14. 恋しかるらむ
抜けるような青空の下、体育祭の目玉の一つである色別対抗リレーが始まった。
胸の前でぎゅっと拳を握って目の前を走る想い人に見入る麻琴。応援の声さえも躊躇するその姿に柚月は心が痛む。
「1位は青組、日下先生!」
敵チームが勝ったと言うのに青組以外のところから次々と歓声が上がる。
柚月は麻琴の手首を掴んで歩き出した。
「ちょっと待って柚月」
「こんだけ人がいれば紛れてわかんないわかんない」
――気持ちを伝えなきゃいつ伝えるっていうの。私なら後悔したくない。
日下の目の前に置いても麻琴は日下を見つめたまま何も話せないでいる。
成り行きを見守っていたかったが、時間だ。柚月は救護班のテントへ向かった。
「後悔するわよ」と言い置いて。
「おかえり、委員長」
「どうも」
大谷は座っているパイプ椅子を前半分浮かせ、後ろ手を組んでいる。
彼が前後に揺れるたび、椅子がギッギッと音を立てる。
そのままバランス崩して倒れればいいのに。柚月は不届きなことを考える。
「よくやるよ、あいつ」
大谷の視線の先にあるのはグラウンド端。トラック種目のゴール地点。
「日下先生ですか?」
やっと日下と話せたようだ。遠目に嬉しそうな麻琴の顔が見える。
「努力とは縁のないあいつが練習してたからね。笑える」
ギッ、トン。
大谷が傾いていた椅子を戻した。
「へぇ、日下先生にそんなところあったんですね」
感嘆の声を上げると大谷はさも当然だという顔をした。
「まぁ完璧主義だからな」
「ああ」
日下の歴史の授業は分かり易い。反面、細部に渡るまで構成された講義は一分の隙もない印象を受ける。
ふと麻琴に視線を戻すと日下に何かを言われたのか恥ずかしそうに下を向いた。
「ところで委員長。この色別対抗リレーで負傷者が多くてもう備品がない」
「はい」
悠々と何を当たり前のことを。
どうすればいいのかは明白だが自分から動くのは億劫だ。
「補充するから保健室までついてきて」
柚月の返事を聞く気はないらしい。
すでにもう1人の保健委員にこの後の処置を伝えている。
何やら抗議の声が上がっているようだが大谷は気にせず保健室へ向かって歩き始めた。
1年生の保健委員に柚月からも再度お願いをする。
「ごめん、深山。先生、言い出したら聞かないから。私も手伝ってくるからその間ここ、お願いするね」
「しょうがないですね。小薗先輩がそう言うなら。でも一人でできること限られてるんで、なるべく早くお願いしますね?」
深山と呼ばれた男子生徒がやれやれといった感じで返事をした。
柚月は胸の前で手を合わせて“ごめん”のジェスチャーをすると、走って大谷の後を追い掛けた。
「計算して持ってきてくださいよ、先生」
保健室への道すがら柚月がクレームをつける。
体育祭のプログラムは予めわかっていたのだから準備はできるはずだ。
「あんな埃っぽい場所にずっと置いておいたら不衛生でしょ。それぐらいわかんない? 委員長」
大谷の正論に何も言い返せなかった。
保健室へ着く早々、窓の外で歓声が沸いた。
大谷が保健室の空気の入れ替えついでに外を眺める。
グラウンドには白い紙を持った生徒があちこちに散らばって走り回っていた。目標を見つけた選手から順に対象物や人を連れてゴールしている。
「ああ借り物競争か」
「あ、麻琴が出るって言ってた」
大谷の声に柚月も窓へ駆け寄る。
紙に書いてある借り物は体育委員が予め決めたものらしい。中には突飛なものもあり、たまにゴールできずに終了させられる選手もいる。
スタートの合図とともに、第2陣の選手が数メートル先置かれた、借り物の書かれた紙が入った箱目掛けて一斉に走り出した。麻琴もその中の一人だ。
紙を引いた麻琴が中身を読んで少し考えている。そして周囲を見渡すががすぐに肩を落として立ち尽くした。他の選手は各々、紙を片手に散り散りになっていった。
「なんて書いてあったんだろう」
視界の端からトラックまで走っていく人影が一つ。その人物は麻琴に近付いたかと思うと紙を奪い取り中身を眺めた。そして麻琴の手を掴んでゴールまで走り出した。
「例の男子ってもしかしてあいつかぁ……」
呟きの意図がつかめない柚月は視線を大谷へやった。
ところが次の大谷の発言はそれに対するレスではなかった。
「いーねー青春って感じで」
麻琴を連れた久瀬は次々と先発の選手を抜き、あっという間に1位でゴール。
それとともにグラウンドに反響した歓声が耳に入ってきた。
麻琴のもとへ駆けつけた久瀬はさながら姫を助ける王子様のようだった。
「……いいなぁ」
思わず漏れた言葉を大谷は聞き逃さなかった。
「委員長はああいうの好み?」
いつの間にか持ってきていた椅子に座り、窓枠に頬杖をついた大谷がからかうように柚月を見ていた。
「羨ましいなぁとは思いますよ」
大谷の茶化しをはぐらかすつもりが思わず本音が出た。
「委員長も乙女なのねー」
「おじさんみたいなこと言わないでくださいよ」
ケラケラ笑う柚月に大谷が少しいじけたように横を向いた。
「君たちから見ればおじさんですよ。25だもん」
「先生たちって年齢不詳だから改めて聞くと変な感じですね。若いとかベテランの先生だなとかいうのはわかるんですけど」
納得がいかないという風に口元に手を当てる柚月。
それを見た大谷が少し困ったような顔をする。
「まぁ委員長たちからしたら次元が違うってのは言い過ぎだけど違う世界の人間だろうしね。俺も学生の頃はそう思ってた」
大谷の答えを聞きながら柚月は再びグラウンドに視線を戻した。
借り物競走はまだ続いているようで、あちこちで選手が対象を求めて叫んでいる。
大谷が飽きてしまったのかベッドへ寝転ぼうとするので柚月はシャツの裾を掴んだ。
「堂々とサボらないでください大谷先生。深山が1人で頑張ってくれてるんですから」
「だって面白いの終わっちゃったんだもん」
と、つまらなさそうに窓の外を眺めた。
「委員長さ、日下先生と櫻井さんのこと知ってる?」
柚月は驚いて掴んでいたシャツの裾を離してしまった。それからゆっくりと大谷へ視線を向ける。
大谷はグラウンドを眺めたままだ。顔色が読めない。
「大谷先生って確か日下先生と同じ大学でしたっけ」
日下と繋がっている理由を思い出した。
「そー。学部は違うけど高校からの腐れ縁」
「苦労しますね、日下先生も」
「苦労掛けられてるのはむしろ俺の方。まさに今も」
そう言って大谷は柚月を見た。建物の中に入っても涼しくねーなとTシャツの襟元を摘んで中に風を送りながら。
「ご存知なんですか、二人のこと」
大谷はやけに勿体ぶった言い方をする。もしかしたら試されているのかもしれない。
「たすに直接聞いたよ。櫻井さんと付き合ってるって」
「たす?」
「あ、日下先生のことね。委員長もそれ知ってるからリレーの後、櫻井さんをたすのところまで連れてったんでしょ?」
よく見ている。
こんなスキャンダラスなことがバレたら困るのは圧倒的に教師サイドだ。口火を切ったのがそちら側なら大丈夫だろうか。
柚月は少し警戒を緩めた。
「ええまぁ」
「友達思いだね、委員長は」
子どもでもあやすかのように笑う大谷。
柚月は大人のこういうところが好きになれない。なんでも自分の方が優れていると言われているようで。
「友達思いっていうか見ていられなかっただけです」
再びグラウンドに視線を移した。
借り物競争はもう終わっていた。次の種目の選手の呼び出しが掛かる中、選手たちが借り物を返す姿が見えた。
「何を思ってそんな面倒なことするのか俺にはわからないけどね」
「面倒そうなのに、と思う反面羨ましいと思います」
友人ならてっきり日下の肩を持つのかと思った。
大谷と少しは気が合うのかも知れない。柚月は思っていることを話した。
「どうして?」
外を眺めながら大谷が返事をした。
「私に日下先生のこと話してくれたときの麻琴の顔。あんな嬉しそうな顔初めて見たから。日下先生は麻琴のことを考えた上でリスクを犯したのかなって」
ふーん。と大谷が気乗りしない相槌を打つ。
「自分で抱えきれないから俺に話したのかと思ってたんだけど、結果的には櫻井さんの為だったわけね。なんだよ、養護教諭の俺を利用したのかあいつ」
柚月が堪らえきれずに吹き出した。
いじけたように話す大谷がなんだかおかしかった。
「そんな風に想われるのっていいなぁって思ったんです」
「そんな恋愛したことないの? 委員長は」
「残念ながら。こんな口の悪い女なんて可愛げなくて誰も見向きもしません。大谷先生も私みたいな人間より麻琴のような素直な子の方が仕事もやりやすいでしょう?」
軽い自虐的な冗談を混ぜた返事だ。相手も笑って流すと思っていた。
「ほんとにそう思ってる? 委員長」
じっと射るようなその瞳に嘘をつけなかった。
「……いいえ」
「だったら心にもないことを言って自分を貶めちゃだめだよ」
「……っ!」
悲鳴を飲み込んだ。
こうやって保健室にくる生徒をたらしこんでいるのだろうか。
いい加減なのにいい加減じゃない。
「まぁ一生に一度くらいはいいかもね、リスクを犯すっていうのも。すごく疲れるけど」
最後の一言が引っ掛かった。
続きを促そうとすると大谷が右手を差し出してきた。
「あの二人のためにここは協定を組むってことで」
「先生の中に協力者がいる方が何かと便利そうですしね」
上手いことを言って逃げられたような気もするがここはそれに乗っておくことにした。
彼の大きな手を軽く握ると力強い握手が返ってきた。
“みかの原わきて流るる泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ”
大谷のことは流れてくる噂だけで、今までまともに話したことがなかった。それなのにこんな気持ちになるなんて。
あーめんどくさい……




