39. 恋といふらむ
「櫻井さん、ちょっといいですか」
廊下で麻琴を呼び止めた日下はいつもと違って見えて、断ることができなかった。
久し振りに訪れた社会科準備室は様子が変わっていた。派手な変化があったわけではない。
机の傍に置いてあった積んだままの本がなくなっていたり、大きな地図帳の保管されている場所が変わっていたり、部屋の隅に置かれていたソファの向きが横向きに変わっていただけだ。
それだけの変化でも麻琴にとって知らない場所になっていた。もう居場所なんてないと言われているような気さえした。
部屋に入ってからずっと入口に立ったままの麻琴を日下はソファへ座るように促す。言われるがままにのろのろと麻琴がソファへ座った。
日下は机の引き出しから小さな箱を取り出し、麻琴の向かいに座った。
手にした箱をゆっくり開けて中を見せると、麻琴は狐につままれたような顔をした。
中には見たことのあるものが収まっていた。麻琴が持つ匂袋と色も形も同じもの。
「……これ?」
日下は箱をテーブルへ置くと人差し指と親指で匂袋をつまんだ。そして手に乗せて麻琴に差し出した。
「以前に渡したものと同じものです」
麻琴は差し出された匂袋をしばらくじっと見つめていた。
匂袋からは橘の爽やかな優しい香りが漂ってくる。
「前に渡したものはもう香りが消えてしまったでしょう? 新しいものと交換して」
「いりません」
麻琴の静かで鋭い声が日下の言葉を途中で拒絶した。
感情が消えたような冷えた言葉に日下は少しだけ怯んだ。軽い溜息をついてから先を続ける。
「香りが消えてしまったものをいつまでも持っていても仕方ないでしょう」
「仕方ないと思うならなおさらいりません」
スカートは麻琴の入れた力で深いシワが寄り、握った親指の色は赤く変わっている。
日下からは頭頂部しか見えない麻琴。両サイドに掛かる髪が下がってよりいっそう表情はわからない。
「どういう気持ちでそれをくれたんですか? 代わりをすぐに渡せるくらい軽いものだったんですか? 私は先生からもらったから香りがなくなってもずっと大事にしてきたのに」
悲しくなるどころか怒りしか込み上げてこない。
そう言えば話しかけたのも告白したのも麻琴からだ。
自分の行動が押しつけがましいと自覚していたからこそ日下からの自発的な行動が嬉しかった。全部彼が進んで自分のためにしてくれたものだと思っていたから。
目の前がにじみそうになるのを拳にグッと爪を立てて堪らえた。
「私、一人で舞い上がり過ぎていたみたいです。いつもいつも私がすることに先生は付き合ってくれていただけですもんね」
こんなときにも日下は何も言わない。
麻琴は胸ポケットに手を入れて中身を引き出すとテーブルの上へ置いた。
「その場しのぎの気持ちなんてもう聞きたくありません。迷惑ばかりかけてすみませんでした」
下を向いたまま立ち上がり体を上下に折った。そのまま日下の顔を最後まで見ずに麻琴は準備室を出た。
*
キャメル色のニットに黒の膝丈フレアスカート。寒くないように分厚めのタイツ。ショートブーツに足を入れてつま先で地面を軽くトントンと蹴った。
ここから待ち合わせの場所まで掛かる時間は30分。急がなくても充分間に合う時間なのに準備ができるとすぐに家を出た。
12/24 AM10:50
家から二駅先にある駅ナカの大きな時計。時間によって色が変わる白いパネルは今はぼんやり薄いオレンジ色に光っている。
そのすぐ下の大理石に背中を預けて立っている男性。初めて会ったときを思い出して麻琴は笑ってしまう。
濃い目の色のジーンズにグレーのチェスターコート。羽織ったコートの下から縦に一本だけ右ポケットの傍に黒いラインの入った白のシャツが見えた。長いマフラーを口元にゆるく巻いた久瀬がそこに居た。
普段と雰囲気が違うけれど久瀬らしい格好に安心できて頬が緩む。
「おはよ」
「おはよ。なんか、落ち着かなくて」
麻琴の姿に気がついた久瀬は照れくさそうに笑った。
「私も」
「いつもと雰囲気違うな。……かわいい」
久瀬がさらに照れて顔を背けた。久瀬から聞いたことのない言葉と照れが麻琴にも伝染して顔が赤くなる。
最初は近寄りがたかった。でも親しくなるうち、ぶっきらぼうなのは彼の照れ隠しなのだと知った。意識して見るようになると彼と視線が合う回数が多いことに気づいた。
絶妙のタイミングで現れる久瀬。
それはずっと自分のことを見守っていてくれたから?
ふいに伸びてきた手が麻琴に右手に触れた。麻琴がビクッと肩をすくめて縮こまる。
「俺なら周りを気にしなくてもいいよ」
「ごめん」
心を見透かされた気がした。
久瀬は麻琴の手を取って歩幅を合わせる。繋いだ指先は冷たい。久瀬はいつから待ち合わせ場所にいたのだろう。
着いたカフェは冬だというのにオープンテラスにも人が大勢いた。雪をイメージした白いパラソルの下には白いクロスの掛かった丸いテーブルと黒い細身のガーデンチェア。テーブルの真ん中には底の丸い赤いグラスの中に入ったキャンドル。特別仕様にあしらわれた席に心がわくわくしてくる。
「ね、あっちに座ろ」
麻琴の指差す方向を見て久瀬が渋い顔をする。
「中にも櫻井の好きそうな席あるよ」
久瀬が店内へ顎をしゃくる。
久瀬が指差すふんわりしたソファには後ろ髪を引かれるが、今日はどうしてもテラスに座りたかった。
寒いけれど二人とも着込んでいるし、ひざ掛けも用意されているのだから大丈夫。
クックッと久瀬の肩が小刻みに揺れている。
「わかったよ、好きにしていいよ。どこ?」
「こっち!」
まだ笑いのおさまらない久瀬の手を喜々として席まで引っ張っていく。
「女子って甘いものは別腹って言うけど、ほんとなんだな」
ランチプレートを食べてお腹は満たされたはずなのに、食後に渡されたデザートメニューを見て麻琴が悩み始めた。
「食べなきゃもったいないもん」
「それ以上食うとまんまるになるぞ」
「久瀬くんより食べる量少ないもん」
すると久瀬が手を伸ばして麻琴の右頬に触れた。麻琴が身構えると久瀬がその指先で頬をぷにっと小さくつまんだ。
「こんだけ肉ついてるんだから貯め込むってきっと」
「いいもん」
久瀬がすっと手を下ろして麻琴の顔を見つめる。
「あいつとは出かけたことあるの?」
こんな目を麻琴は前にも見たことがあった。
まっすぐな意志の強い瞳。
「ない、よ」
嘘はついていない。でも後ろめたさを感じてしまう。
「匂袋、まだ持ってんの?」
「……もう持ってない」
「そっか」
久瀬は椅子に掛けていたショルダーバッグの中をごそごそと探し始めた。「あった」と小さく呟くと、小さな直方体の箱を取り出して麻琴の手元に置いた。
「それ、やるよ」
しまった、と思った。自分は何も用意していない。
申し訳なさそうに久瀬を見るとお見通しだったようだ。気に留めた様子はない。
「京都で買ったやつだから。櫻井がくれたハンカチのお礼だと思って受け取って」
「ありがとう。開けていい?」
「どうぞ」
手のひらにすぽっと収まるサイズの小さな瓶。
フタを開けた途端、甘い香りがふわっと辺りに広がった。爽やかだけどとても落ち着く優しい匂い。
「コロン?」
「あいつと似た感じで気に入らないけど、櫻井がつけてるのは好きだから」
小瓶に添えられた小さなカードには“くちなしの花言葉:喜びを運ぶ”と書かれていた。
涙腺が緩み目元にどんどん涙がたまる。
それがこぼれそうになって思わずテーブルに突っ伏した。
「また泣く」
麻琴の頭に久瀬がそっと手を置いた。
「何やっても日下の二番煎じだな、俺」
「そんなことない」
麻琴は伏せていた顔を上げる。涙はまだ止まらない。
「じゃあ、その涙はどういう意味? 思い出したからだろ」
夕方の教室で勢みで出た告白と育ちつつあるこの気持ちはどっちが本物だろう。
視線の先の久瀬は悔しそうな顔をしていたが、麻琴と視線が合うと困ったように笑った。麻琴を責めるでもなく、彼は私を想ってくれている。いつも。
先生と付き合うことになってから覚悟はしてたはずだ。隠さなければいけない恋だと。
付き合うまでは周囲にバレてしまってもいいと思っていた。
でも今は……そこまでひたむきになれない。そこまでの気持ちだったということだろうか。
「噂になったからって好き合ってるわけじゃないのにな。櫻井は俺のことどう思ってる?」
「好き……だよ」
「期待してもいい?」
サイドに掛かる髪の隙間から久瀬が顔にそっと手を添えた。
本当は久瀬に聞いてほしいことがたくさんあった。
そんなことを考えた自分が嫌だった。日下をずっと好きだった気持ちが全て嘘になってしまうようで。
他人から見ればどんなに不器用で情けなくても、日下を想う自分の気持ちは本当だった。
“君により思ひならぬ世の中の 人はこれを恋といふらむ”
久瀬くんがいてくれてとても嬉しい。その気持ちは嘘じゃないけどとても苦しい。
あなたを通して知ったこの気持ちを恋というのだろうか。




