19. 岩うつ波の おのれのみ
「委員長が保健委員長としての任期の間にオレの好きな紅茶の味を出せたら委員長の勝ち。出来なければオレの勝ち。勝ったら……どうするかは勝ってから決めよっか」
まるで愉快なゲームを始めるように。さっきとは想像もつかないような笑顔で大谷がそんなことを言った。
「それって賭けって言うんですか」
どう考えたっておかしい。勝敗の基準があやふや過ぎる。大谷は表情を変えもせず追い打ちをかける。
「嫌ならこの話はこれで終わり」
そう言って大谷はクルッと背を向けた。
他に方法はなかった。柚月が食い下がる方法なんて。
「その賭け……乗ります」
保健室を出ると入口の前で深山が立っていた。形容しがたい妙な表情をしている。
「あれ、深山もう日直終わったの? お疲れさま。今日はもう生徒も来ないし帰っていいって」
深山の表情は動かず、その場から動こうとしない。
「どしたの? 深山」
深山は何も言わず突然柚月の手首を掴んで正面玄関とは反対の方向へ歩き出した。
「どこ行くの、ね、下駄箱と反対方向……」
「誰も来ないところ」
屋上の鍵はいつも閉まっていると思っていた。
屋上へ通じる階段を登りきった深山がドアノブを回すとドアはいとも簡単に開いた。
「屋上の鍵って開いてたんだね」
「小薗先輩みたいに考えてる人が多いから結構穴場なんですよね、ここ」
掴まれた手首はそのままに歩き出すので柚月もそれについていくしかない。それでも手首を掴む力はもうほとんどなくて添えているだけだ。
座れそうな場所を見つけると深山は柚月の手を離してその場に座り込んだ。柚月にも座れと深山が地面を叩く。仕方なくそれに従った。
「誰にも聞かれたくないかなと思って。ここまで無理やり引っ張ってきてしまってすみません」
あぐらをかいた深山が両膝に手をついて頭を下げた。
あまりにも強引な連れ出し。自分の為に場所を考えてくれたと思うと怒るに怒れない。
「びっくりしたけど、大丈夫。聞かれたくないことって何?」
わかるはずなんてないと、柚月はシラを切る。
「大谷先生と何話してたんですか」
すぐに深山の問いに答えられなかった。
「先輩」
いつもの明るい深山とは全く違う。鋼のような硬い表情でじっと柚月を見つめている。
それでもはぐらかそうと試みることにする。
「ちょっと次の定例会議のことについてね」
「誰かが来るような場所で秘密の話はやめた方がいいですよ」
安易なごまかしには掛からず深山は追及の手を緩めない。
「ねぇ、先輩。賭けって何?」
言い回しの雰囲気を変えて深山が質問を繰り返す。言葉は柔らかくなったのに目は据わっている。
こうなってはもう深山を欺くことはできない。
「いつから聞いてたの?」
やっと答えられたのはそれだった。
開き直ったつもりで腕を組んでみたが落ち着かない。指で触れた袖をギュッと握った。
加えて深山と目を合わせることもできないので虚勢なんて張った内に入らない。
「賭けをしようかってところから。入口の近くで話してたから聞こえたんですよ。ほんとはもっと前から居ましたけど」
思わず深山の顔を見た。
深山は右手を顔の前で勢い良く振って否定をする。
「聞こうと思って聞いたわけじゃないですよ。保健室に入るタイミングを窺ってたんです。そしたら聞こえてきたから」
彼はバツが悪そうに俯き加減でモゴモゴと言い訳した。そして「聞いたのが俺で良かったですね」と言い置いて続けた。
「賭けの内容も聞こえました。二人の間に何があったかはよく知りませんけど、先輩が邪魔だからそうやってお茶を濁してるだけなんじゃないですか? 大谷先生」
「違う」
鋭く尖った否定の声にも深山はやめない。
「そんな風に委員長の任期が終わるまで時間稼ぎするつもりですよ」
「先生は……」
「ズルくないって言えますか?」
柚月は否定できず、でも肯定もしたくなかった。
「とにかく賭けに勝てばいいだけだから」
「じゃあ、その紅茶のヒントもらえたんですか?」
次々と畳み掛けられる不公平な賭けを改めて感じ、負けてしまいそうになる。握った拳と合わせて唇にも力が入る。
「ほら、先輩騙されてますよ」
賭けに勝てば先生が私を好きになってくれると思っていた。
だから敢えてズルい賭けにも乗った。どんどん追い詰められるこの状況から逃げ出せると思った。
「嘘だ」
椅子から立ち上がってから走り出す間にどうせすぐに捕まってしまう。立っていたとしても逃げ切れる自信はないが。
「嘘って言い切れますか? だって大谷先生って心理学やってたんでしょ?」
「それがなんの関係があるの」
キッと深山を睨みつけた。
八つ当たりだと言うことはわかっている。でも。
「ありますよ」
深山はしたり顔で言う。
「どれだけこの仕事やってんのか知りませんけど、話すことに掛けちゃプロなんですよ、あいつ」
“あいつ”という部分を強めて深山が毒づいた。
そう、先生のズルさを私は知っている。
「強情ですね、先輩も。まぁそういうところが好きになったんですけど」
「深山、ご」
「謝らないでくださいね? 俺は諦めませんから」
ふいにストレートな想いを挟んでくる深山。それ以上言葉にすることはできなくなってしまった。
自分の中で理解したくなかったくすぶっていた思いがどんどん形になるのがわかった。
*
「まだ忘れてませんよね? 彼女のこと。だからあんな賭け持ち出したんですよね?」
やっとのことで屋上を飛び出して保健室に戻った柚月は開口一番、そう大谷を問い質した。
大谷はちらりと柚月を見たが再び視線を読んでいた本へ戻した。
「忘れることと賭けに関係ある?」
負けるな、自分。
柚月はずんずんと大谷の傍まで向かって進んだ。
「あります。賭けになりません」
パタンと大谷が本を閉じた。
けして大きな音ではなかったのに柚月の耳にはやけに響いた。
「じゃあ委員長は染み付いた癖をすぐ直せって言われて、できる?」
何か言い返そうと口を開いてみるが言葉は何も出てこない。
「それと一緒」
大谷が柚月の様子に当然だというように一言で片付けた。
大谷にとって既に彼女は一部になっている。
柚月はそのことを改めて痛感させられた。




