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さやかに密か  作者: 青依 ヒイナ
第1集 香 ほのめく
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1. 忍ぶれど

 “忍ぶれど色に()でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで”


 ――ずっと秘密にしていたのに「恋してる?」と人に聞かれるほどわかりやすく顔に出ていたみたい。


 わずか31文字で構成された世界。

 限られた文字数で表現するために考えられた枕詞や掛詞の雅さとセンスに惹かれた。

 それから古文が好きになり、和歌のやりとりが多い平安時代が好きになった。

 そして歴史も好きになった。


 *


 徐々に近付く秋は肌に感じる風でわかる。ひんやりとした空気に長袖の上から撫でられる度に身震いがする。

 そろそろ朝だけでもブレザーが着たいと思う、そんな頃。


「ねぇ、先生」

「……」


 始業時間前の社会科準備室。

 社会科教諭は学校に何名も常勤しているというのに部屋を使っているのは1名。歴史教師が占拠している。

 そこへ毎日のように通う女子生徒が一人。


日下(くさか)先生」


 先程から名前を呼んでいるのに全くこちらを気にする風もない。

 端正な顔立ちによく似合う細身のハーフリムでレンズの上部両端が少し尖った眼鏡。常に袖や襟の先までピシッとアイロンの当たったシャツ。

 ひとしきり眺めてんふふと笑うとやっと日下が麻琴に(いぶか)しげに顔を向けた。

 居住まいを正して可愛くにっこりと笑い直したのに、日下は何の反応も示さずまたパソコンに視線を戻した。

 軽く溜息をつきたくなった。とはいえ、いつものことなのでそれほどダメージは受けていない。

 麻琴はそのまま視線を落とし、彼の鞄に焦点を合わせた。

 あれ? ない。

 誕生日に日下にプレゼントした自分とお揃いのストラップ。

 つけてくれたときはやっと日下の領域に入れたのだと嬉しかったのに。

 慌てた麻琴が視線を上に戻していくと、机の上に置かれた携帯電話に見慣れたストラップが付いている。

 なんだ、付け替えただけか。

 ちゃんと身につけてくれていることが確認できるとホッとした。


(たすく)くん」


 嬉しくなって名前で呼んでみる。

 キーボードを操作する日下の手が止まった。


「ちゃんと聞こえているのでそう何度も呼ばないでください」


 少しだけ(かす)れた声。ずれてもいないのにブリッジを抑える癖。たぶん自分にしかわからない、かすかな違いだけれど。


「照れたの? ね、もしかして先生照れてるの?」


 まだ慣れない名前の響きに、麻琴自身も照れが抜けないと言うのは黙っておくことにする。


「黙らないと強制的に静かにさせますよ」


 大きな手が伸びてきて麻琴の口を塞いだ。それと同時に日下との距離が一気に縮まる。

 彼に触れられた場所が熱を持つ。

 懲らしめの為の視線なのだろうが、日下に射抜くように見つめられてはどうしていいかわからない。

 ここで視線を外したらきっと意識しているのがバレてしまうだろう。それは負けを認めたようで嫌だった。

 自分から近づくことには慣れている。けれどこれは反則だ。だって息の仕方がわからなくなる。

 動かなくなった麻琴を見て日下はふさいでいた右手を離した。


「……もう止まった」


 ふさがれる前に言おうとした言葉が今更漏れた。


「櫻井さん」

「はい」


 急に名前を呼ばれて声がオクターブ高くなった。


「大丈夫ですか?」

「な、何がでしょう?」


 先生のお陰で全然ちっとも大丈夫なんかじゃない。

 無駄だとはわかっていながら早鐘のように打つ鼓動を麻琴は必死に両手で押さえる。


「辛くないですか? 今の状況は」


 何を確認しているのかわからず、麻琴は首をかしげた。


「僕たちのことです」


 麻琴と日下が付き合っているという事実。

 決して許されるはずのない教師と生徒の関係。


「僕はこの仕事を気に入っていますし、この仕事を失いたくありません」


 好きなのはいつも麻琴の方ばかり。

 自分のことで取り乱すことのない日下を見る(たび)、麻琴は(むな)しくなる。

 淡々と事実を述べる日下をじとっと睨んだ。


「自分のことばっかり」


 思わず不満が溢れた。

 呆れたように日下がゆっくり息を吐いた。


「あなたの為ですよ」


 麻琴には全く見当がつかない。

 わからないとすぐに認めるのは(しゃく)だがわからないものはわからない。


「どういう意味?」

「わからないならわからないままで構いませんよ」


 今度は浅い溜息を吐いて向こうを向く日下。更に呆れられている。

 麻琴がぷぅっと頬を膨らませた。

顔は見えていないはずなのに,日下がクスリと笑った。

 付き合うようになってから日下の笑顔を見るのが増えた。


「僕は大人です。何かが起こってもある程度の対処はできます。けどあなたは弱いでしょう?」


 そう言う日下を麻琴はずるいと思う。

 理解できないことはすぐに子どもだからと線を引く。そうしてごまかされていることくらいわかっている。答えはわからなくても。

 日下がいつになく真面目な顔をして麻琴に向き直った。


「あなたが僕に関することで困ったことや悩むことがあっても、僕はすぐに手を貸すことができません」

「わかってます」


 そんなことは日下と一緒にいられることに比べれば取るに足らないことだ。


「だから1人。櫻井さんが信用できる人になら、僕たちのことを話しても構いません」


 日下からの予想外の提案に、麻琴の目が丸くなった。


「ほんとに?」

「ただ、誰に伝えたかだけ教えて下さいね」

「はい!」


 嬉しそうに笑う麻琴を見て日下が少し笑った。


「さて、手ぶらで帰るというのも変でしょうし、これでも運んでもらいましょうか」

「はーい」


 日下の机に近付いたところで麻琴が何かに足を引っ掛けた。

 プツン。

 床に転がった麻琴が申し訳無さそうに日下を見上げた。


「……またですか?」


 日下の所有するノートパソコンのバッテリーの持ちは悪く相変わらず充電できないまま。

常にケーブルを差したままでないと電源が切れてしまう。


「またです」

「すみません先生」


 換気の為に開けた窓からはキンモクセイの香る風が吹いてくる。

 それなのに社会科準備室の空気はなかなか良くならなかった。


 *


「話したいことがあるんだけどいいかな?」


 お昼休みになるや否や、麻琴は親友の腕を引っ張り、教室の外へ連れ出した。自分の知る限り一番人通りのない場所へ。

 麻琴たちのクラスから一番遠い図書室のある棟へ向かう途中の渡り廊下まで来ると2人の歩みが止まる。

 特別教室ばかりで形成されているD棟手前の渡り廊下は人気が少ない。


「なんかそわそわしてるのは知ってたよ。そのことなんでしょ?」


 柚月(ゆづき)が見透かすような眼差しを麻琴に向ける。


「うん。あのね、私、日下先生と付き合ってるの」


 自分でも驚くほどスラスラと口から出た。ずっと言いたくて仕方がなかったのだと思う。


「え?」


 麻琴の声が聞こえなかったわけではない。

 人間誰しも有り得ないことが起こると聞き返してしまうものだ。


「だから、日下先生と付き合ってる」


 麻琴の目は至って真剣だ。

 これが現実だと自分の頭に浸透させるように柚月は1つずつ麻琴に確認をする。


「いつから」

「えっと……1学期の終わり?」

「なんで夏休みの間に言わなかったのよ」


 柚月は(いきどお)りを感じたのか少々語気が荒くなる。


「だって柚月、勉強だバイトだって暇なかったじゃん」


 柚月の剣幕に物怖(ものお)じしない麻琴。平然としている麻琴に柚月は額に手をやった。しばらく考え込んでから顔を上げた。


「まぁ。ずっと見てたもんね、先生のこと」

「柚月気づいてたの?」


 ――先生のことは詳しく話したことがなかったのに。

 不思議そうに首をかしげる麻琴に対して柚月は淡々と理由を告げる。


「ほとんどの教科が平均的なのに,歴史だけずば抜けて成績がいいなんておかしいから」

「なんでそういう言い方しかできないかなぁ……」


 柚月に不平を言いながらも口角は上がりっぱなしだ。そんな麻琴を見ながら柚月は疑問をぶつける。


「私だとしてもバレちゃまずいでしょ、やっぱり。なんで今更?」


 麻琴は少し恥ずかしそうに答えた。


「柚月に知ってて欲しかったんだ。それに先生が手助けしてくれる人を味方につけなさいって」

「意外と甘々ね、あの歴史教師も」


 楽しそうに笑う柚月を麻琴が不思議そうに見つめた。


「協力、してくれる?」


麻琴が神妙な面持(おもも)で小さく手を合わせた。

柚月は少し考え込むと仕方ないなという風に軽く息をついた。


「あんただけで対処できるか不安だからね」

「やった! ありがとう柚月」


 嬉しくて柚月に飛びついた。

 普段なら迷惑だと剥がしに掛かる柚月だが今日は背中を優しくポンポンと叩いてくれる。


「想いが伝わって良かったね」


 柚月がそう言うと。


「うん!」


 それはもう、柚月もつられてしまうくらいの満面の笑みが返ってきた。



 職員室に用がある、と柚月とそのまま別れた。教室へ戻る途中で柱の影から白い何かがチラっと見えた。

 誰かいる。

 通り過ぎざま怪しまれないように目だけを動かして顔を確かめる。確か、同じクラスの男子。接点もなく話したこともない。

 麻琴はそのまま前を通り過ぎた。


「今のホント?」


 自分に話し掛けられたのだと気付くまでに少し時間が掛かった。

 ゆっくりと振り返ると白いヘッドフォンを首に掛けた男子生徒がこちらを見ている。

 他に誰もいないこの廊下で自分じゃないというのは無理があった。


「同じクラスの……誰だっけ?」

久瀬圭吾(くぜ けいご)。ってか2年になってもう秋だけど。あんたクラスメイト覚える気ないだろ」


 ヘッドホンを首に掛け、柱を背にする彼は少し威圧感があった。


「そんなことは……」


 呆れたようにこちらを見る視線と威圧感に麻琴は一歩下がった。


「まぁ興味が教師に向いてたら生徒に向くわけないか」


 久瀬がぽつりと言った言葉に、さーっと血の気が引く音がする。冗談ではなく。


「何のこと?」

「先生と付き合ってるって話」


 最善を尽くして場所と時間を選んだというのに。

 柚月に話せることが嬉しくて周囲の確認を怠った自分に嫌気がさした。


「な、何言ってるの久瀬くん。そんな嘘みたいな話あるわけが」


 慌てて発する麻琴の言葉よりも早く久瀬の言葉が重なる。


「あるんでしょ? ばっちし聞こえてた。なんならスマホに録音もあるけど」


 久瀬が録音アプリの画面をゆっくりと向ける。


「……うそ」


 頭の中は真っ白。


「嘘」


 目をパチパチした麻琴の視線の先に悪びれた様子1つも見せない久瀬。

 うそ? どこからが?

 みんなに、学校にバレたら先生と一緒にもういられなくなる。それどころか先生が私の傍からいなくなってしまうかもしれない。

 突然降りかかった災厄に頭が処理するのを拒否している。


「協力してやろっか」


 災厄を振り撒いた人物は、更に斜め上の提案をしてきた。


「面白そうだから」


 必死に隠そうとしていることを面白いと言った人物は言いたいことだけ言って去っていった。

 麻琴は久瀬の背中を見ながら怖がっていいのか、怒るべきなのかわからなかった。


 *


 翌日は学校へ行くのがひどく気が重かった。

 学校中に日下とのことが広まっていたらと考えると麻琴は一睡もできなかった。

 1時間目は歴史の授業だというのに日下の声がちっとも頭に入ってこない。

 眠気を覚ますためにトイレで顔を洗って教室へ向かう途中で声を掛けられた。


「ねぇ?」


 その声に条件反射で身構えてしまう。顔は動かさずに視線の端で姿を(とら)える。

 久瀬は壁に背を預けたまま、麻琴と視線を合わせることもなく言葉を続けた。


「疲れない?」


 主語のない彼の話し方は掴みどころがない。

 昨日のように乗せられて話すとうっかり地雷を踏んでしまうかもしれない。恐る恐る返事をする。


「何に対してかわからないよ」


 ここはとぼけることにした。右手を胸の前でぎゅっと握る。


「見返りほとんどないじゃん」


 麻琴の苦し(まぎ)れのごまかしは彼に効いていないようだ。それよりも否定の言葉に腹が立った。


「そんな、こと、ない」


 はぐらかそうとしても更に畳み掛けられてしまう。余計なことを喋らないように話すと片言になってしまう。

 最近認識した久瀬との接点など日下以外にないのだ。

 仕方なく彼の話を聞くことにした。幸い休み時間で騒がしいし、渡り廊下の外に面した方を向いて話せば他の人間には聞かれにくいはず。

 麻琴は渡り廊下の端まで移動すると手すりに両腕をかけた。久瀬も少し遅れて麻琴を追い掛けてきた。上履きを少しずって歩く音が近付いてくる。

 階下を覗くとバスケの3on3をしているのが見えた。


「強がってもいいことないんじゃないの?」


 麻琴と同じ方向へ向かって久瀬が話し始めた。

 協力するといった手前、気を使ってくれてらしい。それでも挑発してくるような物言いにいくらか苛立ちが募るけれど。


「先生が私を好きだってことがわかってるからいいの」


 決定的な言葉だと麻琴は思った。これなら文句はないだろう。


「へぇ、日下に好きだって言われたんだ」


 久瀬は顔色を変えず麻琴に視線をやった。

 麻琴の短絡的な策は簡単に崩された。

 ――告白のようなものはあったけれど、そういえばまだ1度も言われたことがない。


「もしかして、ないの?」


 すぐさま肯定の言葉がないまま真っ直ぐ前を見つめる麻琴に久瀬が疑問をぶつけた。


「あるもん」


 そう言った麻琴の顔がひきつっている


「あんたわかりやすいね」


 久瀬が音もなく笑う。やっぱりハッタリは通用しなかった。

 ムッとしながらも確認の意味も込めて久瀬に問う。


「久瀬くんは私の味方なんじゃないの?」

「ああ、あれね。秘密を守ることに協力するって約束しただけ。教師と生徒が付き合ってるなんてこんな面白そうなこと広めちゃったら、この先どうなるのか見れないでしょ」


 興味本位。

 自分たちのことがバレてしまったら、どんな風に見られるのか怖くて想像したことがなかった。

 何も知らないくせに、興味だけで勝手な見方をされるのがこんなにも悔しいことだなんて知らなかった。


「そんな顔すんな。悪かったよ。ちょっとからかっただけ」


 久瀬は言い過ぎたと思ったのか謝罪をするが、麻琴は下を向いたままだ。


「……不安で仕方ないのになんでそんなこと言うの」

「やっぱ強がってたんじゃん」


 さっきまでの軽いトーンから打って変わった声色。

 それを皮切りにぽた、ぽたと渡り廊下の灰色の地面に丸い染みが広がって更に濃い色になっていく。


「羨ましいわ、あんたが」


 久瀬が親指の腹でそっと麻琴の涙を拭って呟いた。

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