11. 年経とも変はらぬ物か
「今日はこのまま家に帰れ。家には早退したとかなんとか言っとけばだいじょぶだろ?」
久瀬の言葉に麻琴は下を向いたままこくんと頷いた。
確認はしていないが、目が相当腫れているだろう顔を見られたくなかった。
「久瀬くんは?」
「俺は鞄置きっぱなしだし、学校戻るよ」
「そっか」
「また明日な」
「うん明日。今日はありがとう」
少し歩き出したところで久瀬が立ち止まった。
麻琴が何かあったのかと様子を窺った。
「その香り、お前っぽいよな」
「そうかな」
麻琴は柑橘系の香りのする匂袋に鼻を近づけた。
*
久瀬が学校に戻る道の途中、目の前で一台の車が止まった。
車の持ち主はすぐにわかったが、久瀬は無視して通り過ぎた。
今一番見たくない顔だ。
その人物は激しく運転席のドアを閉め、こちらへ向かってくる。
「サボりとはいい度胸ですね」
久瀬はゆっくりと日下に視線を移した。
その目は軽蔑するように冷たい。
日下はというとポーカーフェイスのままで何を考えているのかわからない。
久瀬に近付くとふわっと知っている香りがした。
「櫻井さん知りませんか?」
「櫻井なら家に送っていった」
麻琴のことを教えるつもりはなかった。けれども日下に伝えたかったのだ。自分といたことを。
「そうですか、安心しました」
安堵をしたように聞こえるのに日下の表情は相変わらず崩れない。
それが久瀬の導火線に火をつけた。
「それだけかよ」
低く、久瀬が呟いた。
しかしその声は日下には届いていないようだった。
「今からでも授業に戻りなさい」
麻琴を泣かせた張本人。
それなのに、いつまでも教師然とするその振る舞いに黙っていられなかった。
力を入れ過ぎたせいで手のひらがチリっと痛んだ。
「言うことはそれだけかって聞いてんですけど」
今度は日下に聞こえるように大きく放った。
日下は視線を逸らさずに久瀬に返した。
「君に伝えることは何もありません」
端から自分を相手にしていないような態度が気に入らなかった。
体育祭のときも文化祭のときもマラソン大会のときも。
いつもいつも、日下は一段上からものを見ていてどんなにあがこうとも無駄だと言われているような気がしていた。
「君の入る隙なんてありません」
真っ直ぐ久瀬を見つめた日下がもう一度返した。
「自分で言うな」
負けじと久瀬も返したが、こうも日下にストレートに言われては上手く言葉が見つからない。
「事実です」
久瀬は深く息をついた。
「そこまで言うんだったら証明してみせろよ」
「わかりました」
その言葉で日下は久瀬に背を向けて車に向かった。
「証明するんじゃなかったのかよ!」
肩透かしをくらった久瀬が運転席に向かって叫んだ。
エンジンを掛けた日下が窓から顔を出す。
「君に証明しても仕方ありませんからね」
その言葉を最後に車は走り去った。
「知ってるよ、そんなの」
久瀬がぽつりと言った。
*
麻琴のスマートフォンが振動した。
画面が表示したのは“日下 匡”。
麻琴は振動するスマートフォンをそのままに置いておいた。
そのうち振動が止まった。
――諦めるの早いよ。
そう思ったら今度はメッセージが届いた。
“今どこにいるんですか? 家に行ってもいませんでしたね?”
「先生、家まで来たの!?」
メールを開いて思わず叫んだ。
担任でもない教師が家にまで押し掛けたら、家族はなんて思うだろう。
まさか付き合っていると思わないだろうが、何かあったのかと聞かれることはまず、間違いない。
再度スマートフォンが振動した。今度はなかなか鳴り止まない振動音。
仕方なく麻琴はスマートフォンをスライドタップして受話口を耳に当てた。
「やっと出た。今、どこですか」
日下の声。
いくらか怒りの感情が含まれているように聞こえた。怒っているのはこちらなのに、何故怒らなければならないのか。
釈然としない麻琴は日下の質問に答えなかった。
「櫻井さん、どこにいるんですか?」
「先生に言う必要性がありません」
答えずにいれば諦めるかもしれないのに、思わず返事をしてしまった。
「学校サボって何をしているんですか」
「先生だってサボってるじゃないですか」
「今日は休講にしました」
「ズルい」
「電話でこうしていても埒があきません。直接話しませんか?」
日下のその言葉に麻琴は自分の居場所を告げた。
日下が麻琴を見つけたのは、二駅先の小さな公園だった。
麻琴はブランコに座っていた。
「探しましたよ」
麻琴はゆっくりと黙ってブランコを漕ぎ始めた。
「久瀬くんと一緒にいたんですか」
麻琴は答えない。
日下が、麻琴の乗っているブランコの鎖を右手で抑えた。
「先生に関係ないです」
日下の顔を見たくなくて麻琴は顔を背けた。
「関係なければ、わざわざこんなところまで来たりしません」
日下の匂いが更に近くなって、胸が苦しくなった。
頭のすぐ上で日下の声が響いた。
「無事で良かった。電話が通じなくなった時は生きた心地がしませんでした」
いつもピシっと整った姿なのに。
それが髪も服もぐしゃぐしゃ。
抱きしめられている状態でもそれは少しわかった。
「先生、本当のこと話してくれる?」
麻琴が日下に問い掛けた。
「はい」
麻琴に促され、日下は体を離した。
日下に抱きしめられている時はただ安心して居心地がよかった。
それが離れてみると麻琴は急に恥ずかしくなった。
ふと日下を見ると、彼も同じだったようで眼鏡のブリッジに手をやっている。
そして日下は言いづらそうに話を始めた。
「久瀬くんが見たのは……従姉です」
きまり悪そうな日下を見たのは初めてだった。
「いとこ?」
「修学旅行の下見に行ったのは本当です。時間が出来たときに……櫻井さんへの土産を買うのに、仕方なく従姉に付き合ってもらっていました。従姉は仕事の関係でそういうものに詳しいので」
日下はその従姉が苦手なのだろうか。
言葉に詰まりながら話す日下は新鮮だった。
「なんだ。そうだったんですね……」
聞いてみると話はなんてことない結末だった。
麻琴は軽く息を空を見上げた。
「話を最後まで聞かないのが悪いです」
日下が麻琴を責めた。
「だって先生、文化祭の後からずっとおかしかったもん!」
めげずに麻琴も応戦する。
「あれは……。僕は、櫻井さんに学校で何かあってもすぐに助けにいけないと思ってたから。そんな僕よりも、あなたはもっと周囲の人たちと関わっていくのがいいと思ったんです。あなたは空いた時間を僕にしか使っていないでしょう?」
寂しそうな顔で麻琴に確認を取った。
「それは私がしたくてしてることだって、言ってるじゃないですか」
麻琴が身を乗り出し気味に諭す。
「きっかけはどうあれ。久瀬くんと話しているのが楽しそうだったので、もっと世界を広げる方がいいんだと思ったんですよ」
日下が麻琴を真っ直ぐ見つめた。
照れくさかったが、目を逸らせなかった。
「でも頭ではそうは思っても、あなたを独り占めしたくて」
静かに両腕を再び背中に回される。ゆっくりと慈しむように麻琴を抱きしめる日下。
「僕のエゴであなたのこれからを縛りたくなくて。あなたが関わってくるまではと距離をおいていました」
「私は独り占めして欲しいよ、せんせ」
麻琴がそう言うと、背中に回った日下の腕の力が強くなった。
「だめですね、僕も。もうあなたのいない時間は物足りないんですよ」
「ほんと? 私だけじゃない?」
腕はそのままに少しだけ体を離した日下が麻琴の目を見つめて言った。
「本当ですよ」
体を離して日下が自分の胸ポケットを指差す。
意味を理解した麻琴は自分の胸ポケットから匂袋を取り出した。
「その匂袋の香り、櫻井さんはなんだか知っていますか?」
「柑橘系……ですか」
「そうです。正確には花橘。ミカン属の植物で今は季節外れですが、夏には白い花が咲きます」
「橘ってあの家紋ににも使われている植物ですか?」
「そうです。よく知ってますね」
「どうしてそれを私に?」
「橘の香りが櫻井さんらしいと思ったんです。爽やかで元気な感じが」
久瀬に言われたことを思い出した。
他人から見て自分はそういうイメージなのだろうか。
「それともう一つ。花言葉が“永遠”なんです」
麻琴は驚いて日下を見つめた。
日下は麻琴の右頬に手を当て言葉を繋げた。
「それが僕のあなたに対する気持ちの証明ってことで、許してもらえませんか?」
そのまま唇を塞がれて麻琴の息が止まった。
“年経とも変わらぬものか橘の 小島の崎に契る心は”
――櫻井さん。何年経っても僕の気持ちは変わりません。
*
さぁっと風が吹いて校門の薄いピンク色の花びらを撒き散らした。
教室に入ってきた教師を見て、生徒はざわざわとし始める。
それは麻琴も久瀬も柚月も例外なく。
麻琴が視線で教師を追う。
黒板にフルネームを書き終えた教師は、教壇に手を置き軽く息をつく。
誰ともなく話し声がやみ、静かになった。
「今日からこのクラスの担任になりました、日下です。よろしく」
「櫻井、知ってた?」
斜め前の席の久瀬が振り向いた。
「知らない」
寝耳に水の麻琴は、教壇の方を見ながらぶんぶんと首を振る。
「職権乱用じゃねーの?」
胡散臭そうに日下を睨んだ久瀬がぼやく。
「ありうるわね」
と隣から柚月。
「……先生はそんなことしないもん」
段々と麻琴は自信がなくなってきた。
「声色が物語ってるぞ」
「そんなことないもん」
「最後の1年、楽しくなりそうね、麻琴」
仏頂面の久瀬と笑顔の柚月に麻琴は目一杯の笑顔を返した。
第1集 香にほのめく 終わり




