないよ。あいつが好きになったのはそういう櫻井さんだと思うから」
そう言われても動く勇気はなかった。
自分で自粛してしまった日下との時間はますます取ることができなかった。廊下でたまに会っても視線は合うがお互い会釈を交わすだけ。
――どうして何も言ってくれないの? 先生。
中間試験が終わって11月が過ぎた。
自分から先生に連絡を取ることはなかったし、先生からもなかった。
近付かなければ近付いてこない。それが先生だった。
*
「最近居つくようになったね、保健室に」
大谷が保健室のソファで読書をしている日下に話し掛ける。
「準備室を独り占めするわけにも行かないからですよ」
日下は本から目を離さずに返事をした。
朝は社会科準備室で授業の準備をしているが放課後になると保健室に訪れる。そうして何を話すわけでもない。
ソファで読書しながら大谷の淹れたコーヒーを飲み、2時間ほどすると帰っていく。
「このまま櫻井ちゃんと喋らない気?」
「なんですかその“櫻井ちゃん”ってのは」
日下が初めて大谷の方を向いた。非難するような日下の視線にも大谷は平然としている。
「いいじゃん減るもんじゃないし」
「静人には被害はないでしょう?」
「面倒くせー友人のせいで、俺も責められて仕事になんないんだよ」
どうやら八つ当たりをされているらしい。
「誰に」
「保健委員長」
押しの強い麻琴の友人を思い出して、日下が納得する。
「ああ。それはすみませんね」
「お前に素直に謝られると気持ち悪いわ」
「八つ当たりを始めたのはそっちじゃないですか」
読書に戻ろうと思ったが気が乗らない。栞代わりに挟んでいた指を抜いて本を閉じた。
「気になるなら話すればいいじゃん」
養護教諭は格好だけのようではないらしい。本当に人のことをよく見ている。
「マラソン大会の委員になってやること多いんですよ」
「この間の文化祭もそんなこと言ってなかったっけ」
大谷の目を見られずに窓の外に向かって言葉を投げたが、相手はこちらをじっと見ている。
「クラブの顧問を持ってないのでイベントの仕事が僕たちに集中するんです。仕方ありません」
大谷は「まぁ、いいけど」と呟くと立ち上がってぐっと背伸びした。
これ以上ここにいると分が悪い気がする。大谷の言う通り、逃げていると言えばそうだ。でも今はこうするしかない。
「お前が不安なら相手も不安だと思うよ。伝染するもんよ、雰囲気って」
保健室の戸を閉める間際にそんな声が聞こえてきた。