3. 人の問ふまで
「櫻井さん、カーテン開けても大丈夫?」
静かな優しい声で麻琴は目が覚めた。
「はい、大丈夫です」
シャーッというカーテンを引く音と共に、優しく笑う大谷の顔が見えた。
「具合はどう? 随分眠ってたね。今5時限目の途中だけどどうする? 何か食べられそうなら買ってくるけど」
麻琴はまだはっきりしない頭をゆっくり左右に振った。
「初めましてだよね」
不可解な挨拶に麻琴が不思議そうに大谷を見つめる。
「え? 先生とは何度もお会いしてます……よね」
いろんな場所で転ぶ麻琴は、よく保健室の救急箱のお世話になっていた。柚月に手当をしてもらっている向こう側で大谷が仕事をしているのを何度も見たことがある。
「日下の友人の大谷静人です」
「え」
慌ててベッドの上で居住まいを正した麻琴は勢いよく頭を布団に付けた。
「あの、不束者ですがよろしくお願いします!」
頭を下げられた大谷は盛大に吹いた。
「あはははははっ……うん、よろしく」
右腕を腹に当て笑い続ける大谷。立っていられなくなったのか、傍の柱に手を当てて笑っている。
「たすが櫻井さんを好きになったのなんかわかった気ぃする」
そう言って麻琴ににっこりと笑い掛けた。柔らかい微笑みになんだか照れてしまい麻琴は俯いた。
大谷は傍らにあったパイプ椅子を引き寄せて座った。
「たすって?」
麻琴の言葉に大谷が頷く。
「櫻井さん」
「はい」
急に名前を呼ばれて麻琴は再びベッドの上で正座した。
「たぶん君が考えている以上に、君たちの関係はいろんな危険をはらんでいる。たす、いや日下先生はその全てをわかった上で君といることを選んでる。それは覚えててね」
「はい」
大谷が自分たちを心配してくれているのは伝わってくる。でも咎められたようで麻琴は肩をすくめた。
大谷は麻琴の様子を見ながら言葉を続けた。
「寝不足だったのはそのせいだったんでしょ。ごめんね、少しキツイ言い方して。どうしても付き合い長い方の肩持っちゃうわ。でも間違いなく、俺も櫻井さんの味方だから。何かあった時はここにおいで。伊達に養護教諭やってないよ」
話の最後に見せた笑顔に麻琴はやっと安心できた。
「ありがとうございます」
その後の記憶は覚えていない。
*
チャリ。
再度保健室に訪れた日下の手のひらに大谷が鍵を置いた。
鍵についている小さなプレートには“保健室”と書かれている。
「これなんですか」
胡散臭そうに手の中の鍵を見つめる日下。
「俺これから出掛けるから。帰ってくる時は連絡するからそれまでここ使ってていいよ」
変な気持ちはしたが、話している途中で誰かに聞かれても困るので大人しく受け取った。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
素直な日下に大谷が真面目な顔で言った。
「間違っても襲うなよ? 俺そんな職場で働けるほど冷静じゃないから」
「自分で自分の首をしめることはしませんよ」
大谷は真面目な顔して冗談を言える人間だ。日下は冷静に返す。
簡単に茶化しを受け流され、大谷はつまらなさそうに保健室を出て行った。
「櫻井さん? 入りますよ」
返事がない。
少し開いているカーテンの隙間から中の様子が見えた。麻琴はまだ眠っているようだ。
音を立てないようにゆっくりとカーテンを開きパイプ椅子をベッドの傍まで移動し、座る。
風が吹いて麻琴の髪がサラサラと流れて顔にかかった。
掛かった髪をそっと払おうと、右手を差し出す。その拍子に目を開ける麻琴。
日下が慌てて手を引っ込める。
「……先生?」
目覚めたばかりの彼女は気付いていない。
静かに声を掛ける。
「起こしてしまいましたか?」
「ちょうど起きたとこです。目が覚めたら先生がいて安心した」
言葉とは裏腹に不安げな表情の麻琴。
「なにか、悩み事があるんじゃないですか」
麻琴がキュッと唇を一文字にする。その様子に心が痛む。
「僕じゃ頼りになりませんか?」
麻琴が左右に首を振る。そして意を決して告げる。
「先生、ごめんなさい」
日下は麻琴の謝罪に何も答えない。怖くなったがそのまま続けた。
「1人だけ話していいよって言ってくれたでしょう?」
静かに日下の声が返ってくる。
「はい。で、誰に?」
日下の問いに麻琴はゆっくりと答える。
「同じクラスの小薗柚月さん」
「そうですか。彼女なら安心ですね」
「どういう意味ですか」
その返事に麻琴は不満そうに呟く。
「僕が取りこぼしてしまったものもフォローしてくれそうなので」
「私そんなにうっかりしてません」
「どの口が言うんでしょうね?」
と、日下が麻琴を見つめた。
「すいません、失言でした、だから」
――その手でまた口を塞ぐのはやめてください。
最後まで言えずに下を向く。
日下は立ち上がろうとしていたのをやめて最初に言いかけたことの続きを要求した。
「で、櫻井さんが謝ったのは何に対してですか」
「その、私達のことを他の人にも知られてしまったから」
言ってしまってから麻琴は目をつぶった。でも日下の反応が気になって薄目を開けつつ様子を窺うかがう。日下に驚いた様子はない。
「久瀬圭吾くんですか」
「なんで知ってるの先生」
驚かされたのは麻琴の方だった。
「僕は生徒の事ならなんでもわかるんです」
「……え、ちょっと気持ち悪い」
「不躾ですね。冗談ですよ。大丈夫ですよ、きっと彼なら。バラすと脅されているのなら別ですが」
先程慌てて引っ込めた日下の右手が、今度はちゃんと麻琴の頭を撫でる。手を頭に押しつけずにふんわりとなぞるように。
「すぐに僕に話せば良かったのに」
見る間に麻琴の目元に水が溜まっていく。
「なんで泣くんですか」
麻琴の頭をゆっくり撫で続けながら日下が言う。
「だって先生が優しくて」
「僕はいつも優しいですよ」
保健室にスンスンと鼻をすする音が聞こえる。
「櫻井さん。手、出してください」
手の上にぽんと置かれたのは着物の端切れ生地で作られた小さな袋。小袋からは懐かしいような不思議な匂いが漂ってくる。
「いい匂い。これなんですか?」
「匂袋です。昔は衣服を守る防虫剤として使われていました」
「防虫……」
麻琴が少し嫌そうな顔をして匂袋を眺める。
「香料を使い始めたのは古代エジプトが起源と言われています。そこでは神聖なものとして扱われ、悪を排除し悪から身を守るものと考えられていました」
「……それを先生が身に着けてるってことは私は悪ですか」
急に目の前のかわいい巾着が自分の敵のように思えてくる。
麻琴が日下を非難の目で見つめた。日下がクスリとした。
「誰もそんなことは言っていませんよ。それに僕のではなくて櫻井さんのです」
言われたことが飲み込めず、麻琴は首をかしげる。その仕草に日下は笑みを浮かべた。
「持っているといいですよ」
「何の為に?」
「虫よけに」
日下は麻琴にはわからないプレゼントの真意を伝える。
「よくわかんないけど先生からのプレゼントって初めてですね。嬉しいです」
「大事にしてくださいね」
淡々と告げる日下。でも今日はそんなこと気にしない。
「はい」
麻琴は愛おしそうにもらった匂袋を優しく握りしめた。