30. 昔はものを 思はざりけり
「先生、相談したいことがあるんですけど」
「ん、わかった。委員長、深山、30分ほど席外してもらっていい?」
生徒が大谷のところへ来るのは珍しいことではない。
聞き上手で冷静にアドバイスもしてくれる。それを求めてやってくる生徒の比率は女子が圧倒的に多い。
彼女たちの下心はかわいいもので先生と話がしたい、自分だけとの時間が欲しいといったもので大抵は話をすれば気が済むらしい。
昼休みに来ることが多いらしく、柚月はそういった女子生徒をあまり目にしたことはない。保健室当番をしている放課後たまに訪れるのを何度が見たことがある。
そんなに一緒にいたいなら保健委員に立候補すればいいのにと同級生に以前尋ねてみたことがある。
忙しさに明け暮れて先生と話す時間などなさそう。それなら先生と二人で話せる時間を多く持てる方が効率的だと返ってきた。
「大谷先生って何気にモテますよね」
保健室を出た二人は飲み物を買いに出掛けた。10分ほど歩いた中庭に面した場所に自動販売機が置いてある。
「純粋に相談があるんでしょ。そんなに勘ぐっちゃ悪いわよ」
「あんなに瞳うるうるさせて相談ですか?」
ガコン。
「……目にゴミでも入ったんじゃない」
取り出し口に屈んだところを深山が覗き込んでくる。
「……泣きそうな顔してますね」
「深山がそう言うならそうなんじゃない」
「なんですかその投げやりなの」
柚月は中庭のベンチ目掛けて背中からドンと座り込んだ。
「先生を憧れる気持ちはわかる。自分ができないことを目の前で次々とこなされたら誰だってカッコイイと思うもん」
ミルクティーをコクッと一口飲んだ。今日はやけに甘ったるく感じる。
「先輩はそれとは違うんですか?」
「憧れもなくは、ない」
持て余した缶をゆっくりと左右に振った。中のミルクティーがゆっくりとグルグル回る。
「でも最近はちょっとわからなくなってきた」
「そういう弱音を吐くから付け込まれるんですよ」
ガコン。
買った飲み物を手に深山も少し離れて隣に並んだ。
「俺を好きになれば、そんな風に思わせませんよ」
手の中で遊んでいたミルクティーを置いて呆れたように肘掛けに頬杖をつく。
「深山のその自信はどこから出て来るの?」
「ほら俺、大谷先生よりイケメンでしょ?」
大真面目で答える後輩に鼻から息が漏れた。
「そこは笑うタイミングじゃないですよ」
不本意そうに答えるのがまたおかしい。
「それに頑張ることを諦めたらきっとこの先進めなくなりますから」
冗談のような言葉の中にさらっと本気を混ぜてくる。
自分が諦めそうになっていたとき背中を押してくれたのは深山だ。深山といると心が軽くなる自分がいる。
大谷の言葉には大人の本音と建前が入り混じっていて、どれが本音かいつまで経ってもわからない。
「深山は頑張り屋だよね。いつも一生懸命で。でも疲れたりしない? たまには愚痴ってもいーのよ、この先輩に」
「ぜん……っぜん強がれてねーし……っ」
弱気になっている自分を隠そうとして失敗した。深山が口を押さえ肩を震わせている。
深山はひとしきり笑って落ち着くとはぁっと息をついた。
「そういうところなんだよなぁ……」
「え?」
深山はバンッと勢い良く自分の両膝を叩くと立ち上がった。
「よし。次の土曜日。デートしましょう」
とびっきりの良いことを思いついたかのように。目をキラキラとさせて柚月を振り返る。でもそんな柚月は気分にはなれない。
「だから行かないって」
「俺、ご褒美まだもらってません」
「やだ」
「好きな人と出掛けたいって思うのはダメですか?」
「……いつよ」
深山が小さくガッツポーズをした。
まっすぐに想いをぶつけられることなんて今までなくて、適当にあしらえばいいやと最初は思っていた。でも悪気ない彼のペースになぜだか乗せられる。
「いつがいいかなぁ……先輩どこ行きたいですか?」
頭に浮かんだのはテレビで観た色とりどりの魚が大きな水槽の中で泳ぐシーン。
「水族館」
「りょーかい」
「次の土曜日なんてどうですか? 俺、今月末までのクーポン持ってます」
「いいよ」
大谷に知らせるのはやめた。どうせも止めもしない。
*
「水族館なんていつ振りだろ」
「俺も来たのは久し振りです」
“いろ、わざ、すがた”など7つのテーマで構成された水族館。
そこにいる生き物はそれぞれのテーマで集められていて種類の区別なく共存している。
一面ガラス張りで薄暗いイメージの水族館なんてここにはない。
「テーマに沿って展示されてる水族館なんて珍しい」
「面白いですよね、こういうの」
水族館に入ってからというもの、深山が柚月の傍らにいた試しがない。子どものようにはしゃぎまわって全然落ち着かないのだ。
デートなんて単なる口実でほんとは遊びたいだけだったんじゃないだろうか。
「生き生きしてるなぁ」
休憩がてらに入ったカフェは天井が高く広々としていてとても屋内とは思えない場所だった。コンセプトはピクニックらしく、たくさんの緑がありその中に木製のテーブルと椅子が点在している。たくさんの窓から射す光は空間を優しく照らしてくれている。
店内をゆっくりと見て回る後を柚月もゆっくりと追い掛けた。
見たことない場所を歩くのは面白いが、百面相をする深山を見ている方がもっと面白かった。
ひとしきり見て回ると空いていた席に上着だけ置いて2人でカウンターへ向かった。
メニューはサンドイッチやハンバーガーがメインのもの。
柚月はカマンベールチーズとくるみの入ったホットドッグと苺のたくさん入ったソーダ、深山はビーフとレンコンが入ったハンバーガーとミントとレモンの入ったソーダを注文した。
出店のようなカウンターの傍で少し待っていると深山がトレイを片手に先程のテーブルを指差す。柚月は手伝いはいらないと受け取って先にテーブルについた。
少し遅れて、深山が注文した食事を載せたトレイをテーブルに置いた。
「すみません、ずっと放置気味で。こういう新しいコンセプトのものを見ると楽しくて」
「いいよ。離れて見てて楽しかったから」
退屈することはなかった。
柚月もどっちかと言えば集中すると周りが見えなくなる方なので気を使わずに過ごしてくれた方が助かる。
「俺としては不満を言ってくれた方がいいんですけどね」と深山が小さくぼやいてハンバーガにかじりついた。柚月もホットドッグをかじる。
「実はうちの居酒屋を改装しようかと考えているんです」
「まだ高2なのにそこまで自由にさせてもらえるんだ」
跡継ぎとはいえ本格的だ。
深山は手のひらを顔の前で大きく振って否定する。
「いきなり改装なんてさすがに許してくれませんよ。俺も両親が大切に作ってきた店を誇りに思ってますから。でも近寄りがたいかなと思うんです。昔ながらの居酒屋はアットホームでゆったりくつろげるかもしれない。けどご新規さんや若い人たちには敬遠されるんですよね。常連さんだけではやっていけない。いろんな人たちを呼ばないと店も続けられなくなります」
思わぬところで聞いた深山の思い。
彼のひたむきさはこういうところから培われたのだろう。
「ねぇ、深山」
「はい」
「なんで深山は私が好きなの?」
飲みかけたソーダに深山がむせた。
「……なんですか、突然。それ本人目の前に言えと?」
「うん」
机に肘をついてじっと見た。
「柚月先輩ってサディスティックですよね。知ってましたけど」
「深山だって真っすぐなんだから同じじゃん」
「それとこれとは違います」
横を向いていたかと思うと急に挑戦的な態度で見つめ返された。
「好きに理由いりますか? 挙げていけばキリがないですよ。それでも?」
深山は柚月から一切目を逸らさずに言い切った。
自分で言い出したものの柚月は今更になって恥ずかしくなってきた。深山を煽ったのかもしれないと後悔した。
「……やっぱいいや」
先に目を逸したのは柚月だった。深山はまだこっちを見ているのが気配でわかる。
「きっかけは去年の体育祭、ですかね」
「なんかしたっけ」
「大谷先生が救急用品の補充をするって言って柚月先輩連れて俺一人にしたことあったでしょ」
「……あの時はほんとにごめん。帰ってきたら深山が死んでたね」
決まり悪そうに両手を合わせる。
「大谷先生は具体的な指示出しはしてってくれましたけどあとはがんばれって放置で。保健委員会入って間もない、初の大イベントに一人ですよ!?」
「うん、ごめん」
「先輩は俺に謝りながらも“お願いするね”って言ってくれたでしょ。それで頑張れました」
「え、それだけで?」
驚いて目を剥く。
「入ったばっかのペーペーの俺を信じて任せてくれたってのがわかったから。どうでも良かったら声なんて掛けずに大谷先生の後ついてくだけでしょ。まぁもっと早く戻ってきてくれていたらもっと良かったんですけどね」
ソーダを飲んで話を続ける。
「それから先輩がみんなにそれぞれ声を掛けているのを見ました。先輩、ちゃんとその人のこと見て掛ける言葉変えてるんですよね。ああ、この人は上辺だけで話をする人じゃないんだな。そう思ったら好きになってました」
なんだか自分が大谷を好きになった理由と少しだけ似ていた。
「なんで泣いてるんですか、先輩」
言われて頬に手を当てると指先が濡れた。慌てて鞄からミニタオルを取り出し顔を押さえる。
「私もそうやって大谷先生好きになったなーって思い出した」
はぁっと深山が大きく溜息をついた。
「それを今ここで言いますか。なんなんすかもう」
そう言いながらも深山は笑っていた。
「妬いてんの?」
「妬いてるに決まってるじゃないですか。先輩バカ?」
泣いた気恥ずかしさを隠そうとからかい攻撃に出たのに。
あっさり形勢逆転されてしどろもどろになる。
「ば、ばかじゃない!」
顔が赤いのが自分でもわかる。両手を頬に当てると驚くほど熱をもっている。
「先輩。そのままぜっ、たい、こっち向かないでくださいね」
「えっなに?」
そう言われると気になるのが人間というものだ。自分の顔のことなど忘れて深山の方を見る。深山は下を向いて顔を押さえている。
「俺が良いって言うまでこっち見ないでくださいね」
そういう深山の耳が赤くなっていたのを柚月は見逃さなかった。
“逢ひ見ての後の心にくらぶれば 昔は物を思はざりけり”
一途に思えば思うほど、好きな人のそばにいるのはつらくて。片思いの頃とは比べ物にならないほど気持ちは重くて重くて仕方ない。




