31. かよふ心の などかはるけき
「はい、お土産」
月曜日。お昼を食べ終わると柚月は机の上に大きなビニール袋を机の上に置いた。
ガサガサと中身を覗くと白いトラがこちらを見ていた。
「おっきなぬいぐるみ。水族館行ってきたの?」
麻琴が袋のロゴを見る。
「うん。この間ね」
「大谷先生と?」
「保健委員の後輩」
意外な答えが返ってくる。
「保健委員会のレクリエーションとか?」
柚月が首を振った。
「二人だけ。気分転換にね」
そう言う柚月の顔はどこか楽しげだ。
「こないだ久瀬くんのとこに来てた深山くんって人?」
「そう」
「文化祭のときに手伝ってくれた人?」
「家が居酒屋で手慣れてるから無理言って手伝ってもらった。ほんと、頼りになる後輩」
矢継ぎ早に質問を投げかけても返ってくる。機嫌が良いのは間違いない。
「柚月が他の人褒めるなんて珍しいね」
「そう?」
「だって日下先生や大谷先生、久瀬くんのこと褒めてるの聞いたことない」
「自業自得でしょ」
「自分にも他人にも手加減出来ない人だね、柚月って」
手加減しないのではなく、出来ない。まっすぐな彼女らしい。
柚月の話を聞いたのは春休み以来、これが初めてだ。
心の葛藤を知られるのが嫌なのか彼女の話はいつも事後だ。現在進行形の話をすることはない。だからいつも麻琴は彼女の普段の行動や表情から柚月の状況を想像するしかない。
「あれ、ストラップ外した?」
柚月が目ざとく麻琴のスマートフォンの変化に気付いた。
「あ、うん。根付切れそうだったから外した」
上手く笑えているだろうか。
麻琴はそっと口の端を指先でなぞった。
「だいぶ長く付けてるもんね。お気に入りなら失くしたくないよね」
「うん」
日下の誕生日が近い。
去年の今頃先生に告白したんだっけ。教室に居残りさせられてたら先生が来て。数学を教えてもらって。夕日があまりにも綺麗で、先生に見惚れたんだ。
告白したのは勢みだった。
想いが通じれば一緒にいられなくても大丈夫だと思った。そう言えば先生と学校の外で会ったことはない。公園で会ったあの時一度だけだ。
バタバタバタバタ。
教室内が会話を止めて騒がしく廊下を走る音に注目した。
「ねぇねぇ、修学旅行の場所京都に決まったって」
今度はその話題で教室中がざわざわし始める。
「どこで知ったの」「下駄箱近くの掲示板に張り出されてた」
それを聞いた数名がせわしなく廊下を走っていった。
周囲のクラスメイトはテンション高く修学旅行の話をしているのに、二人だけは落ち着いていた。
「修学旅行っていつだっけ」
「確か秋」
「アバウト過ぎるよ、柚月」
「だって面倒そうなんだもの」
楽しみにしていた修学旅行は麻琴にとって憂鬱なものに変わっていた。
*
保健室にも苦手な人間がいるのを久瀬は忘れていた。
「久瀬くん、櫻井ちゃんのこと好きでしょ」
体育の授業の野球の試合中のこと。
急に飛んできたボールを久瀬は受け止め損ねた。正確には棒球だったらしいのだが全く集中できていなかった。すんでのところを右手で受けたが衝撃で目の上を切った。
問題ないと言ったのに、何かあったら困ると体育教諭に無理やり保健室に行かされてこの仕打ちだ。
手当てをされながらではこの場から逃げることもできない。そんなに難しい処置ではない。わざとのろのろやっているようにしか思えないほど大谷の治療は馬鹿丁寧だ。
「図星当てられると黙るタイプか。わっかりやすーい」
絶対わざとだ、この養護教諭。
「……そろそろ黙ってやってもらえません? 傷に響くんですけど」
「最近の高校生は敬意を表するってのを知らないのかな」
「てっ」
貼り終わったテープの上を軽くペシッと叩かれた。
「はい終わり。怪我した場所柄、出血はちょっとひどかったけど傷は浅いから大丈夫だと思うよ。念の為帰ったら診てもらってね。で、病院行ったらこれ提出すること。学校で怪我した場合、この書類書けば治療費戻ってくるから」
一枚の薄い紙を見せながらの説明が終わるとそれを畳んで茶封筒に入れ久瀬に手渡した。
「どうも」
先程までのへらへらした印象とは一変した仕事振りに驚き、叩かれた文句は引っ込んだ。
「紅茶飲んでく?」
「は?」
「オレ淹れるの結構上手いからさ」
こちらの意向などお構いなしに大谷はお湯を沸かし始める。
授業がサボれるならいいかと半分浮かせていた腰をもう一度落ち着けた。
「で、どーなの」
「どうってのがどこに掛かってるのかわからないんですが」
「櫻井ちゃんのこと随分ご執心だよね」
大谷が机に並べたカップに茶葉の入れた茶こしをかざしてその上からお湯を注いだ。
――なんつー淹れ方だ。
目の前に差し出された紅茶をいかがわしく、うさんくさそうに見つめた。
「単にあいつに付き合ってやってるだけです」
「噂通り付き合ってるんだ」
大谷がカップを手にほくそ笑む。
「日下と仲良いから知ってんだろ。ふざけんな」
久瀬が無愛想に答えると大谷はケタケタ笑いだした。
「ごめんごめん、久瀬くんからかうと面白くて」
なぜこんな奴に人気があるのだろう。理解に苦しむ。
「あいつ、なんで何もしないんですか」
「日下先生にも仕事ってものがあるの」
“あいつ”としか呼称していないのに大谷はすぐにわかったようだった。
“日下先生”と強調するところが余計に腹立たしい。
「優先させるもん違うんじゃねーの?」
久瀬が噛みつく。
大谷はカップを机に置き、ゆっくりと視線を上げた。
その目つきは鋭い。
「久瀬は何か勘違いしてるみたいだから言っとくけど。日下先生は櫻井ちゃんのこと思って仕事やってんの」
「は?」
全ての怒りが籠められたその一言は大谷を煽ったらしい。
「仕事放り出して真っ先に櫻井のところに向かっていったらどうなるよ。あ、それとも久瀬くんはそれを望んだ上で言ってるのか。策士だねぇ」
久瀬の神経を逆撫でするように大谷はおどけた口調で煽る。
逆上したら負けだ。でも何か言い伏せてやらないことには気が済まない。
「その久瀬くんってのやめてくんない? あんたから言われるとバカにされてるような気になるんだよ」
大谷が鼻で笑った。久瀬の態度は認めたも同じだ。
「誰を好きになってもそれは久瀬の自由。反対はしない。でも、櫻井を悲しませるだけならやめとけ。そんなことしてもお前のとこにはいかねーよ」
言われなくとも、とうにわかりきっている。
「本当に櫻井のことが好きなら、彼女にとって一番幸せなことを考えた方が男が上がるよ」
したり顔で大谷が言った。
久瀬は眉間にしわを寄せる。
「あんた、日下の味方なの?」
大谷は尚も得意げだ。
「オレは弱い方の味方だよ」
保健室から教室へ向かう途中で日下に会った。向こうもすぐに久瀬に気付いたようだ。
今日はつくづくツイていない。
そのまま通り過ぎようとする日下を思わず呼び止める。
「逃げんの?」
自分たち以外誰もいない渡り廊下に久瀬の低い声が響く。
「用件があるならさっさとどうぞ」
立ち止まった日下は早くしてほしいと言わんばかりの態度を取る。噂のことは知っているはずなのに、渦中の相手のことを気にならないのだろうか。
以前、自分と麻琴の間に入る隙なんてないと久瀬に言い放った日下とはかけ離れている。
「あんたの覚悟ってそんなもんだったの? なんでと思うこともあったけど俺結構憧れてたよ、あんたたちに。だから助けになりたいとも思ったし、余計なことは言わないでおこうとも思った。でもあんたがそんなんじゃ俺も覚悟決めらんねー」
大人しく聞いていた日下が切口上とでもいった調子で冷ややかに言った。
「自分の覚悟の基準を僕で測らないでください」
今日はケンカを吹っ掛けては空回りばかりしている。
日下の背中を見ながら力任せに壁を蹴り飛ばした。
*
「今日のLHRは修学旅行について話がありますので後で久瀬くんとプリント取りに来てくださいね」
麻琴は返事をせずに日下の目を覗き込む。
用件を訊けばすぐに立ち去るものだと構えていただけに日下はたじろいだ。
「先生、寝不足ですか? 目が赤いです。寝たの何時ですか?」
日下の目を覗き込んだまま麻琴が尋ねた。
居たたまれなくなった日下は目を逸らす。逸した目で素早く周囲を見渡すと誰もいない。
「3時……だった気が」
「バカですか」
間髪入れずに誹謗され日下は冷静に戻った。
「櫻井さんにバカと言われる日が来るとは」
「遠回しに私のほうがバカだと言っているように聞こえるんですけど」
「察する力はついたんですね」
久し振りに交わした会話が揚げ足取りとは色気のないことだが、口を聞いてくれないよりはマシだ。
「これでも学年で上位に入ることもあるんですけど」
しぶとく食い下がる麻琴に更に追い打ちを掛ける。
「知識と賢さは比例するとは限りません」
「先生のバカ」
早くも言い返せなくなったらしい。
「また同じ会話を繰り返したいんですか?」
「……いいえ。教室に戻ります」
麻琴が歩き出すとノートが一冊落ちた。
「あ、櫻井さん落としましたよ」
拾い上げたノートを手に肩を叩くと悲鳴が上がった。
「うひゃっ、な、なんですか」
ついさっきまでの口論の勢いはどこへやら、日下を強く警戒して飛び上がった。
あの日からずっとこんな調子だから会話などままならなかったのだ。
「だからこれ、落としましたよ」
「え? あ、すみませんありがとうございます」
次々と降り掛かる災難に追い詰められ信用できなくなったというところだろう。
ノートを受け取ると麻琴は逃げるようにその場を立ち去った。
「もっかい高校生に戻りてぇ……」
「本音だだ漏れてんぞ」
思わず吐露した胸中。耳元で聞こえた声に血の気が失せた。声がした方へ目線をやると大谷がにやにやと笑っている。
「至近距離で驚かさないでください」
「弱音吐くならせめて裏でな」
日下の肩を軽く二回叩くと満足気に歩いていく大谷。
その背中に日下は大きく溜息をついた。
*
「修学旅行はまだ少し先ですが、今回の班行動はレポート発表にも繋がります。男女3名ずつの班をこの時間に決めてください」
日下の言葉を合図に皆思い思いに輪を作っていく。
麻琴たちが決めていたのはまだ女子のみ。
「お前らのとこまだ決まってないんだろ? 俺らと組もうぜ」
クラスでは割りと話す男子の中に久瀬がいた。
「いいけど……」
柚月が言葉を濁しながら麻琴を窺った。麻琴はニコニコと頷く。仮面が張り付いたような笑顔。
それには久瀬も気づいたらしい。柚月に目で大丈夫かと告げてくる。
異変に気付かないもう1名の女子は「良かったね、麻琴」と早々にまとめようとした。畳み掛けるように男子2名も「俺らも協力するから」と加わる。
「お前らこれ以上余計なこと言うと殴るぞ」
久瀬がすごんでも「照れ隠ししなくていーのにー」と誤解され意味がない。当の麻琴が全く否定意見を出さないので班はそのまま決まった。
期末テストが終わり夏休みが近づく。
“聞きみるもさすがに近きおなじ世に かよふ心のなどかはるけき”
声も姿もこんなに近くで感じるのに。心は遠い。同じ空間で同じ時間を過ごしているのに。




