33. 淵となりぬる
「迷った……」
麻琴は道路の真ん中で茫然としていた。
班行動の最中ちょっとだけ、と気になったものを追い掛けていたら見事にはぐれた。
スマートフォンを取り出し位置検索をかけようとして手を止める。土地勘がないのに加えて地図を読めない方向音痴ときて使いこなせるだろうか。
手を下ろしかけたときに突然画面が光った。
表示される名前に一瞬躊躇してからタップする。心の準備をして受話口を耳に当てた。
「櫻井?」
電話の向こうの久瀬の声はいつもと違って早口だ。
「今どこ」
短く尋ねる声にビクッと肩をすくめる。
久瀬は怒っている。
これ以上逆上しないよう慌てて周囲を見渡して目立つものを探す。
薄暗くなった路地は灯りが少なく心細い。
京都市内は碁盤の目という文字が頭に浮かぶ。
ガイドブックには通りの名前で現在位置がわかると書かれてあった。
四条烏丸と言えば四条通りと烏丸通りが交差している位置を指す。碁盤の目のように東西南北に走る通りにはそれぞれ名前がついているため同じ名前の交差点はない。それはわかる。
ただ、この辺は格子が崩れてるらしくそれも使えない。加えて地元ではない者にとって通りは全て同じに見えるのだから意味がない。
麻琴は頭を抱えた。
「どこ」
麻琴からの返事はない。しびれを切らした久瀬の更に尖った声が麻琴を急かした。
「どこって言われても迷子になってわかんない」
麻琴が声を詰まらせると、電話の声がいくらか和らいだ。
「あー……悪い。お前に聞いた俺がバカだった。櫻井の周りに何かわかりやすい目印になるものないか?」
いくらか引っかかるが久瀬にしては譲歩した方だと思う。
気を取り直して周囲を見渡し目に入ったものを久瀬に伝える。
「えっとお土産屋さんがいっぱい」
「もっとわかりやすいの」
久瀬の怒りゲージがまた少し上がる。
落ち着いてもう一度見直すとお寺らしき門が見えた。近づいて側にあった看板を確認する。
「高台寺入口って書いてある看板がある」
「なんとなくわかった。そこから動くなよ」
一方的に電話は切られた。
麻琴は歩道と車道を仕切るガードレールに腰掛けて待つことにした。
目に入る土産物屋が気になった。久瀬がいつ来るかわからないので店先を眺めるだけにとどめた。
「あー……やっと見つけた」
知った声が聞こえたかと思うと強く抱きすくめられる。
ギュッと一度だけ。
すぐに体を引き離され、目が合うといつもの久瀬だった。一瞬聞こえた彼の鼓動が早かったのは走ってきたからだろう。
「なんであの場所からここまで移動できるのかわかんないわ」
「私にもわかんない……」
一瞬とはいえさっき起きた出来事から立ち直れない。
とりあえず深呼吸してふわふわする頭をなんとか落ち着ける。
「俺たちがさっきまでいた場所はここ。でお前が迷子になったのはここ」
持っていた地図を開いて久瀬が指で麻琴の移動距離をなぞる。
「だいぶ移動してるね……?」
位置把握は未だに出来ていないが、かなりの距離を移動していることだけはわかる。
呑気な返事に久瀬が声を荒げた。
「してるね、じゃねーよ。携帯番号聞いといて良かった」
怒っている中にも麻琴を心配する気持ちが見え隠れしている。
安心できたと同時に罪悪感がわいてきた。
「迷惑かけてごめんなさい」
「ほんとだよ。日下にも連絡しとけよ」
「うん」
担任なのだから仕方ない。それでも億劫だった。
憂鬱そうにスマートフォンを眺める麻琴を見て久瀬が切り出した。
「前に言ってたよな。わきまえるって」
一瞬何のことかわからなかった。
「日下の方が教師と生徒って割り切ってる。お前、割り切れてないだろ」
前よりもっと日下の視界の中に入りたいのに我慢して。でも結局決められたルールの中を飛び出している。
日下はいつも一歩引いている。麻琴たちの噂を聞いても顔色一つ変えない。
自分にはそんなことは出来ない。うろたえてばかりで嫌になる。
「そんな顔してるとそのまま固定されるぞ」
「わ」
久瀬が麻琴の手を取り繋ぐ。言い訳のような久瀬の言葉が後に続いた。
「また迷子になられてもめんどくせーから」
手を繋いだまま来た道を引き返す。
辺りはもうすっかり暗い。それなのに久瀬は迷いなく道を進んでいく。
去年の体育祭のときのようにリードするのは久瀬。でも麻琴の手を引く力に荒っぽさはない。
「3月に来られれば良かったな」
町家が並ぶ路地に入ったところで久瀬が口を開いた。
「どして?」
時代劇に出てくるような古い木製の家々が建ち並ぶ、人気のない路地。軒下を守るように置かれた小さなアーチ状の竹矢来。延々と続く石畳。
初めて間近に目にするものはタイムスリップしたかのような気分にさせる。
「夜になるとこの辺りの道の両脇に灯籠が並べてあるんだってさ。で、ちょうどさっき櫻井がいたあの辺。狐の嫁入りの行列が通るんだって」
「ほんものの?」
自分でもバカなことを聞いたと思った。
久瀬の口振りとこの街の雰囲気に感化されたようだ。
間抜けな顔で聞いた麻琴がおかしかったのか、久瀬はひとしきり笑ってから説明してくれた。
「本物じゃねーよ。イベント。3月の頭の1週間くらい、決まった時間決まったルートを花嫁衣装を着た狐が人力車に乗って従者を従えて通るんだってさ」
提灯ぶら下げ、京都の夜の街をゆっくりと巡行する狐の嫁入り行列。
さぞや幻想的だろう。
「そんなの聞いたら見たくなるじゃん」
「来ればいいんじゃない? また」
少し前を歩く久瀬から流れてくるふんわり落ち着いた雰囲気。それがなんだか心地いい。
「うん」と返すと久瀬が繋いだ手に優しく力をこめた。
「あいつはずっとあのままだよ」
せっかく上昇したところに不安が再び押し寄せてくる。
久瀬の言ったあいつが誰かなんて聞かなくともわかる。
「ずっとそうだったんだろ。長年染みついた性格なんてそうそう変わらない」
宿泊先のホテルが近くなってきたせいか、麻琴たちと同じ制服がちらほら見えだした。
「久瀬くん、ここまで来たらもう大丈夫だよ」
手を離そうとするとグッと掴まれる。
「好きだ」
驚いて麻琴が顔を上げた。
すぐ近くの通りを横切る車のヘッドライトが久瀬の顔を一瞬照らして流れていった。
「わかってるよ、櫻井が日下のことうざいくらい想ってることくらい」
麻琴が目を伏せるが、久瀬が構わず続ける。
「それでも諦められなかった。高校生同士でしか出来ないことたくさんあるのに、櫻井は全然それを望んでない。じゃあ目の前にいる俺はなんなんだよってずっと思ってた」
もう一度照らされた久瀬はこの世の終わりのような顔をしていた。
その顔に麻琴が同調した。
「……私だって今しかできないことしたいって思ってるよ」
世界が揺れたかと思った。
気がつくと抱きしめられていた。さっきとは比べ物にならないほどの力で。
「なら、このまま噂を本当にすれば」
頭の上で久瀬の声が響く。どうしていいかわからなくて麻琴は息を潜めた。
「これ以上、無理してる櫻井を見たくない」
「……なんで無理してるってわかるの」
久瀬の腕の中で絞り出すように声を出した。
「どんだけ見てたと思ってんだ」
辛そうに掠れた声がまた頭の上から降ってきた。
今まで彼がしてくれたことを思い出して今になってようやく気づいた。
自分のことのように怒ってくれたことも、頭を撫でてくれたあの優しい手も泣きそうになったときに掛けてくれた言葉も全部、全部。
「ごめん」
麻琴が久瀬の胸に顔を伏せた。
触れている部分がじんわりと涙で濡れていく。
「俺が好きでやってただけだから櫻井が悪いと思うことないよ」
久瀬の手が麻琴の頭に優しく乗り、ゆっくりとあやすかのように麻琴の頭を撫でる。
「別に無理やり奪ってくつもりはないから、ゆっくり考えて」
“筑波嶺の峰より落つる男女川 恋ぞつもりて淵となりぬる”
――最初はちょっと気になるだけだった。気になって見ているうちに櫻井への気持ちが深くなってた。
*
「麻琴!」
ホテルに着くと柚月が麻琴に駆け寄った。
「ごめん柚月」
「無事に戻って来れて良かった。今日ばかりは久瀬に感謝するわ」
「なんだよその言い草は」
久瀬が柚月に文句をつけた。
笑ってはいけないと思いながらも二人のやり取りに和んで笑顔が出る。
にやけてしまう顔を抑えながら麻琴は小さな紙袋を差し出した。
「柚月にお詫び」
迷っている間に見つけた土産物屋。店先を眺めている内にどうしても欲しくなり、こっそりと買い物をしていた。
言われるがままに受け取ると柚月は中身を取り出す。中から現れたのは黄色地に白のドット柄をした手のひらサイズのがま口だった。
「かわいい! ドッド柄のがま口なんてレトロで京都っぽい」
柚月が今にも飛び上がりそうな勢いで喜ぶ。
「ほんとはがま口リュックが欲しかったんだけど高くて。それに柚月とお揃いが欲しかったから。ほら」
もう1つ小さな紙袋を鞄から取り出すと柚月に中身を見せた。
こちらは赤い布地に白のドット柄。
「私は赤にしたんだ」
嬉しそうに笑う麻琴に柚月が少し呆れた顔をした。
「嬉しいけど、あんた迷ってる間に何やってんの」
麻琴は全く悪びれた様子がない。
「だってジタバタしてもしょうがないし、時間もったいないなって」
「変なところで肝が座ってるわね」
「お店は京都以外にもあるみたいだし、オンラインショップもあるみたい」
「じゃ、お金貯めて買おうっと」
浮かれたガールズトークが延々と続きそうだったので久瀬が流れをぶった切った。
「俺にはないの」
「久瀬くんに何あげたらいいかわからなかったからこれ」
取り出したのは青と紫のストライプのハンカチ。
「冗談で言ったつもりだったんだけど」
「迷惑かけたお詫び」
「ありがと」
久瀬が照れた顔を隠して横を向くので麻琴と柚月は顔を見合わせて笑った。
いつの間にか自然に笑えるようになっている。麻琴は心の中で久瀬に感謝した。
*
こってりと教師たちにしぼられた後、麻琴は改めて日下に謝罪した。
「すみませんでした」
「もう櫻井さんにGPSを埋め込みたいくらいです」
心配だったという言葉の一つもない。それどころか苦言を呈するのみだ。
目の前の日下の表情からは呆れしか伝わってこない。
「ちょっと迷っただけじゃないですか」
「2時間もはぐれておきながらちょっと。どうやら僕と櫻井さんでは時間の感覚が違うようですね」
自分が悪いことには違いないので恨み言は小さな声でしたのに。対面しているこの距離で日下に聞こえないはずもなく、返ってきた苦言に麻琴は目をつぶった。
「反省してないようですし、説教はあとでたっぷりさせてもらいますね」
もっと辛辣なことを言われると思った。返ってきたのは正反対の気遣い。
かすかに甘い顔が見えた気がした。
「え?」
「今日はゆっくり寝てその目なんとかしてくださいね」
麻琴の目が赤いことに気づいていた。
日下の背中目掛けて叫ぶ。
「せっ……!」
「明日はレポートが書けるようにしっかり行動するように」
その言葉は麻琴と日下の間にはっきりとした線を引いた。黙って見送るしかなかった。
まだ、割り切れない。理屈なんかじゃ割り切れない。
それを口に出せなくなってしまっている今、諦めてしまった方が楽なんじゃないだろうか。




