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さやかに密か  作者: 青依 ヒイナ
第1集 香 ほのめく
10/40

10. 逢はんとぞ思ふ

 マラソン大会が終わると街は一つの話題で持ちきりになる。

 毎年豪華なイルミネーションを飾る家は今年、サンタがはしごを昇っている。夜に見たら不審者かと思うくらいリアルだ。

 イベントにかこつけたセールのお知らせがあちらこちらから歌に乗って聞こえてくる。

 浮足立った周囲の雰囲気に麻琴はいまいちついていけていない。



 下駄箱の傍で久瀬を見つけた。白いヘッドフォンはいつもの定位置。


「もう大丈夫なのか?」


 久瀬が、引きずり気味に歩く麻琴の左足に視線をやる。


「まだ少し痛いけどテーピングすれば歩けるから。昨日はありがとう、久瀬くん」


 そう言って紙袋を久瀬の前に突き出した。久瀬は紙袋の中をちらりと覗いて受け取った。


「目の前で倒れられたら寝覚め悪いからな」


 ぶっきらぼうに話す久瀬。それがなんだかおかしくて麻琴はつい笑ってしまう。照れ隠しのように見えたからだ。


「櫻井、前に言ってたあれ思い出した」

「あれ?」

「櫻井が持ってた匂袋のこと」


 久瀬が口ごもる。その表情から何かあるのだろうとはわかる。


「うん」


 なんだか嫌な予感がした。


「日下、あいつたぶん浮気してる」



 久瀬が止めるのも聞かずに、麻琴は朝の廊下を走った。

 ――前に見せてもらったあの匂袋。どこで見たか思い出したんだよ。というか匂い? 俺、あんまり香水とかつけないから余計覚えててさ。

 こんなに走ったのはいつぶりだろう。

 足の痛みよりも、サイズ大きめの上履きが脱げそうになることの方が気になった。

 ――連休に旅行先で見掛けた店先からこれと同じ匂いがしててさ。気になって匂いのする方向を見たら女が1人でお土産見てるところだった。後から来た男が――

 途中で廊下を走るなと注意されたがスピードは緩めなかった。

 ――日下に似てた。

 今日、日下に1時間目の授業があることは知っていた。

 麻琴は力いっぱい両手で準備室の引き戸を開けると勢い良く壁にぶつかった。

 その音に驚いて日下が顔を上げる。それが麻琴だと気付くとすぐに表情を戻した。


「足はもう平気なんですか? 昨日の今日で走ると悪化します。保健室へ行きましょうか」

「痛まないので大丈夫です」

「本当ですか? 痛む時は言ってくださいね」


 そのままパソコンの画面を視線を戻す。

 冷静さを失った麻琴とは対照的な日下。麻琴の様子がおかしいのは明らかなのに、平然としている日下にカチンときた。


「先生、この匂袋どこで買ったんですか」


 胸ポケットから出した匂袋を日下の目の前に突きつける。


「藪から棒に。ほら、一時限目もうすぐ始まります。歩きづらいなら僕の肩につかまってください」


 麻琴の形相と声の調子に日下が驚いている。

 自分の質問の答えが得られないので麻琴は再度繰り返す。


「どこですか」


 縋るような思いで日下に尋ねる。


「この間の連休、修学旅行の下見に行った時に見つけました」


 日下は麻琴を見たまま答えた。その表情にさして変化はない。


「それは……1人で?」


 口に出したくない。


「下見なんだから1人なわけないでしょう」


 当然だというように話す日下を見ながら麻琴がブレザーの胸ポケットに手をやった。


「女の人と二人きりで?」

「……いいえ」


 即答だった日下の返答のリズムが崩れた。胸の奥から次々と黒いものが込み上げてくるのがわかる。


「本当なんだ。これを選んだのもその人なんですね。だって匂袋なんて女の子っぽいもの、先生が思いつくわけないもん!」

「櫻井さん!」


 日下の静止もきかず、麻琴は社会科準備室を飛び出した。

 “似ていた”という久瀬の言葉に「他人の空似」だと返ってくるのを待っていた。

 でも、現実は違った。


 *


「何やってんだよ、保健室まで声響いてたぞ」


 声のする方へ視線を移すと、大谷が腕を組んで入口の戸にもたれていた。

 保健室はこの部屋の2つ先の並びにある。

 大谷が戸を閉めて準備室の中へ入ってきた。


「テスト終わって生徒が少ない時期で良かったな。マラソン大会の時といい、お前、最近自分のおかれてる状況、自覚ないだろ」

「……」


 大谷に言われて改めて気付いた。彼女が関わると自分は段々と冷静さを失っている。


「いいのか、あれ」


 麻琴が走っていった方向へ顎をしゃくる大谷。


「わびぬれば今はた同じ難波なる みをつくしてもあはんとぞ思ふ」


 そんなうたが口をついた。

 ――こうなってしまったらもう同じことだ。この身がどうなろうと君にもう一度逢えるなら。


「そんな暗いうたを呟くな。お前は隠居した貴族か」


 怒ったように突っ込みを入れる大谷に日下がしれっと教授した。


「せつない思いを表現した叙情的な恋のうたです。勉強不足ですね、静人」

「そういう答えを聞いてるんじゃねーよ。あと恥ずかしいことを平気で言うな。ああもう、ほんとお前鬱陶しいわ」


 大谷の呆れと苛立ちが伝わってくる。


「ああ、確かに」


 わかっているが自虐的な笑みしか浮かんでこない。

 そんな日下に頭をかきながら大谷が面倒くさそうに言う。


「そのうたのみ人みたいに、お前らは噂が立って会えないわけじゃないんだからシンクロする必要ないんじゃねーの」

「噂が立っているのは別の人物とですからね。むしろ好都合ですけど」


 何かと麻琴の傍に現れる彼が気に入らないことは確かだ。なら、いっそそれを隠れ蓑に利用してやればいいのだろう。

 と、言葉の上だけ強がって見せた。大谷にはそんなことさえバレていそうで、これ以上本音を話したくはなかった。


「フォローしてやれば可愛くないことを言う。もういいからさっさと行け」


 放り投げられた鞄と携帯電話を受け取り、日下は社会科準備室を後にした。


「……どれだけ苦労したと思ってんだ」


 麻琴に悪態をつきながら。


 *


 その場ですぐに叩き返せなかった。日下のプレゼントはまだ胸のポケットに入ったままだ。

 初めてもらったそれは本当に嬉しくて。常に傍に置いて、制服を着る時は胸ポケットに入れて。少しでも先生を感じられるように。嬉しいと同時に離れてしまうことが怖かった。



 屋上の鍵は開いてなかった。

 ノブをひねってドアを押すと同時に、さぁっと乾いた風が踊り場に吹き込んだ。

 今は一時限目の最中。

 麻琴は他の教室から見えない位置に移動した。もたれ掛かった柵をずるずると滑り落ちて座り込む。このまま先生の授業になんて出られない。


「何……やってん、の。もう、授業始まってんぞ」


 途中途中、息を飲み込みながら久瀬がこちらに歩いてきた。体育祭の借り物競争では全く息切れをしていなかったのに。


「久瀬くんだって出てないじゃん」


 自分を追っかけてくれたらしいのはわかったが、素直になれず久瀬をなじった。


「急に走ってったら心配するだろ」


 カシャン。

 麻琴の隣の柵に久瀬がもたれ掛かる。


「久瀬くんの言ったことホントだった。先生、女の人と一緒だった」


 先程わかったばかりの事実を告げる。久瀬の返事はない。


「なんかわかんなくなっちゃった」


 しばらくの沈黙の後。


「このままどっか行く?」


 久瀬が口を開いた。その提案に麻琴は二つ返事で受ける。


「そうしよっかなぁ……先生のいないとこに行きたい」



 休み時間になってしまう前に学校を抜けだした。かと言って制服姿で行けるところは限られる。午前中からうろうろしていれば補導されるのがオチだ。

 そうして辿り着いた場所は、堤防沿いの河原だった。


「さむっ……」


 コートを着込んでいても川沿いの風は身を切るように痛い。当然だ。雪が降ってもおかしくない気温なのだ。


「もうやめればいいじゃん」


 聞き返さなくても何のことかはわかりきっていた。


「やめたいけど好きだったの長いからなぁ……」


 麻琴はスマートフォンのストラップを空にかざした。突然、ストラップの飾りが激しく揺れた。


「くぜ、くん……?」


 それは息苦しいほどの抱擁。

 空にかざした手はそのまま。


「協力するよ、櫻井が泣かなくて済むように」


 麻琴の頬を雫がつたっていく。久瀬のコートについた染みがどんどん濃く広がっていく。


「今一生分泣けば、しばらく泣くのやめようって思うんじゃないの?」

「ふ……っなにそれ」

「笑うなよ、泣け」

「そこは笑えって言うのが普通でしょ」

「俺にはこれが普通なの」

「ふっ…くっ……」


 その言葉を皮切りに堪らえきれかったものが溢れ出した。

 久瀬は黙ったまま、麻琴が泣いている間ずっと頭を撫でていた。

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