今日の散歩は長かった
佐藤美紀の一日は、朝の散歩で幕を開ける。
元々は二度寝防止のため、仕方なく始めた散歩。
しかしそれは一年前のことだ。
現在の美紀にとって、その散歩も数少ない楽しみのひとつになっていた。
とりあえず目を覚ました美紀は、起き上がってから携帯のアラームを確認する。
「八分前か……。新記録ね」
アラームより早起きするのも、彼女の中でブームらしい。
今度こそベッドから降りた美紀は、身支度を整えはじめた。その合間で朝食を温めたり、朝刊を取ってきたりする動きは早い。
三十分も経たないうちに朝食を平らげた美紀は、朝刊を流し読みした。
「物価の上昇に連続強盗か、不景気ね。じゃなくてテレビ欄……あ、四コマだ」
彼女の場合は、流し読んでもないのだが。
時計の針が五時半を指した頃、美紀はジャケットを羽織って外に出た。
同時に朝特有の冷たい風が、美紀を迎える。
足取りは重く、彼女の表情からは苦痛しか見受けられない。それでも帰る気はないらしく、やがて美紀の前に小さな公園が見えてきた。
その公園は、彼女の散歩には欠かせない休憩地点だ。
自販機の種類も豊富だし、手入れされた花壇も見ていて飽きない。
その中でも彼女が特に愛用しているのは……。
「うそでしょ……」
美紀お気に入りの二人掛けベンチ、毎朝あれを独り占めして優越感に浸るのも彼女の日課だ。
しかしそれを阻止するように、そのベンチに座っている者たちがいた。寄り添うようにして座る二人は、どちらも白髪交じりの頭をした男女だった。美紀から見たそれは、仲良さげな老夫婦そのものだ。
この公園にはベンチがひとつしかない。それはつまり、美紀が強引に割り込みでもしない限り、ベンチには座れないことを示している。
(ま、帰りには座れるでしょ)
少しだけ落胆した様子で、美紀は黙って公園を後にした。
美紀の歩く道は毎日違っていた。最初はあの公園を訪れる、最後もあの公園に寄る。この二点だけは変わらないのだが、そこに至るまでの経緯は完全にランダムだ。
そんな美紀が今歩いているのは、商店街のアーケードだ。今はまだ閑散としているが、日中以外は驚くほどに活気づいている。彼女自身も仕事帰りによく通るのだが、夜中にもかかわらず商店がすべて開いているのだ。美紀はこの商店街を『健全な歓楽街』と呼んでいる。
彼女がその静かな空気を堪能しつつ歩いていると、前方から犬を連れた青年がやってきた。
美紀は知る由もないが、その青年の名は久保浩。実はある重大決心のもと、彼は犬の散歩をしていた。
実はこの青年、お笑い芸人なのだ。空いた時間はすべてバイトに費やし、なんとか生計を立てながら有名になるべく努力を重ねていた。
しかし彼は最近悩んでいた。このままお笑い芸人を目指すべきか、諦めて安定した職を見つけるか。
ここまでの努力を無駄にする勇気も、先の見えない夢を追いかけ続ける自信も青年は持っていなかった。だから彼は、とある賭けに出ることにしたのだ。
「おはようございます」
美紀は必ず、散歩中に会った人には挨拶をする。それはほぼ無意識の領域だ。
「漫談します!」
だから美紀は、まさか自分の挨拶からこのような展開になるとは思いもしなかった。
青年は選手宣誓でもするかのごとく、大声で叫んでから勝手に喋りはじめたのだ。
美紀は当惑していた。彼女自身、まったく状況が把握できていないのだろう。美紀は男を止めることも、その場から逃げ出すこともできず途方に暮れていた。
ひとまず冷静になろうと、美紀はその青年から視線を外した。かわりに、彼の足元で退屈そうにしている犬が彼女の目に入る。
それは、ダックスフンドだった。長い胴と短い足を器用に折りたたんで座っている。
美紀はその犬をしばらく観察していた、しっぽから顔まであますとこなくだ。
そのうち美紀は青年が意気揚々と話しているのを忘れ、いつしか犬の方にばかり興味を引かれた。
「……はい! ありがとうございました」
青年がまた一際大きな声を出したので、美紀はようやく青年に意識を戻した。もちろん彼女は彼の話など、ほとんど聞いていない。
美紀は黙っていた。青年も黙っていた。互いが何も言わずにいると、例のダックスフンドが一鳴きした。
そこで我に返った美紀は、たまらなくこの場を離れたくなった。
しかし青年は美紀のことをずっと見つめている。まるで何かを待っているようだ。
その何かが分からない彼女は、少し思案してから強硬手段を取ることにした。
「そこの犬、変わった体型で面白いですね。し、失礼します!」
それだけ言って、美紀は逃走した。突拍子もない発言に青年が面食らっているすきに逃げ出す。
彼女の思いつきの作戦は、案外うまく成功したのだ。
美紀は何も考えず、一目散に逃げだした。
「ああいう、人って、本当に、いるんだ…………。防犯ブザーでも、買おうかな」
全力で走っていた美紀は、商店街が途切れたところでようやく立ち止まった。
念のため彼女は振り返ったが、そこに青年の姿はなく静かな商店街が広がっているだけだ。
引き返すわけにもいかない美紀は、仕方なく遠回りして家に帰ることにした。
商店街から西に曲がり、道なりに進む。
美紀がこちらの道を歩くことは少ない。
というのもこの道は、大型スーパーやコンビニが密集しており人通りや交通量も多い。
そのせいで朝は通勤ラッシュで、夜は帰宅ラッシュでかなり混雑する。
美紀はそういう混雑を非常に嫌っており、また敬遠している。
だから必要な買い物も商店街で済ませ、必要以上にこの道を避けているのだ。
それでもさすがに、今の時間帯はすいていた。
信号はもう働いていたが、それを利用する車も人もまだいない。
コンビニが並んでいる場所だけ明るい道を、数人の人間が行き来するくらいだ。
その背景に溶けこむようにして、美紀は黙って歩く。
時たま誰かにすれ違うこともあったが、彼女はいつものように挨拶をしなかった。
またあんなことになったら困る、美紀はもう帰ることしか念頭に置いていなかったのだ。
「あ、すみません」
今度は誰かと肩がぶつかったらしい。
美紀は即座に謝ったのだが、相手はそれを無視して素通りした。
「なによ……あれ、感じ悪い」
肩の辺りを払いながら、美紀はその相手の背中を睨む。
一分くらいそうしていた美紀は、やがて諦めたように俯いた。
すると、彼女は地面に何かが落ちていることに気が付いた。
美紀にぶつかった相手は、とにかく急いでいた。
重そうなレジ袋を両手に持ち、その人物は早歩きをしていた。
やがてその人物がたどり着いたのは、小さなアパートだった。
その一室に入った人物は、大急ぎで鍵を閉める。
それから電灯をつけ、持っていた袋を下ろす。
電灯に照らされたのは、薄ら笑いを浮かべた男の顔。
彼はレジ袋の中身を確認してから、尻ポケットに手を入れる。
「…………あれ、ない。携帯がない! どこだ、どこだよ」
静寂に満ちた室内で、彼はそんなことを叫んだ。
スーパー密集地域を抜けると、そこは河川敷に繋がっていた。
美紀は川沿いを通りながら、大きく空気を吸い込む。
彼女はこの河川敷を歩くのが初めてである。
それ以前にこんな所に河川敷があることすら知らなかった美紀は、また新鮮な気持ちで散歩を楽しんでいた。
先ほどまでは暗かった空も、今ではずいぶん明るくなっている。
陽光を反射して光る水面をしり目に、美紀は土手を歩く人たちを眺めていた。
犬の散歩をする人、ジョギングをしている人、自転車で走る人など彼女が描いていた理想の光景がそこにある。
ただそれだけのことが、美紀にはとても幸せに感じられた。
しばらく歩いていると、彼女と同じように川沿いを歩く二人組がやってきた。
「おはようございます」
「「おはようございます」」
お互い挨拶だけをして、すれ違った。
しかし美紀はなんとなく気になり、もう一度その二人の方を振り向く。
「あ…………もしかして公園にいましたか?」
美紀の推測通り、その二人は公園にいた老夫婦だ。
夫の名は石田等、妻の名は石田美智子。
等が定年退職してから、二人はいつも一緒だった。
何をするにもどこへ行くにも、彼らは手を取り合って生きていた。
そんなある日、美智子が病気を患ってしまった。
進行を遅らせることはできても、治療は不可能と医者に言われたのだ。
「美智子、お前がいなくなったら俺は一人だ。生きてても仕方ない」
「何を言いたいのよ、あんた」
「だから、一緒に……」
美紀と老夫婦は水面を見つめながら、いくつかの他愛ない会話をした。
思わず声をかけた美紀だったが、内心では後悔していた。
よく考えれば公園で見かけただけの人たちと、共通の話題があるわけない。
しかしこちらから声をかけた以上、すぐ立ち去るわけにもいかない。
美紀は自分の中にある社交性を必死にかき集めて、老夫婦と話したのだ。
たいした老夫婦の方はさして気にする様子もなく、美紀の言葉に耳を傾けている。
美紀はそれが恥ずかしくもあり、同時にとても嬉しかった。
「若い人とこんなに話すのは久しぶりだ、なあ美智子」
「そうね、あなたと会えてよかったわ。美紀ちゃん」
ちょうど話題が尽きた時、老夫婦は立ち上がりながらそう言った。
そのまま去ろうとする二人に、美紀はまた声をかける。
「いえ、そんな。…………あの、えと、また明日」
彼女は自分の口からついて出た言葉に、驚かずにはいられなかった。
(明日って、またここに散歩くる気なの?)
美紀は今まで、毎日違う道を散歩してきた。
その方が面白いから、という理由もあるがそれだけではない。
彼女は一度会った人に再会するのを嫌っているのだ。
仕事では同僚や上司と、帰ればご近所さんや商店街の人と顔を合わす。
それに美紀は、なんとなく息苦しさを感じている。
見知った人たちだから安心できる、見知った人だからこそ失態は見せられない。
美紀が散歩を始めたのはちょうど、そういうことで悩んでいる時期だった。
最初のうちは平静を装って歩くことに精いっぱいだった美紀。そんな彼女を変えたのは、散歩で出会った赤の他人たちだ。
「おはようございます」
早朝の世界では、みんなが優しくなれる。
知らない人に挨拶をしても返してくれる。
だから美紀でも、積極的に挨拶ができるようになった。
そうして失いかけていた自信を、美紀は取り戻した。
それから彼女は心の平穏を守るため、今日まで散歩を続けてきたのである。
「ありがとう、ありがとう」
「また明日ね、絶対会いましょう」
老夫婦は美紀が思った以上に喜んでくれた。
この様子だと、おそらく明日もここにやってくるのだろう。
断るに断れなくなった美紀は、頬を少し掻いてから二人に頷いた。
しかし不思議な事に、美紀はそれを面倒だとはまったく思わなかった。
老夫婦が帰った後、彼女は最初の公園まで戻ってきた。
念願の二人掛けベンチに腰掛けて、美紀は明日のことを考えていた。
本人は気づいていないのだろうが、それを考えている美紀は心底楽しそうな様子だ。
「おはようございます、お散歩ですか?」
そして、その間の抜けた声により美紀の思考は中断する。
彼女が視線を上げると、そこには警察官らしき男が自転車にまたがっていた。
八塚正太郎は、れっきとした警察官である。
間延びした口調と頼りない顔で偽物と間違われることも多い。
しかし彼は正真正銘、この街の交番に勤める立派な警察官だ。
昔から正義感が強く、警察官になるため人一倍努力し勉強をしていた。
そんな彼が晴れて警察官になったのは、五年前のことだ。
正太郎は今、とある連続強盗犯を追っている。新聞でも騒がれるくらい警察が苦戦している強者だ。
彼は一刻も早く犯人が捕まることを願いながら、今日もパトロールにあたっていたのだ。
「最近日が昇るのも遅いですからね、暗いうちは出歩くのに気を付けてください」
警官は矢継ぎ早にそう言うと、再び自転車のペダルに足をかける。
わざわざ忠告するために、声をかけてくれたのだろうか。そう思って美紀は罪悪感を覚える。
そこでふと、美紀のジャケットのポケットが震えだした。
それは二度、三度震えるとすぐに止まる。不思議に思った美紀は、ポケットに手を突っ込む。
「……あ、そうだ。おまわりさん! ちょっと待ってください」
美紀がそう叫ぶと、警官は驚いて自転車ごと転倒してしまった。
慌てて美紀が助け起こそうとするが、それよりもはやく警官は立ち上がる。
「あはは、びっくりさせてすみません。で、ご用は?」
顔面土まみれの警官に、美紀はいたたまれない気持ちでそれを差し出した。
それは、スーパー密集地域で男とぶつかった時に落ちていた携帯だった。
美紀はそれを拾い、交番に届けるつもりでいたのだ。
その旨を美紀が伝えると、警官はある場所を指さして言った。
「拾得物預かり書だけ、書いてもらえませんか? 交番すぐそこなんで」
美紀が書類を書き終わると、警官はお茶を彼女の前に置いた。
「手間取らせて悪いねー、でも本当に拾得者の権利、放棄でいいのかい?」
警官の言葉に、美紀は頷いてお茶を一気に飲み干した。
そしてすぐに立つと、交番の時計を見てから警官に向き直った。
「ああもうこんな時間か。もういいよ、仕事頑張っておいで」
その日くらいから美紀の散歩は少しずつ変わった。
まずはいつもの公園、そこであの老夫婦と待ち合わせをして一緒に歩くようになった。
そこから商店街を抜け、スーパー集合地域を通り、あの河川敷まで足をのばす。
今日美紀が歩いたルートを、今では三人並んで巡っているようだ。
そして最後にまた公園を訪れると、美紀が落し物で世話になった警官が稀に現れる。
その度に警官は美紀や老夫婦に、安全第一を呼びかけては去っていく。
そして三人はそんな朝のひと時を、楽しんでいた。
美紀が知っている変化はここまでだが、実はもう少し変化していることがある。
例えばお笑い芸人の久保浩。彼は美紀に逃げられた後、複雑な心境のままお笑い芸人を続けることにした。
彼がしたとある賭け、それは至極単純なものだった。
“会った人に漫談を披露して、とにかく「面白い」と言ってもらう”
そんな浩の賭けは成功か失敗かで言えば、成功していた。
これはもはや運命だ。彼はそう割り切って、今日も飼い犬相手にネタを披露している。
例えば美紀と肩がぶつかった謎の男。実はあの男は例の連続強盗犯だったのだが、つい先日あっけなく捕まってしまった。
美紀が拾った彼の携帯に、これからの犯行計画がいくつも書かれていたのだ。
八塚正太郎が尋問にあたった結果、男はすべて自供し今は罪を償っている最中だ。
後は美紀と毎日会っている老夫婦、二人も実はある秘密を抱えていた。
美智子の病気のこと、彼女の余命がそう長くないこと。
そして美紀と出会ったあの日、あの河川敷で夫婦一緒で自害するつもりだったこと。
それを二人が美紀に語る日が来るかどうかはわからない。
ただひとつ言えることは、美紀のとっさの言葉が二人を救ったということだけだ。
それを美紀は知らない。それは逆でも同じことがいえる。
彼女の心の傷を自分たちが癒したことを、老夫婦は知らないのだ。
三人は今日も、お互いを思いやって生きていた。
『また明日』